182 亜月の過去・その1
手慣れた素早さで下女は、部屋の隅と縁の端に置かれた燭台に、次々と火を入れていく。ざわざわと揺れ続ける夕暮れ迫る竹林から、音を立てることなく部屋の中を動く下女の若い背中へと、亜月は視線を移した。
この竹林屋敷に、亜月が客人を招待するなどかつてなかったことだ。
しかし下女は、客人の名も素性も訊かない。
また、亜月がこの寂しい竹林屋敷を訪れるのも、一か月に一度あるかないか。
しかしこれもまた、彼女は詮索しない。
そもそも下女は、この屋敷が安陽市中のどこにあるのかも知らないだろう。
馬車に乗せられ、安陽の狭い路地を右に折れ左に折れ、立ち並ぶ蔵の間を縫い隧道に潜ったときは、自分がどこにいるかわからなくなったに違いない。
その日から女は、この竹林屋敷から一歩も出ることなく、いつ来るかわからない女主人のために屋敷の中を整え、そして主人が滞在中は甲斐甲斐しく世話を焼いた。
そしていつかは竹林屋敷の秘密を知り過ぎた存在となって、口封じのために殺され、その冷たい躯は竹林の奥深くに埋められる。
女の背中は、この屋敷で奥さまに仕えていた亜月そのものだ。
奥さまも夕暮れ時になると、いまの亜月のように縁の端に立ち竹林を見つめていた。そして、その後ろで毎夕、彼女は甲斐甲斐しく燭台に火を灯した。
「奥さま、お部屋に戻ってください」
火を灯し終わると、立ち尽くした奥さまに声をかける。
十歳の時に人買いに売られた亜月は、自分が働くようになった屋敷が安陽のどこにあるかも知らなかったが、奥さまの名前も教えてもらえなかった。
それで仕えていた間、彼女は女主人を奥さまと呼んだ。
この謎めいた屋敷は袁家の所有物で、自分が仕えた奥さまはのちに宰相となる開元と正妃となる祥陽の実母であり、心の病のためにここに閉じ込められていると知ったのは、ずっとあとのことだ。
「夜風は体を冷やします。
お風邪を召したら大変です」
本当は、奥さまの体を心配したのではない。
地から生えた緑色の手がざわざわと揺れて、奥さまを呼んでいる。
奥さまの心が引き込まれないかとの不安が、いつも先に立った。
「まあ、亜月は優しい子ですね。
優しい亜月を心配させてはなりませんね」
亜月の声に振り向いた奥さまもまた、その白く美しい顔に笑みを浮かべていつもそう答えた。
奥さまは美しくもあったが、優しくもあった。
亜月を娘のように可愛がった。
自分の手で育てることが出来ない娘の祥陽と、同じ年頃の亜月が奥さまの心の中で重なったのかも知れない。
心の病が落ち着いている時には、亜月に字と礼儀作法と生きていく上での知恵を教えてくれた。静寂と退屈しかないこの屋敷だったが、時間と書物だけは充分にあったのだ。
その後、奥さまの心は完全に壊れて、凄惨な大事件を起こしたあと、自らも命を絶った。
そのことが外に漏れないようにと、その時に屋敷で働いていたものたちは、袁開元に皆殺しされた。亜月一人が生き残れたのは、役に立つと女だと開元に思われたからだ。
没落したとはいえ、奥さまの生家は王族だ。
その奥さまが、この屋敷で十五年をかけて亜月に教えたものは、後宮で正妃に仕える侍女として通用するほどのものだった。
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