3.5 ガニメデの境地

 一、二限の授業は選択制自由科目だった。ひかるは教室で複素解析の講義があるからわたしはリモート講義室に移動することになる。今日は大学基礎レベル課程のリモート講義の受講だ。わたしが今回受講していたのはクイーンズランド大学で開講されていた「農工学概論」のダイジェスト版だった。元々は農学部志願者向けの授業だが、比較的単位取得が楽だからという理由で、勧められるままに数合わせにとっていたリモート科目で、植物工場のケーススタディーや遺伝子改良技術の紹介を通して、未来の農業のあり方を考えるという授業内容である。


 HRを終えると、わたしは一番に教室を飛び出した。誰の目もないことを確認してから、トイレに入り、そのままB棟の屋上にテレポートする。


 誰もいない朝の屋上で、わたしは腕時計型端末に話しかけた。


「〈テラ〉、自動検索アルゴリズムの構築を頼みたいんだけど」


「何を調べて欲しいの、真弓」


〈テラ〉が耳元で囁く。


「今朝、プンタ・アレーナスで行われたボストーク湖探査プロジェクトの記者会見で〈ガニメデ〉が撃たれた件の詳細について。できれば、詳細が分かる映像をふんだくってきて」


「ちょっと待っ……現地のニュースメディアを一括検索したけど、いずれも〈ガニメデ〉が撃たれたことくらいしか報じてない。怪我の程度も不明だし、映像へのリンクは貼られてたニュースは……ないね」


「方法はある?」


「過去の同様の事件と詳細が分かる映像の漏洩事例とをピックアップしてみる。それなら、何かしらの方策を立てられるかも」


「任せた」


 わたしはフェンスを飛び越え、グラウンドへと飛び込んだ。




 リモート講義の前半である一限が終わったところで、検索が終了した旨を〈テラ〉が腕時計型端末のディスプレイ上で報告してきた。周囲はしんとしていて、まだ講義に聞き入っている学生も多かった。彼女たちは皆スマート内耳で講義の音声を聞いているし、多くは不必要な音声を耳蓋機能でカットしていることだろうが、念には念を入れ、端末付属のキーボードを腕時計端末にリンクさせ、タイピングで〈テラ〉に話しかける。


 ――スマート内耳を使って報告してくれる?


「分かったよ、真弓」


 腕時計型端末のディスプレイが時刻表示モードに戻り、〈テラ〉が囁いた。


「事件発生からまだ短時間であったことから、SNS路線で攻めることにしたんだ。。スタッフの一人が録画機能搭載型のコンタクトで会見を録画していたみたいで、その一部がSNSに投稿されてた。もう投稿そのものは削除されてたけど、それを保存していた人の二次配信映像を消去される前にダウンロードすることに成功したよ」


 ――よくやった。時間はどれくらい?


「四分程」


 わたしは腕時計型端末に目を落とした。二限開始まであと八分。


「真弓。詳細が知りたいなら、3D仮想空間のレンダリングをやろうか。先のライブ映像と組み合わせることによって、再現度三十パーセント程でよければ会見会場のポリゴンモデルをつくって、没入型VRコンテンツへの改変ができるけど」


 ――それでお願い。空白部分は補完AIで補完してもらって、コンタクトでVR再生して。




 それは、わたしが今朝見た公式のライブ中継とは異なるアングルから撮られたものだった。視界の左方には、部屋の奥に向かって置かれた長机に横並びに座る〈ガニメデ〉と科学者たち。対して右方に、彼らと向かい合うようにカメラと記者たちが群れをなす。その側方に待機しているスタッフの目線から、その映像は撮影されていた。


 映像の始まりは、既に会見の終盤だった。記者たちの矢継ぎ早の質問攻勢を〈ガニメデ〉がいなしているのが聞こえる。


 すると、画面全体にあっていたピントが、糸が切れたように緩み、焦点距離が五メートルになる。3D再生が始まった。それと同時、会見会場の至るとこで、天井の模様がぼやけたり、記者とカメラの林がぐちゃぐちゃに融けたり、カーテンに白く大きな穴が空いた。Rの手でキーボードを叩くと、首が回ったかのように視点の向きが変わり、白い穴が正面に見えた。


 空中に青く文字が浮かんでいる。


 ――3D空間レンダリング中。空白領域の補完を開始。


 天井の模様は整然とし、カメラと融和していた記者は見事に分離し、カーテンの穴は綺麗になくなっている。撮影された映像には写っていなかった部分も補完され、それらしい会見会場が再現された。


 そして、今ある視点を内包するように、脇坂真弓と同じ姿をしたアバターが生成された。「わたし」は会場の側方から矢継ぎ早に〈ガニメデ〉に質問を浴びせる記者たちを見ていた。キーボードを叩き、会場をゆっくりと歩く。焚かれた無数のフラッシュが視界で爆ぜる。


 質問対応は終盤に差し掛かっていて、〈ガニメデ〉は最後にこう言った。


 ――テレポーターと非テレポーター、協力して今回のプロジェクトに挑むことができたことを、私は誇りに思います。


 わたしの心臓が高鳴った。司会によって、質疑応答時間の終了が告げられる。


 その時だった。カメラの群生林の中から、一人の男が体を乗り出した。


「どうして非テレポーターの機嫌取りばかりするんだ!」


 その男が怒号を放った。近寄ると、無精ひげを生やした中年の細見な白人男性で顔を赤くして歯をむき出しにしている。それが補完されたものか、スタッフの一人が撮影して映像に写っていたものか、識別はできない。


