099 杖刑王妃と斬首宰相・その9



 池のほとりに建てられている四阿あずまやは、六十年を過ぎても、形だけはかろうじて保っていた。


 黄金色の瓦は長年の風雨にさらされて輝きを失い、冬の落ち葉と変わらぬ色だ。

 漆で美しく彩色されていたであろう柱と腰板もまた色を失い、朽ちた倒木と変わらぬさまとなっている。


 頭上に張り出した木の枝をくぐると、四阿あずまやに佇む三人の男の姿が、歩む亜月からも見えた。


 いかにも武人らしい格好の二人は立ち、一人は座って後ろ姿を見せている。

 立っている男の一人が座っている男に近づき、その耳元に何事かを囁きかけた。

 亜月の到来を告げているのであろう。


 座っている男が鷹揚に頷く。

 同時に、頭上高くにある夏の陽射しを受けて、男の金色の冠が輝いた。


……天子さまでも、あのように大仰な冠は被ってはおられないものを。

 なんと、身の程知らずの愚かな男であることよ……


 男たちに聞きとがめられない距離であることを測って、亜月は音を立てて舌を打つ。






 


「袁宰相さまにはご機嫌麗しく、この亜月、喜びに堪えません」


「おお、亜月。よくぞ来てくれた。

 暑い最中、ここまでの道中、さぞ難儀なことであったろう」


 座ったままで応える袁開元の着物の衿元は、汗で色が変わっていた。

 つるりとした髭の薄い顔にも、玉のような汗が浮いている。

 まだ三十代半ばという若さであるのに、美食と怠惰な生活で彼は豚のように太っていた。


 立っている男二人はすっと離れて、四阿の外に出て行く。

 宰相と亜月の話を立ち聞かないようにとの配慮だろう。


「いいえ、いいえ。

 宰相さまのお召しとあれば、このくらいことは造作もないこと」

「堅苦しい挨拶はいらぬ。亜月よ、まずは座れ」


 朽ちかけた四阿には相応しくないみごとな白磁の椅子を、開元は顎をしゃくって勧めた。白磁の椅子は清流の水のように冷たく、座ったものの体をたちどころに冷やす。


「お坊ちゃま、お言葉に甘えさせていただきます」

 座ってほっと一息つくと彼女は言い、そして言い直した。

「あらあら、袁宰相さまでございました……」


「謝ることはない。

 おまえにとって、おれは、いつまでもお坊ちゃまなのだからな」


 袁開元はそう言いながら、しぼんだような小さな体でゆるゆると座った、目の前の老いた女の顔をまじまじと見つめた。


 亜月は、彼と妹・祥陽の母の下女だった。

 母が袁家に嫁いできたときに、亜月も母と一緒に袁家に来たと聞いている。

 

 下女というよりは、母にとっては仲のよい遊び相手であり相談相手だった。

 母が若くして死んでしまったあとは、彼と祥陽の母親代わりとなった。

 そして、入内した祥陽とともに宮中に入り、いまは正妃となった祥陽と第六皇子の世話に明け暮れている。


 百歳を超えていると言われれば、疑うことなく信じてしまいそうな目の前の亜月の顔だ。


 しかし開元は、この老女の若い顔をうっすらとではあるが覚えている。

 死んだ母と同い年であったのだから、当然だ。

 ある日突然、亜月の人相が変わり、彼女は得体の知れない老女となった。



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