君と、知らない夜を歩く

天尾友哉

第1話 赫い目の女

1-1

「なあ、赫い目の女のうわさって、知ってるか」


 ぼくは微睡まどろみから醒めた。

 眠たい午後の教室で、後ろの席の阿久津がささやいた。


 教壇では数学教師の高谷が、蚯蚓みみずののたくったような筆跡で、黒板に数式を書き並べている。昨年着任したばかりの新人教師だ。前歴は不明だが、齢は三十も半ばといったところか。紆余曲折を経てようやく母校の教師になれてうれしいと自己紹介したことを覚えているが――


 擁護のしようもない程に独りよがりな授業だった。黒板を見ている者はひとりもいない。携帯を弄ったり、午睡を貪る程度ならまだ良心的な生徒だ。教室の後方では賭けポーカーに興じる者たちの騒ぎ声が、背を丸めてチョークを叩く孤独な数学教師の小声をかき消していた。


「おい、ゆう。聞こえない振りするなよ。聞いたことあんの、ないの」


 阿久津が、無言を貫こうとするぼくの背中を、ごりごりと拳でした。


「痛いな」ぼくは阿久津の拳を後ろ手で払う。「知らないよ。どうせ阿久津の作り話だろう。そうやって怖がる子を口説くのが定石だって前に言っていたじゃないか」

「人聞きが悪いな……まあ、とりあえず聞けよ」


 いわく。

 深夜零時を回る頃――山沿いの国道を走るクルマがあった。若い男女のカップルが乗っていた。車内の雰囲気は最悪だった。二人が初めて遠出をした帰り道だったが、ディナーの席で少し揉めていたのだ。疲れもあってか、それから一切の無言が続いていた。


 やがてクルマはトンネルに入る。山をくりぬいて作られた、近辺では最も長大でふるいトンネルだった。


「そのトンネルってまさか、Nトンネルなのか?」ぼくが言うと、

「ああ。あそこのことだよ」阿久津が頷く。


 随分とローカルなネタだな――そう感じると、阿久津の話が奇妙なリアリティを帯びた気がした。


 何しろ、Nトンネルには以前から「出る」という噂がある。夜にクルマで通ると、バンパーに無数の手形がつけられるとか、窓を開けて走っていると、女の絶叫が聞こえてくるとか、そんな話を挙げれば切りがない。決して全国区の心霊スポットではないが、地元の人間はあまり近づかない。


「クルマがトンネルに入って、ちょうど中ほどまで来た時だった……」


 道の端をライトがかすめた瞬間――白いものが見えた。


 人が、倒れていた。

 白い服を着た、女のようだった。


 気づいた時には、女の姿が景色の後ろに流れていく。男は顔色を変え、隣の彼女が小さく叫ぶ。トンネルを出たところで停車して、二人はようやく顔を見合わせた。


「出た、ということかな」ぼくの疑問に、

「さあねえ」阿久津は答えない。「まあそんなものが見えたということは、カップルは二人とも疲労していたし、興奮もしていたということさ」


男は戻って見て来ようという。彼女は嫌がる。

なぜ嫌なのかと男が問うと彼女は――

倒れた女と目が合った、爛爛と光る、赫い目だった、

と、言う。


――赫い目の女など、生きた人間ではない。


彼女は自らの手で肩を抱き、震えていた。

ライトの反射を勘違いしたのだろう、と男は言い捨てて、自分だけでも見に行くことにした。路肩に停めたクルマを降りると、車内に青い顔の彼女を残したまま、男はトンネルに戻った。


「よく戻る気になったな。幽霊なんだろう?」

「男を駆り立てた理由は二つあったんだ。一つは、その女は幽霊とは思えないくらい明確な姿かたちをしていたこと。はだけた白いスカートから剥き出しになった太腿や、倒れた傍に放り出された白い靴が車内からでも見えたくらいにな。そしてもう一つは、その女が滅茶苦茶な美人だったってことだ」


