053 英卓、黒イタチより白麗を奪還する・7
高い塀に囲まれたその民家は、黒イタチの根城近くにある。
白麗奪還に備えて、沈老人が借り上げた家だ。
武具に身をかためた数十人が音もなく出て行った時、その家の中も外も真っ暗だった。
しかし今は、そこかしこに赤々と篝火が焚かれ、昼間のように明るい。
そして、肉の焦げるよい匂い、酒の匂いも漂っている。
命をかけて討ち入ったもの達の生還を歓待する準備に怠りはない。
半刻過ぎて、白麗が救出されたとの知らせに、留守を守っていたものたちの間から歓声があがった。
魁堂鉄に抱かれている血濡れた白麗を見ても、さすがに医師の但州は動じることがなかった。長年の医師としての経験で、血は白麗のものではないと一目で見破ったのだろう。
少女の首筋に指を当てその脈を診て、彼は言った。
「萬姜に命じて、すでに湯の用意はしている。
まずは血を洗い流さねば。はやく、お嬢さんを運べ」
しかし、下働きのもの達を指示していて、迎えに出遅れた允陶は違った。
堂鉄に抱きかかえられた少女の顔や髪が血で染まっているのを見て、彼は驚愕のあまりに後ずさり、その背をしたたかに壁にぶつけた。
そのまま足は萎えて、ずるずると腰が抜ける。
荘興に抱きかかえられるようにして、慶央の荘本家の屋敷に初めて来た時の少女の顔。あの時の心もとなくも諦観さえにじませた少女の美しい横顔に、心が奪われてから三年。
荘興のように妻にしたいなどと願ったこともない。
英卓のように少女に慕われるなど、この先、百年生きようが有り得ないこともわかっている。
少女の笑った顔、もの問いたげな顔。
癇癪を起した時の顔でさえ愛らしい。
走馬灯のごとく脳裏を駆け巡る。
座り込んで虚ろな目をした允陶の前を、少女を抱いた堂鉄とその後ろに続く英卓が足早に過ぎて行く。
しかし、しんがりの徐平が允陶の前で足を止めた。
彼は屈託のない笑顔を見せて、弓を持っていない右手を差しだした。
「允陶さん、大丈夫ですか?
お嬢さまは、堂鉄さんに当て身をくらって、気を失っておられるだけです。
あの血は、宝成に斬られた梅鈴のものです」
徐平の言葉に、允陶は吐くことすら忘れていた息を、安堵の思いと一緒に大きく吐きだした。
そして、差し出された徐平の手を、目の前の小蠅を追うように払う。
「この数日の忙しさで、疲れが出てしまった。
少々、足がもつれたようだ」
允陶はゆっくりと立ち上がった。
遠くで、指図を仰ぐために彼を呼ぶ声がしている。
英卓は目の前で閉じられている板戸を睨みつけたまま立っていた。
戸の向こうからは、白麗の体を洗い流しているらしい水音が聞こえてくる。
黒イタチの根城に戻って、しなければならない後始末がある。
しかし、永但州の口から白麗の無事を聞くまでは、ここを動く気はない。
もし、白麗の体に髪の毛一筋の傷でもあれば、すぐに取って返し、すでに首のない黒イタチの体であろうと切り刻むつもりでいた。
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