167 承将軍、杖刑王妃と対決する・その14




――最近、お渡りのない天子さまであるのに。

 よりにもよって、このような時に、なぜに?――


 さすがの亜月も動揺を隠しきれなかった。


 天界の海原と例えられる玉砂利の美しい中庭が、砂塵と木々の葉で散らかったさまは言い訳が出来る。しかし、長年の犠牲者たちが流した血が染みついている杖刑台と、血を吐き死んでいる宦官の死体は、いまさら隠しようもない。


「亜月、天子さまをお迎えするのに、いつまで、そこに立っているつもりか?」


 将軍の声で亜月は我に返った。

 呆然と立っている正妃の袖を引くと、天子を迎えるために足早に階段を降りた。

 足がもつれる。

 承将軍が苦笑するのが見える。


――先ほどの伝令は、天子さまの到着を報告していたのか。

 すべて、そのための猿芝居であり、時間稼ぎだったのだ。

 それを見抜けなかったとは、なんとうかつであったことか――







 建国五百年を迎えた第三十二代の天子は、三人の宦官を先導に女官五人を引き連れて、その姿を現した。


 この季節にふさわしい薄青色の涼やかな長衣をゆったりと身に纏っている。

 後宮の妃とくつろぐ時の姿だ。

 しかしながら、慌てて平伏した正妃宮の誰もが、正妃宮でくつろごうとして天子が訪れたのではないことにすぐに気づいた。


 複雑に高く結い上げ金銀と夥しい真珠で飾った頭を、正妃はぐっと上げる。

 妃となるべくして生まれそのように育てられ、嫁いだこの十年は、後宮でその権勢を思うままに振るってきた。


 目の前にいるのは天子とは名ばかりの、生まれながらに病弱で袁家を怖れる哀れな一人の男ではないか。

 丁寧な物言いとは裏腹に、まるで手なずけた子犬にかける声で彼女は言った。


「天子さま。

 正妃宮へのお久しぶりのお渡りを、嬉しく思います。

 しかしながら、突然に吹き荒れた旋風のために、ここはあまりにも散らかっております。


 お部屋にお入りくださいませ。

 お茶を用意させますゆえに」


 そして振り返る。

 あとは亜月に任せればよい。

 彼女に任せて、うまくいかなかったことが今までにあっただろうか。


「亜月、何をしているのです?

 早く、皆のものに命令を下しなさい」


 しかしながら正妃が見たものは、皺だらけの瞼の下に埋もれた細い目を見開き、押し黙っている亜月の顔だった。


 正妃の背中に天子が言った。


「なんとおぞましい」


 その声のあまりの冷たさに、首筋に氷が押し当てられたと正妃は思った。

「えっ?」


「聞こえぬのか。

 わたしはおぞましいと言ったのだ」


 老いた容姿に似合わぬ素早さで天子の足元にすり寄った亜月が、深々と平伏するのが目の端に見える。


「天子さまに申し上げます。

 ここで起きたことは、正妃さまはあずかり知らぬことにございます。

 すべてはこのわたくしが、正妃さまには無断でなしたことにございます」


「黙れ、亜月!

 わたしは正妃と話しているのだ。

 立場をわきまえよ」


 そう言い放った男は、正妃や亜月が知っている今までの天子ではない。


 白麗の笛の音で、長年にわたって彼を苦しめてきた悪夢から解き放たれた。

 そして、天子としての責務を思い出し、威厳を取り戻した男だった。









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