185 亜月の過去・その4



「おい、亜月。ちょっと立ってみな。

 おまえの顔と体を、しっかりと、おれに見せるんだ」


 人買いの言葉が終わらぬうちに、腰が抜けたように座り込んでいる他の娘たちを尻目に、亜月はすくっと立ち上がった。

 そして言われぬ前に、元気よく、くるりとその場でまわって見せた。


――なんとまあ、小娘のくせして、おれの頭の中を先読みしやがったな。

 肝っ玉が据わっているだけでなく、状況を読む賢さも持ち合わせているようだ。

 こりゃあ、とんだ掘り出しものだってことか。


 それから、確か、あいつは言っていたな。

 あとあと面倒を起こさない親兄弟がなんとか。


 こちらのほうは抜かりはない。

 娘たちを買う時に、重々、親たちには念を押してある。

 売ってしまったもののあとのことを、知りたがるなと。

 いらぬ詮索をすれば、死んだほうがましと思えるほどの痛い思いをするとも――


 亜月が家族と住んでいた、土塊つちくれわらで出来た家とは呼べない小屋を、人買いは思い出した。


 やせ細った生気のない顔をした父親。

 継ぎ接ぎだらけの着物を身に纏った母親。

 土間の隅に置かれた竹籠の中では、少女の何番目の弟か妹かわからぬ赤子が、乳が足りないと泣き続けていた。


 貧しさを絵にかいたような光景だ。


とんびたかを生みやがったに違いねえ」

 思わず呟いた男の声に、その意味のわからぬ亜月が怪訝な顔をする。


「おまえの顔はいただけないが、体は元気そうだってことよ」

 そう言って、男は手を振って亜月を座らせた。


 不作だとばかり思っていたら、この亜月という娘一人で、今回の商売の元が十分取れそうだ。

 人買いは両手でずるりと顔を撫でおろした。

 金儲けの甘い匂いを嗅ぎつけた時、その興奮を鎮めるためのいつもの彼の癖だ。


「どうだ、亜月。

 その名は言えないが、あるお人の屋敷で働いてみないか。

 場末の妓楼で、毎日客を取らされていたら、五年もせぬうちに悪い病気をうつされて死ぬのは目に見えている。


 だがこのお屋敷も、人遣いの荒さでは有名だ。

 折檻で命を落とした奴婢たちの話もよく聞いている。


 だがな、おまえの根性と利発さなら、なんとかやれるんじゃないか。

 おれの人買いとしての経験がそう言っているんだよ。


 人はな、一生のうちで一度か二度は、一か八かの賭けを打ちに出る時があるんだ。

 亜月、おまえはまだ十歳だが、いま、その時が来ていると思え」


 大きな丸い目をぎょろりとひん剝いて、人買いは亜月を見つめた。

 ごくりと音がするほどに生唾を飲み込んで亜月は答えた。


「人買いのおじさん。

 あたし、そのお屋敷で働きます」


「そうだ、亜月。

 その意気だ。

 明日の朝一番で、話をまとめてやろう」


 突然、男は、うまい酒が飲みたくなり女を抱きたくなった。

「急な野暮用を思い出した」

 体を寄せ合っている娘たちを見下ろして男は言った。


「おまえたちの身の振り方は、明日、考えることにする。

 夕飯を食ったら、さっさと寝ちまいな。

 おっ、そうだ。

 ぐっすり眠れるのは今夜が最後だと思って、寝るんだぞ」


 その非情な言葉に、娘たちを閉じ込めている小屋は、再び、泣き声で満ちた。






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