091 杖刑王妃と斬首宰相・その1



「黙れ、黙れ、黙れ!」


 第一王妃である正妃の住む宮の奥で、女の叫び声が響きわたった。

 しかし叫んだだけでは、女の燃え盛るような怒りは収まりようもなかったようだ。


 脇机に置かれた茶椀を掴んで、女は目の前でひれ伏す若い宦官に投げつけた。

 薄青色の美しい玉石を透けるほどに薄く彫り抜いた茶碗は、茉莉花ジャスミン茶のよい香りを漂わせたまま、宙を飛んだ。


 女の狙いは正確で、宦官の肩先にぶつかる。

 宦官の薄鼠色の官服が濡れて色が変わり、高価な茶碗は硬い床を転がって真二つに割れた。


「なんと、承将軍が、北方の守りより都に戻って来るとは。

 それもよりにもよって、六十年ぶりに禁軍の将軍に返り咲いただと。

 そのようなたわごと、聞きたくもない」


「わたしは、正妃さまにそのようにお伝えするようにと、袁宰相さまに言われただけでございます」


「我が兄上がそのように言えといったと? 

 天子さまの正妃であるわたしのもとに、自分で来ないで使いのものをよこして言わせるとは、どうなっているのだ?」


「お許しください。

 詳しいことは、わたくしは何も知りません」


「それにしても、兄上がお傍についていながら……。

 なぜに、天子さまにそのようなことを勝手に決めさせた?」


「先々代の天子さまが今上天子さまの夢枕に現れて、承将軍を安陽に戻すようにと命じられたとか。

 昨年に第二皇子が亡くなられたあと、この春には第三皇子があとを追うように亡くなられました。相次ぐ不幸に、もともとお体の丈夫でない天子さまの、お心が弱くなられておられます。

 止めようがなかったと、袁宰相さまが言われておりました」


「何も知らないと言っておきながら、よく知っているではないか」


 踏み潰されたさながらに、宦官は床にその体を平たく投げ出して叫ぶ。


「申し訳ございません。申し訳ございません。

 死に値する罪でございます。

 どうか、わたくしめに罰を!」


「己の罪がわかっているというのだな。

 誰か、このものを杖で三十回、叩きのめせ」


「正妃さま、正妃さま、お許しを。どうかどうか、お許しを。

 わたくしめは、袁宰相さまのお言葉をお伝えにきただけでございます」


「ええい、煩い!

 このものの杖刑を五十回に増やせ!」


 部屋の隅で頭を垂れていた二人の宦官が素早く動き、泣き叫ぶ宦官を両側から抱えて引きずって行く。

 女の前にひれ伏した女官の一人が、声を震わせて言った。


「お静まりください、正妃さま」


 その後ろで同じくひれ伏した六人の女官たちが、いっせいに同じ言葉を唱和する。

「お静まりください、正妃さま」


 しかしそれは女の怒りの炎に油を注ぐ。

 投げつけるものはないかと座ったまま見回して、足元を見た。

 怒りで震える手で靴を脱ぐと、それを女官めがけて投げつけた。


 今度も狙いは正確で、赤い絹張りに金銀の糸で刺繍した瀟洒な靴は、先頭の女官の頭にあたって跳ね返った。


 女は金切り声で叫んだ。

 

「なにが袁宰相さまだ。

 我が兄上ながら、あまりにも情けない。

 あの世で、お祖父さまはさぞ無念な想いであるに違いない。

 ああ、お父上さまが生きていてくだされば、愚かな兄上を諫めてくださったであろうに……」


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