#5

 あの騒動後、下校時間にしおりちゃんは私の腕を掴んで教室から連れ出した。どこに行くのと尋ねても無言のしおりちゃんが怖かった。連れて来られたのは美術室だ。電気をつけず、薄暗い特別教室で「正座して」と床を指した。

 背もたれがない質素な木製の椅子に視線を投げたが、床ではないと駄目らしい。無言の圧力に負けて私は言う通りに正座した。

「下手くそ」

 第一声は罵倒だった。

「あたしより絵が下手なくせに、いい気にならないでよ」

 鋭く抉るような冷たい言葉が突き刺さった。私の絵をそう思っていたなんて知らなかった。思い返せば、「上手」や「好き」と言われた記憶がない。憤然と私を見下ろすしおりちゃんの中では、私たちの絵は対等ではなかったのだ。

「あんたはいいよね。おばあちゃんに褒められて。お母さんとお父さんも絵を描くなって言わないんでしょ? いい身分だよね」

 しおりちゃんの家では、アニメや漫画といった娯楽を禁止されていた。それでも好きだからこっそり見ていると愚痴を零していた。絵もそうだ。両親は彼女の絵を褒めない。漫画家になれば、自分の絵を認めてくれるかもしれないと話していた。

「あのさ、空気を読んでよ。あたしが今までどんな気持ちであんたといたと思う?」

 しおりちゃんは震え声だった。潤んだ目に睨みつけられ、私は項垂れた。彼女の事情を知っていたのに、重たく捉えず気遣わなかった。無意識に彼女を傷つけてしまった。

「わかってくれると思ったのに!」

 頭に何かがぶつけられる。床に折れた黒色のクレヨンが転がっていた。震える手で拾おうとした途端、足で踏みつけられた。

「卑怯者!」

「ご、ごめんなさい」

 手の甲を踵で押さえつけられる。痛いと訴えれば、しおりちゃんは鼻で笑ってから足を上げた。じんじんと痛む手は赤くなっている。

「謝るなら誠意を見せて」

「誠意……?」

「そんなこともわからないの?」

 腰に手を当てたしおりちゃんは、怒っているはずなのに口角が上がっていた。私が宿題が解けないときもこんな表情になる。今ならわかる。丸い目にうっすらと浮かんでいたのは、優越感だったのだろう。

「お母さんがいつも言っていることだよ。本当に悪いと思っているなら、もうしませんって誠意を見せるの。あんたは嘘をついてまで賞を取った。あたしを裏切った」

 背負っていたランドセルを勝手に開け、何かを取り出してから乱暴に床に叩きつけた。

 かしゃんと見慣れたプラスチックの箱が開き、中身が散らばる。それは十二色の魔法のクレヨンだった。

「クレヨン。全部、折って」

「そ、それは」

「今すぐ!!」

 怒声に身を竦め、私は近くに落ちていた白色のクレヨンを掴んだ。

「早くして」

「で、できないよ……」

 おばあちゃんとの思い出が詰まった宝物を、折れるわけがない。堪えきれなくなった私は泣きだした。できないと何度も頭を振り、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっても、しおりちゃんは口を開かず無感情に私を見下ろしていた。

「それじゃあ、手伝ってあげる」

 しばらく泣いていると優しい声が降ってきた。酷く冷えた私の手にしおりちゃんの手が重ねられる。よかった。機嫌を直してくれたんだ。しおりちゃんはにこにこ笑いながら私にクレヨンを握らせ、耳元で囁いた。

「あたししか友達がいないくせに、図々しいんだよ」

 ばきっ。

「一本目」

 何が起こったのか理解できなかった。両手を広げれば、折れた白色のクレヨンがあった。

「二本目だよ。頑張って一緒に折ろうね」

 黄色のクレヨンを握らされる。抵抗もできず、ぼたぼたと涙を落としている私の耳にしおりちゃんは囁いた。

「ぶっさいくな顔」

 ばきっ。

 折るたびに、しおりちゃんは私の耳元で悪態をついた。

 三本目、四本目、五本目と折っていく。床に折れたクレヨンが転がっていく。おばあちゃんとの思い出が、しおりちゃんとの思い出が、私の絵が、折れるたびに否定されていく。

「や、やめて……」

 私のかすかな拒絶は、しおりちゃんの耳に届かない。私の声は届かない。これ以上、しおりちゃんの声を聞きたくなかった。耳を塞いで逃げたかった。でも、逃げたらもっと酷いことをされるかもしれない。その恐怖が私の体を硬直させていた。

