#2
すずかちゃんに『声』を解決する手段として、『声』を描くことを勧められた。昔から人は怪異を絵に描いて形にしていたらしい。それが妖怪やあやかしと呼ばれる存在でもあると教えてくれた。テレビや絵本で見た怪異が耳の中にいるかと思うと、不思議と怖さの中に親しみが湧いてきた。
久しぶりにうずうずした。すずかちゃんと別れて帰宅して、夕食をとりながらテレビを見ているときも、お風呂に浸かっているときも、『声』の形を考えていた。
あのとき見た『声』は、トンネルの暗闇の色が集まった何かだった。ぐちゃぐちゃの黒色のクレヨンを思い出すと、耳元で囁かれたしおりちゃんの冷めたい声が蘇る。鉛筆を持った手が固まる。私はもう絵を描いたらだめなんだと、押し込めていた感情がとぐろを巻くように上がってくる。額を机につけて、私は瞼を瞑った。
今も絵は好きですか。
答えはとっくに決まっていたのに、私は誤魔化してしまった。
「好きだよ」
だからこんなに苦しいんだ。
魔法のクレヨンはしばらく見ていない。嫌な記憶を掘り返したくなくて、クレヨンの箱を押し入れにしまった。
でも、『声』を描くなら魔法のクレヨンで描きたい。
体を起こし、押し入れに目をやる。借家に引っ越してから、私の部屋はフローリングから畳になった。学習机や本棚やお気に入りの猫のぬいぐるみや畳んでいない敷き布団が、狭い部屋で窮屈そうにしている。すぐに必要でないものは、段ボールごと押し入れにしまった。整理しようと思いながらまだできていない。
押し入れに近づき襖を開けると、ひんやりとした空気と押し入れ特有のじめっとした匂いがした。「宝物」と描いた段ボール箱を引っ張り出す。
私は息を吸い込んでから、意を決して段ボール箱を開けた。箱には遊ばなくなった古い玩具が乱雑に詰められていた。懐かしさで目的から逸れそうになったが、振り払うように底に入れたクレヨンを探した。
けれど、クレヨンが見当たらない。中身を全て出してみたが、見慣れたプラスチックの箱はでてこなかった。
魔法のクレヨンがない。
まさか、引っ越しする際に積み忘れたのだろうか。見落としていないかもう一度確認するがどこにもない。箱をひっくり返してもでてこなかった。両親にクレヨンを見なかったか聞いてみたが、望んだ答えは返ってこなかった。
翌朝、暗い顔で登校した私にすずかちゃんが声をかけてくれた。
「おはようございます。顔色が悪いですが大丈夫ですか?」
心配げに顔を覗き込むすずかちゃんの優しさに、鼻の奥がつんとした。昨夜、泣きながら探したが結局見つからなかった。泣き腫らした目で登校した私の顔はさらにぶさいくになっていた。
「あ、あのね、クレヨンがっ」
すずかちゃんに説明しようとした途端、声が震えだし、目が潤んだ。
きっと魔法のクレヨンは怒ったんだ。大事に使わなかった私に呆れて、どこか遠いところに行ってしまったんだ。それはトンネルの向こう側で、異界で、ブランコで飛んでも手に届きそうで届かないところなのだろう。
朝から泣きだす私に、すずかちゃんは優しく背中を撫でてくれた。
授業は上の空だった。
板書を写していないノートにぼんやりと視線を落とす。そういえば、『声』の形を描いていなかった。深く考えもせず、シャープペンシルでぐりぐりと黒い丸を描いてみる。黒のクレヨンで塗ったようなあの物体は、これよりもっと黒かった。近づくように黒く黒く厚く塗る。何もかも飲み込んでしまいそうなほど大きかったけれど、形を持つなら小さめのほうがいい。そうだ。掌ぐらいのものにしよう。直径三センチの黒の球体を描いてから、私は手足をつけてみた。某人間のようなひょろ長い手足は、クレヨンで線を引いたときと同じ太さだ。そう、私の耳に入り込んだあれのように。
描き終えてからはっとした。私は何を描いていたんだろう。ただの黒い丸に手足をつけただけじゃないか。これは絵じゃない。落書きだ。消しゴムに手を伸ばすと、手は宙を掴んだ。
「あれ……」
そこには消しゴムではなく、消しゴムを持ち上げた物体がいた。真っ黒な直径三センチの丸い体に、ひょろ長いクレヨンで描いたような手足を持った生き物。
黒い物体から人の口が浮かび、歯茎を見せて笑った。
消しゴムを持ったまま、それはぴょんと机を飛び降りた。
「待って!」
突然、席を立った私にクラスの視線が集まる。
「どうかした?」
担任の女性の先生がきょとんとしていた。
「あ、いえ、その」
かたかたかたかた。私の机が小刻みに揺れ始めた。地震かと思ったが足元は揺れていない。机を見れば、あの黒い物体が脚を掴んで揺らしていた。しかも一匹だけじゃない。二匹いる。
かたかたかたと隣の席の机も揺れだした。伝染するようにクラスメイトたちの机が揺れ、一気に教室に広まっていく。黒い物体は机だけでは物足りず、椅子も揺らしていた。教室はパニックになっていた。先生が落ち着きなさいと声を荒立てる。
足下にいる黒色の物体は、皆、見えていないらしい。
「……ポルターガイスト」
するりと耳に入ってきた呟き声に振り向けば、後ろの右の席に石崎和斗君が立っていた。彼は私を一瞥したあと、視線を別の席へ投げる。
その先にいたのは、すずかちゃんだった。
すずかちゃんは見定めるように、じっと自分の机の脚を見ていた。
彼女の口が静かに開く。
「やなり」
その声は離れた席にいた私に、響くように届いた。
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