107 嬉児と峰新・その5
「おい、待て!
嬉児、どこへ行くつもりだ?」
門番の呼び止める声と同時に、大きな手も伸びてきた。
しかし、嬉児はひょいと頭を下げてその手から逃れ、門の外へと飛び出した。
だが、嬉児のあとを追った白麗は別の手に抱き取られた。
そして、門の陰に引き寄せられる。
「白麗ちゃん、あなたは行かないほうがいいわ。
ここであたしと一緒に、新ちゃんと嬉児ちゃんのお手並み拝見といきましょうね」
そして貴文は、如賢にも「静かにしてね」と、紅く塗った唇にもう一方の手の長い指をそえて合図を送る。
その合図にすべてを察した如賢は、門の陰に身を寄せて貴文の横に立った。
「峰さん、これは面白くなりそうだ」
如賢は小声で囁く。
貴文も頷きながら答えた。
「うちの新ちゃんも大人顔負けにしたたかだけれど。
口の達者さでは、嬉児ちゃんも負けてはいないわね」
男二人の会話が理解できたのか。
白麗が大きく頷いたので、貴文は彼女の腰に絡めていた手をゆるめた。
二人揃って首を伸ばし、門の外を伺う。
安陽一の美しい男の懐に抱かれた、青陵国一美しい少女。
眼福、眼福……と、如賢は思わず呟く。
しかしやがて彼の目も、門の外で繰り広げられる、嬉児と峰新の賑やかな口喧嘩に引き込まれていった。
荷車から床几を下ろす子に、それを並べる子。
さっそく床几に座った老人から、銭を集める子。
門前の道で繰り広げられるそのさまを、嬉児は見た。
<白麗おねえちゃんの笛の音で商売をする>とは、こういうことなのか。
賢い彼女はすぐに理解できた。
小さい子たちに指示をしている年かさの男の子の後ろに、嬉児は立つ。
両手を腰に当てて精一杯に胸を張る。
「そこのあんた、名前はなんというの?」
……煩い門番を黙らせたら、次は女か?
おれは忙しいんだ。
くそ、いい加減にしてくれ……
きんきんと甲高い声に、峰新は背中を向けたままだんまりを決め込んだ。
「あんた、ここで何をしているの?」
再び、女は訊いてくる。
引き下がる気はないようだ。
背中を見せたまま、峰新は答えた。
「おまえな、人に名前を聞くんだったら、まずは自分の名前を言え。
それからな、同時に二つの質問はするな」
「それは悪かったわね。
あたしの名前は嬉児。
それで、初めの質問よ。あんたの名前は?」
女のしつこさに、聞えよがしの溜息を一つ漏らして峰新は振り返った。
背の高さが彼の肩ほどの女の子が、丸い目を見開いて彼を睨みつけている。
「おれの名をそれほど知りたいのか。
しかたがないなあ、名乗ってやるか。おれの名はな、峰……」
峰新は、最後まで言えなかった。
槍を振りかざしている大人にでさえ、ひるむことなく挑発の言葉を吐き続ける彼の口だった。
それが、この時、なぜ言葉に詰まったのか。
その後、十三歳の彼は何度も考えたが、答えは見つからなかった。
思い出すと、胸の奥がちくりと痛む。
しかし、それは不愉快な痛みではない。
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