089 第五皇子と雲流先生の出会い・その4
十五年前に真実を言ったために車裂きの刑に処せられた父を、雲流は思い出した。
当時の父は、小さな田舎町で自宅を学び舎にして、近隣の子どもたちに読み書きを教えていた。それで満足していてくれたらと、何度、思ったことか。
そうすれば、自分も身重の妻に、離縁状を送ることもなかった。生まれてきた子をこの腕に抱けたであろうし、その後も何人かの子に恵まれたことだろう。
そして、父のあとを継いで小さな学び舎の師となっていたか、運がよければ官学校で教える身分となれたかもしれない。
しかし、役人の横暴をしたためた訴状を懐にして安陽に旅立つ時に、父は言った。
「知識というものに身をささげると決め、学者を名乗るからには、相手が子どもであれ国の天子さまであれ、己の知識に嘘をつくことは出来ない。
たとえ、命を取られようとも」
幸いにも、部屋の中には雲流と第五皇子の二人だけだ。
初対面の二人が、忌憚なくその腹の底を見せ合って語りあえるようにという、老師の深慮だ。
「人の命に限りがあるように、国にも必ず命の限りがあります。
残念ながら、青陵国もいつかは亡びるでしょう。
しかし、人の命と違って国の命は、それが何十年なのか、何百年なのか、何千年なのかは、誰にもわかりません。
賢明な天子さまの統治の下で、青陵国がこの先何千年も栄えますように、祈るばかりでございます」
答え終わった雲流は、
皇子は鷹揚に頷いた。
雲流の答えに満足したというよりは、この話題をこれ以上続けてはならないことを彼は知っている。
再び、皇子は墨で汚れた指先を見つめた。
そして顔を上げた。
その顔からは思いつめた表情は消えている。
それは師に教えを請う無邪気な少年の顔に戻っていた。
「雲流先生、文字というものは不思議なものだと思います」
雲流もまた柔らかな笑みを浮かべて、皇子を見つめて言った。
「ほう……、なぜに、皇子はそのように思われるのですか?」
「文字があるから、ここにこのような形をして青陵国があると、先生に教えてもらえるからです。
文字がなければ、青陵国のまわりにどのような国があるのか、そして青陵国にある町の名も覚えきれません。
こうして書いておけば、忘れた時に見直せば思い出すことができます」
「皇子、よいことに気づかれた。
人は二本の足で中華大陸の大地をよりどころにして立っていますが、その人の営みは文字をよりどころにして立っています。
文字がなければ、せっかくに得た知識を後世に伝えることはできないでしょう。
昨日と同じ日々を繰り返すしかありません。
この中華大陸は天界の神が戯れに創られて、その姿を自分たちに似せた人を住まわせたと、いにしえからの言い伝えにあります。
文字も神が人に下されたものではないかと、私は思っています。
文字にして記録し残すことで、昨日より今日、今日より明日を、よい日々にして過ごせと……。
ただ、書を読み解いておりますと、文字を下された神の恩恵を忘れ、人は文字をよからぬことに使ってきたのではないかと、多々感じることがあります。
残念でなりません」
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