111 嬉児と峰新・その9
その夜、萬姜は嬉児を正面に座らせた。
「今日のこと、峰さまが英卓さまと允陶さまに話を通してくださっているので、おまえを叱ることはしませんよ。
でも、どうして、おまえはそのように銭が欲しいの?
不自由はさせてないと思っていたのは、この母だけだったようですね」
生意気盛りな年頃で、言い負かされるのを何よりも嫌う。
どんな時にも、考えるよりも先に口が動く嬉児だ。
しかし今夜はだんまりを押し通すつもりか、彼女の口はかたく閉じられている。
二人の間には、小さな甕が置かれていた。
嬉児が厨房より貰ってきた、もとは酒の入っていた甕だ。
注ぎ口は紅い布で覆われ、紐で固く結ばれている。
いつもは、お気に入りの玩具とともに木の箱の中に仕舞われていた。
甕を持ち上げて、萬姜は振った。
甕の底で、銅銭が転がりぶつかり合う音がする。
からからと軽い音からしても、その金額は知れている。
この音の中には、今日の昼、峰新と名乗る男の子からせしめた銭も入っていた。
白麗が笛を吹くであろう日と時間を、嬉児が文にして門番に渡しておく。
それは絶対に確実とは言えない情報ではあった。それでも、なんの当てもなく床几を並べるよりも、峰新にとって効率がよいのは事実だ。
床几賃の二割を嬉児が受け取ることで、事は決着した。
最近、嬉児が自分の目を盗むようにして、小銭を稼ぎ出したことに、萬姜は薄々気づいてはいた。
「ちょっと銭を渡して、嬉児ちゃんにお手伝いしてもらったよ。
あっ、萬姜さんには内緒だと、嬉児ちゃんに言われていたんだ」
何度か、下働きのものに言われたことがある。
それは皆に可愛がってもらっているからだと思っていた。
しかし、今日起きたことは、もはや見過ごすことは出来ない。
白麗に仕える身でありながら、お嬢さまを見世物にしてしまった。
「どうしても言いたくないのであれば、それはそれでいいのですよ。
しかし、このお屋敷で、これ以上お勤めを続けることは出来ません。
今夜中に荷物をまとめて出て行きましょう」
その言葉に、さすがの嬉児も顔色が変わった。
「だって、だって……」
頑なに見えていただけで、抱えた秘密ごとにその心は限界にまで耐えていたのだろう。萬姜に抱きつくとうわぁっと泣きじゃくった。
「……、範連お兄ちゃんが、お勉強の本が欲しいけれど、高くて買えないって言っていたから……」
いつだったか、医師になるために勉学に励んでいる範連が、「欲しい本があるのだけれど、高くて買えない」とこぼしていた。
英卓さまか允陶さまに、いや永先生に言えば、本の一冊くらいなんとかなるかも知れない。
しかし甘えてばかりでは、範連の将来によくはないだろう。
「そのうちに、母がなんとか工面しましょう」と、答えたことがある。
「お母さまとお兄ちゃんの話を聞いてしまったのね。
そのために、銭を溜めていたと?」
母の胸の中で激しく泣きじゃくりながらも、嬉児は何度も頷く。
そして嗚咽をこらえながら嬉児は言った。
「嬉児はちゃんと答えたのだから、お屋敷を出て行かないよね。
白麗お姉ちゃんとお別れしなくてもいいよね?」
すがって泣くじゃくる我が子の背中を撫でながら、萬姜は答えた。
「あなたの優しい想いに気づかなかった母は、本当に愚かでしたね」
そしてまたこの時、彼女は悟ったのだ。
この子は、きっとこの才覚と優しさのために、家族に別れを告げて旅立つ日がそう遠くないうちに来るに違いないと。
やはり、白い髪のお嬢さまは気まぐれだった。
嬉児の情報は外れることのほうが多い。
しかしながら情報が的中した時は、嬉児に払う二割など惜しいとも思えないほどの心づけが峰新の懐に入る。
そしてまた時々、門番は嬉児からの文以外に竹籠をくれる。
その中には饅頭や菓子が入っていた。
そして、時には門の前に、満面の笑みを浮かべた嬉児が立っていることある。
彼女の手には、小さな綿入れの着物や底の厚い履物があった。
この年の冬も安陽の寒さは厳しかった。
しかし、十三年生きてきた峰新が初めて経験する心の温もりだった。
<嬉児と峰新>・終わり
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