サンドウィッチの男
延期
第1話 朝が来る
ああ、朝が来る。
眩しいほどに光る朝が来る。
カーテンの隙間から私は曙光に煌めく町並みを見た。
町並みを見て「綺麗だけどね」と隣で徹が笑う。彼が「だけど」の続きで言いたいことはさっぱり分からなかったけど、私には問題ない。何故なら私には彼が関係ないからだ。私が彼を愛しているという事が大事であって、徹自身には興味ない。こいつは顔が美しくて人当たりが良いだけの男だ。
窓の外を覗く私を引き寄せて徹はキスをする。一拍だけの柔らかさ。甘い時間をじっくりとは味わわせてはくれない。彼と会う時間もそう。私が彼を見切らない頻度。彼が私を迷惑に思わない頻度。徹は全てを分かった上で月に二度、私を抱くのだ。
彼の浮気を知って、それでもずるずると関係を続けて一年が経った。今、私は彼の何番目の彼女なのだろうか。三番目くらいだったらいいのに。
「シャワー浴びよ」
徹が私の手を引いて浴室へと誘う。私はそれに従う。こうやって彼が曖昧に微笑みながら手を取るのが好きで、私は関係を止められないのだと思う。
きっと、シャワーを浴びたら徹は、私が髪を乾かしている間にサンドウィッチを作って弁当箱に詰めるのだ。そして、これを渡して追い出す。私を家から追い出すテクニックであり、私を再び部屋に呼ぶ口実作り、と彼は思っているのだろう。
しかし、それでも良い。彼の段取りに委ねれば良い。彼の家に寄るための交通費の三百円と比べれば、このサービスはお釣りがくるレベルなのだから。
徹がじゃれつきながら私に体を洗わせ終わると、先に泡を流して出ていった。私は彼が十分に料理する時間を取れるように、ゆっくりとシャワーを浴びる。
「未菜~電話なってるぞ~」
浴室の扉の向こうから徹の声がする。
「出るから電話持ってきてくれる?」
私は急いで外へでて、徹からタオルを受けとる。イライラと鳴る呼び出しの音に急かされながら体を拭いて、通話に出る。母からの電話だった。
「こんな朝早くから何?」
「あなたが早いんでしょ」
「どういうこと? 掛けたのはあなたです。用件は?」
「ちょっと『あなた』なんて…親に向かって言葉がおかしいでしょ?!お母さんじゃないの?」
私はつい電話を切ってしまった。
「うわあ、頭パーなの?」
徹は電話をこっそり聴いていたようだ。いや、母の声が大きすぎるために聞いてしまったのだろう。
「さあ? 診察受けてくれないからわからかい」
言ったそばから電話の呼び出し音が鳴り出しだ。
「ちょっと、ちょっと。何?」
彼女の声色は激昂していた。急に電話を切られたためだろう。
「電波が悪いの。だからあまり」と私の声を遮って「あなた変でしょ! 人様の電話を切るなんて! そんな礼儀も分からないの?」と怒鳴る声が聞こえる。
「電波が悪いの。だからあまり話せません」と私は根気強く繰り返す。
「用件を手短に」
「なんなの、大学のお金出してるのに…親不孝者。言っとくけど、あなたの趣味にお金を出したのよ。勉強してなにするの?」
「用件は」
「あーそうね。用件ね。藤木さんとこの子との食事が二日に決まったから、帰ってきなさい。結婚前にね、会わせてはおくから」
言葉が、言葉が何も出てきそうになかった。
「は…? それは教採落ちたときの話でしょ。約束を破る積もりなの?」
この時、冷静に反論できたのは自分でも驚きだった。
「こっちは大学までお金出してきたのよ? わがまま言わないで、あなたは藤木のものよ。うちも大変なんだから」
「教師か公務員以外で働くのを認めない。普通は嫁に入るものだから。それが、それがあなたの言い分でしたよね?」
「また、『あなた』って言った! いい加減にしなさいよ! 『お母さん』でしょう?!」
「黙れババア!」
携帯を奪い取って徹がそう叫んでいた。彼は電話を切って渡す。
「あんな人間まじでいるんだ。てか電波とか悪くなくね」
「世間が広くなったね。バカだから電波悪いで納得して少しだけ早く切れる。これテクニック」
徹が母を罵倒してくれたことは素直に嬉しかった。後の母への弁解があまりにも憂鬱なのだけれど。それでも、今の私を救ってくれる言葉だった。
「笑えるでしょ。私あれと二十年付き合ってんの、同情とかする?」
「かもね」と徹は曖昧に笑うように見せる。
その顔は見とれるほど魅力的だ。徹は卑怯だった。
「そんなことより、早く体をちゃんと拭けよ~。風邪引いて俺に看病されたい?」
「されてみたいかも」
私は母の電話番号を着信拒否に設定して、体を拭いた。
キッチンから肉の焼ける良い匂いがする。代わり映えのしない、いつもの匂いだ。きっと、今朝も同じ具なのだろう。
タオルを体に巻いて、香りに誘われるように徹の傍に寄った。
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