 この世のものでないくらいに奇麗な女が、深夜のトンネルで一人倒れている――

 もしも、幽霊だとしても。

 一度はこの目ではっきり見たいというのが、男のさがなのかもしれない。


「男は携帯をライト代わりにして、トンネルを進んだんだけど……」


 気づけば、トンネルから出ていた。

 女を探すうちに、通り抜けてしまったのだ。

 来た道を戻る。トンネルの中間地点で見たはずなのに、影も形も消え失せている。側溝やガードレールの向こうに広がる茂みを探したが、いない。反対車線にも見当たらない。


 男は途端に寒気を感じ、走って、停めてあるクルマまで戻ってきた。ドアを開け、エンジンをかけて、発進した。アクセルをべた踏みして、無我夢中になって、ようやく、街の明かりが見える処までやってきた。

 そうして、男ははたと気が付いたんだ。


「バックミラーあたりに、女の顔でもべったりと張り付いていたのか?」

「いや、はずれ」


 ――彼女がいなくなってたんだよ。

 阿久津の話はそこで終わった。待ちかねていたかのように、教室のざわめきが一斉にぼくの耳に舞い戻ってきた。誰かが賭けポーカーで大負けしたらしく、じゃれあうような悲鳴が聞こえた。


「奇麗な幽霊のおみ足を探していたら、身近な生者を失ったという話さ」

「彼女は男に愛想を尽かしてひとりで帰ってしまったのかな」

「Nトンネルは県境とは言え、街まで近いからね。歩けない距離じゃないし、可能性はあるかもな。ただ、妙なオチがあって……その後、彼女とは連絡が取れず仕舞いなんだってさ。元よりSNSで知り合った仲だから会えなくても困らないみたいだが」

「彼女も幽霊だったんじゃないか」

「案外、そうかも。その可能性には気づかなかったな」阿久津が笑う。

「だけどその話、オチのつかなさといい、作り話とは思えない妙なリアリティがあるな」


 所詮は噂。根も葉もない都市伝説にしては、だが。


「作り話じゃないっての。ぼくも今の彼女から聞いたんだよ。図書委員の後藤先輩っていうんだけど、知ってる? 彼女も人づてに聞いたらしいよ」

「お前も変わらないな……」


 阿久津のような女好きは、うちの高校においては類を見ないほど珍しかった。とはいえ、こいつの悪癖を知っているのは、腐れ縁であるこのぼくくらいのものだろう。傍目からすると、ルックスの良さも相まって、それなりに品行方正に見える得な性分をしている。


「ゆう、余計なお世話だよ。人の裸を見たことがあるからといって、何もかも知ったようなことを言うなよ」

「それは、幼稚園にも入る前の、一緒に裸でプールに飛び込んでいた頃の話だろ」


 それはさておきなんだけどさ、と阿久津は話を区切ると、


「この赫い目の女って、四、五年前にも同じような噂が広まったことがあるみたいなんだよ。そこが不思議に思えてさ。ゆうは知ってたか?」

「いや、今日が初耳だな。四、五年前と言えば、ぼくたちは小学五、六年生か。あの頃、ぼくたちは何をしていたかな」

「ああ」阿久津がいたずらげに口の端を上げた。「ゆうが、例の先輩とデキたのもそのあたりからだよな」


 五年前――

 ぼくはふいに思い出す。

 否、思い出すという表現には語弊がある。

 ぼくは覚え続けている。

 ぼくが彼女と契約を交わした日のことを。

 あれから、五年間。

 ぼくは彼女のためだけに命を続けてきた。


「付き合ってるんだろ? なあ、どこまで進んだ?」


一応は授業中ということで、ここまでそれなりに密やかな声で話してきたぼくたちだったのだが、阿久津はやや身を乗り出して、後ろの席からぼくの顔を覗き込んできた。


「……別に、ぼくと先輩はそんな関係じゃないよ」

「マジかあ? 放課後も一緒に帰るところをよく見るんだけどな」


 笑う阿久津。間近でこいつのにやけた面を見るのは久しぶりだった。整った顔をしているのに、とにかく残念な奴だと、この頃はとみに思う。本人は、人前では自重していると豪語しているが、どこまでが本当なものか。


「ああ、今日も帰りは一緒の予定だよ」

「ほらぁ! やっぱりデキてんじゃん」


 阿久津の声に、何人かの生徒がぼくたちに目を向けた。ぼくは阿久津を静かに睨む。阿久津は茶化すように首をすくめると、乗り出していた身体を引っ込めた。ぼくは前の黒板に顔を向けなおした。


 壇上では、数学教師の高谷が、のろいの呪文を唱えるかのように誰の耳にも届かない授業を続けていた。

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