〈ガニメデ〉や他の科学者は声の主には目を向けず、席を後にした。後方の記者がざわついた。

 突然、男が〈ガニメデ〉の方に腕を伸ばした。その先には黒い何かが握られていた。レンダリングが追い付いていないのか、それは黒くぼやけている。〈ガニメデ〉の視界に、それは入っていないようだった。


 徐々にポリゴンが鮮明になり、それが銃の形に収束すると同時、今朝わたしをびくっとさせたあの破裂音が弾けた。〈ガニメデ〉の体が吹き飛び、左方の壁に叩きつけられる。


 映像はそこで終わらなかった。後方からやってき多くのスタッフがわたしをすり抜けて駆け抜けていく。半分は〈ガニメデ〉の保護に。半分は男の確保に。


 スタッフの波が静まると、男は既にスタッフや記者らによって取り押さえられていた。地面に転がったプラスチック銃も別の警備員が回収した。しかし彼はしきりに叫んでいた。


「何が協力だ。何が人類のための仕事だ。一体、どれだけの人を殺したと思ってる! 一体どの面下げて、協力なんてふざけたセリフを吐けるんだ!」


 それからも、男は叫び続けていた。断片的な情報から推測するに、男は元々ニューヨーク市警察NYPD緊急出動部隊ESUだったらしい。そして、マンハッタン事変の目撃者にして、生存者でもあったようだ。


 彼は救助活動にも参加したものの、何もできなかったらしい。怪我人が運び込まれた病院で中年女性に「夫と娘を助けて」と懇願されながら、何もしてやれない自分の無力さが悔しくて仕方なかったという。


 そこからはわたしの推測になるけれど、きっとそんな彼にはテレポーターに対する並々ならぬ思いがあったはずだ。しかし、二〇二〇年代後半から、アメリカなど一部の国ではネイバーフッド社と警察とが共同でテレポーター特殊部隊を導入していると聞いたことがある。実際、救助活動においてテレポーターの右に出る者はいない。花形を奪われ、反抗的になったところ、クビにされた、あるいは自主退職した――そんなシナリオだろうか。


 その時、倒れた〈ガニメデ〉に駆け寄っていたスタッフたちが一斉に後ろに引いた。そちらに視点を向けると、その中心に〈ガニメデ〉は立っていた。彼は腕を男の方に突き出した。親指と人差し指で何かを挟んでいる。そこから赤い液体が滴り落ちた。


 銃弾だ、とわたしは直感した。体内に捩じり込まれた銃弾を、ノールックテレポートで摘出したんだ。痛みに耐えながら、自分の体内の異物を取り出すノールックテレポート――一歩間違えれば自分で自分の心臓を握ることになる――を成し遂げられる自信は自分にはなかったが、〈ガニメデ〉には造作もないことらしい。


 取り押さえられていた男が乾いた笑みをこぼした。


 すると突然、画面右方、男を取り押さえていた男性の一人が吹き飛んだ。男が拘束を振りほどいた。そしてどこからか、二本目の銃を取り出して。〈ガニメデ〉に向ける。今度は別の警備員も反応し、銃を男に向ける。


「〈ガニメデ〉! お前を神に代わって裁いてやる!」


 そう男が叫んだ瞬間、男が握る銃と、警備員が握る銃とが弾け飛んだ。花火が破裂するように火花が飛び交い、破片は空に舞った。


 黒い破片が舞い落ちるまで、誰も動けなかった。何だよこれと男がこぼして、ようやくこれが位相破壊〈花火〉だとわたしも気づいた。初めて見る大技だった。位相破壊〈断裂〉の応用で、適切な座標誤認によって、対象物体を粉々に切り裂く。その座標誤認方法はまだ研究が進んでおらず、〈ナビゲーテル〉にも補助シークエンスは組み込まれていない。ごく一部の限られたテレポーターだけが、天性の感覚によってのみ実現できる、希少な技だ。

少し遅れて、警備員らによって男は再び取り押させられた。


 そして駆け付けた警察に連行される中、男は〈ガニメデ〉に訊いた。


「一ついいか。何故、警備員の銃も破壊した?」


 男の問いに、〈ガニメデ〉は笑った。


「お前が殺されると思ったからだ」


「どうしてだ! この国のみならず、世界は犯罪に対して刑を与えるのではなく、治療をする方向へと進みつつある。殺人未遂の俺は治療を受け、そして再び世に放たれるんだ。言っておくが、俺はもう一度お前を殺しに行くぞ。俺が殺されるまで、何度でも、何度でも。俺を裁かなかったことを、後悔する日がいつか来るぞ」


「だとしても、お前を裁く権利など俺にはない」〈ガニメデ〉の口調は至って冷静だった。


「そして、それは他のすべてのテレポーターでも、非テレポーターでも同じことだ。その立場にあるのは法だけだ。お前の身柄はチリ当局に引き渡す。そこで適切に裁かれろ。適切な刑を執行されろ。そして――適切な治療を受け、更生して戻ってこい」


〈ガニメデ〉は翻り、彼の背後に呆然と立っていたスタッフの一人に言った。


「何をぼけっとしてる。早く病院の相対座標を教えてくれ。これでも、俺は重傷なんだぞ」


 スタッフにもたれかかるようにして、彼は倒れた。


 そして会見会場に小さな白い穴が穿たれる。それは空間を侵食し、わたしを飲み込んだ。

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