135 宮中に響き渡る笛の音・その3



 英卓を慕っている女主人の気持ちを知っている萬姜の声がとがった。


「英卓さま!」


 怪訝な顔をした英卓が振り返る。

 萬姜は英卓を睨むと、言葉を続けた。


「冬花さまが、白麗さまの笛の音をご所望でございます」


 萬姜の機嫌の悪さを察した英卓が目を逸らし、そういう時のいつもの癖で鼻の横を掻く。その英卓よりも先に、女が馴れ馴れしい口調で答えた。


「英卓さま、冬花お祖母さまだけではありませんわ。

 白麗さまの笛の音は、天界の調べとも、また、聴けば寿命が延びるとも聞いております。承家の屋敷のものたち、皆、白麗さまの笛音を聴けると、この日を楽しみにしておりました」


 威厳を取り戻した英卓が、千夏に向かって片手で拱手する。

 そして、ことさらへりくだった物言いで答えた。


「千夏さま、そのお言葉はありがたく存じますが、この麗はなかなかに気まぐれ者にて頑固者にございます。

 さて、素直に、承家の皆さまの前で笛を吹く気になりますか、どうか」


 そう言い終えた英卓は視線を白麗に移し、優しく笑いかける。

 自分の顔の持つ魅力を知っている男の笑みだ。


……お嬢さま、騙されてはなりません! 

 英卓さまのいつもの手でございます!……


 萬姜は心の中で叫んだが、すでに遅い。

 人の言葉が理解できず、記憶もざるから落ちる水のように留めておくことの出来ない少女は、男と女の駆け引きにも疎い。

 自分の美しさの魅力を知らぬ少女の顔に輝くような笑みが広がる。


 つっと伸ばした英卓の指が、少女の頬に触れる。

 ゆっくりとその肌を滑り降りた指は少女の口元で止まった。


 一瞬、男の顔が陰った。

 それは空を鳴き交わしながら飛ぶ鳥が陽射しをさえぎったせいだと、千夏と萬姜は思った。

 突然襲ってきた耐え難い頭痛を、男が追いやったのだとは知る由もない。


 英卓は触れていた白く滑らかな頬をきゅっと捻りあげる。


「甘い菓子をたらふく食って満足という顔だな。

 しかしだな、麗。

 犬猫でも、食い物の礼はするものだ。

 食い逃げは恥だと思え」


 驚いて涙目になった少女が意味もわからずに頷き、千夏が黄色い悲鳴を上げる。


「英卓さま、まあ、なんてことを!

 可愛いお妹さまのお顔を抓るとは!」


「千夏さま、ご安心ください。

 どうやら、麗が笛を吹く気になったようです」


 その時、峰貴文と徐平に見とれて自分たちの職分を忘れていた数人の侍女が、「千夏さま、千夏さま」と口々に叫びながら、小走りに駆けてきた。


「おまえたち、遅いではありませんか。

 何をしていたのです?」


 かしずかれることに慣れたものの口調で、千夏は侍女を叱責する。

 そして言葉を続けた。


「冬花お祖母さまのご所望で、白麗さまが笛を吹かれるのです。

 まずは、お嬢さまの御髪と着物を整えてさしあげなくては。

 では、英卓さま、失礼いたします。

 また、のちほどお会いいたしましょう」


 白麗の手を引いた千夏の後を、神妙な面持ちの侍女たちが続く。


 萬姜もそのあとに続こうとして、一人の侍女と肩がぶつかった。

 いや、向こうからわざとぶつかって来たのだ。

 白麗を取り囲む輪から、萬姜ははじき出されてよろめいた。


 その女は言った。

「白麗さまのことは、わたくし共にお任せください」



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