 かたかたと何かが鳴る音が聞こえた。クレヨンの箱が揺れていた。しおりちゃんは気づいていないのか、鼻歌を歌いながら折れたクレヨンを私の前に並べている。床に叩きつけられたとき、クレヨンの箱は開いたはずだった。しおりちゃんは箱を閉めていない。私は動けない。

「最後は赤色だよ!」

 しおりちゃんは赤色のクレヨンを私の掌に置いた。

「一番好きな色だよね。これを折れば、無事にクレヨンを卒業できるよ。よかったね!」

 何がよかったというのだろう。だけど、口答えは許されなかった。赤色のクレヨン。おばあちゃんが好きな色。これだけは折りたくない。黙っているとしおりちゃんは私に握らせ、手の甲に爪を立てて折れと視線で促してくる。

「早く」

 しおりちゃんから笑顔が消える。

 クレヨンの箱が鳴り止み、かたっと音がした。閉まったクレヨンの箱が少し開いている。

 箱から見えた隙間は、真っ黒だった。

 まるで、黒色のクレヨンで塗り潰したように。

「黒のクレヨンは……」

 しおりちゃんは怪訝な顔をした。

「は? 何言っているの。もう折ったじゃない」

 でもと、私は言えなかった。

 だって、しおりちゃんの背後に、黒のクレヨンで落書きして固めたような、大きな黒い塊があったのだ。

 目を逸らせず悲鳴もだせず、どこか見覚えのあるそれを、呆けたように見つめるしかできなかった。黒い塊は複数の囁きを集めたような『声』を発していた。外国語を聞いた感覚と似ている。わかるようでわからない別の言語を話していた。耳を澄ませても聞き取れない。私には理解できない。

 あなたも、誰にも聞いてもらえないのね。

「やるよ」

 しおりちゃんの手が重ねられる。

 ばきっと赤色のクレヨンが呆気なく折れた。

 その瞬間、黒い塊が弾けるように広がった。『声』が周囲の音を上書きして、美術室を覆ってしまった。黒い塊から、クレヨンで描いたような分厚い線が伸びていく。それは私の耳に触れた。耳の中に、ごりっと異物を入れられた気がした。何か喋っているはずのしおりちゃんの声が徐々に遠くなり、優しくて甘い『声』が私を占領していく。どうやらこれが見えるのは私だけらしい。しおりちゃんが何かを言っているようだけど、その言葉は届かなかった。

 手には折れた赤色のクレヨンがある。おばあちゃんがくれた大切な魔法のクレヨン。あんなに大事にしていたのに、他人事のように酷くどうでもよくなっていた。

 でも、散らかしたものは片づけないと先生に叱られてしまう。気だるげにクレヨンを拾い上げ、乱雑に箱に詰めてからランドセルにしまった。美術室の扉を開けた途端、しおりちゃんに蹴飛ばされて派手に転んだ。

 振り向くと、目を潤ませて睨みつける彼女がいた。どうしてこの子はこんなに怒っているんだろう。人のクレヨンを折ったくせに、まだ懲りないのだろうか。大きく口を開いて叫んでいても、私には全く聞こえなかった。さわさわと心地よい『声』だけが私の世界を覆っている。もっと聞きたい。もっと欲しい。邪魔をするしおりちゃんが鬱陶しくて仕方がなかった。

 面倒臭いなぁ。

 起き上がった私は、しおりちゃんがどうすれば離れていくか考え、すぐに思いついた。

 それはとても簡単な答えだった。

「私は、あなたを友達だと認めない」

 友達、やめちゃえばいいんだ。

 しおりちゃんは動揺した。見るからにショックを受けていた。人を散々傷つけておきながら、自分が傷つけられるなんて思わなかったのだろう。いいなぁ、そういうの。ずるいなぁ。しおりちゃんの口真似をしてみたけれど、ちっとも面白くなかった。

 別れを告げず廊下を歩く。さわさわと『声』と共にあの黒色のクレヨンの塊がついてきた。不思議と怖くはない。懐かしさすら感じた。

 それもそうだ。私はこの黒い塊を知っている。

 ぱっくりと何もかも飲み込みそうな黒色は、私が描いたトンネルの色だったのだから。

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