⑥
陸の人から買い取った食材を背負い、オレは夕日に照らされた海を泳いでいく。海水に浸けてしまうと味が変わってしまうので、肉や野菜は密封に近い形で包んでもらっていた。これが今日オレの晩飯で、材料は二人分、つまり、オレとヴァウの分である。一応全て、ヴァウの指示通りのものを買って来たつもりだ。
ヴァウの家は、鮮やかな珊瑚礁を抜けた先にあった。入り口は縦穴の様になっており、真下に沈むように泳ぐ必要がある。しかし、すぐに横に曲がると、今度は垂直方向へ、潜ったよりも更に海面へ向かうように泳ぐ必要があった。
果たして泳ぎ切ったその先には、海底洞窟が現れる。オレは海面から上がり、食材を砂利が敷き詰められた玄関へと置いた。洞窟はまた別の地上へと通じているのか、微かに風がそよいでいる。ここが、ヴァウの家だ。一人暮らしをするには、少し広すぎるように思えるが、火を使えるような家ともなると、換気の問題からこれぐらいの広さが必要になる。
「おい、ヴァウ! 飯買って来たぞ!」
「もー、ご飯はこれからボクが作るんでしょ?」
奥からヴァウの姿が現れる。ピンク色の貝殻があしらわれたエプロン姿が、新鮮だった。
「ルアン。テーブル拭いてもらっていい?」
「ああ、わかった」
オレが買って来た食材を、幼馴染は鼻歌交じりに台所へと運んでいく。ふきんでテーブルを拭いていると、台所からオレが買って来た肉、厚切りのベーコンを焼く音が聞こえて来た。
油が弾け、ベーコンが焼ける香ばしい匂いは、昼飯が食べれなかったオレには刺激が強すぎる。
揺れるポニーテールの間から見える、ヴァウの白いうなじへ、オレは言葉を投げかけた。
「何か、手伝う事、あるか?
「んー? んー、じゃあ、お皿出してもらえる?」
振り向くヴァウは、煮立ったら大鍋にパスタを投入している所だった。
「何作ってるんだ?」
「にしししっ! 内緒っ!」
白い歯を見せるヴァウは、棚の奥から牛乳の瓶と卵を取り出す。海の中は、当然気温は低い。陸と違い、冷蔵庫要らずなのは嬉しいが、逆に陸で常温保管する必要があるものが凍ってしまうというのが、難点でもある。
ヴァウの手元を見ながら、オレは小さくつぶやいた。
「カルボナーラなら、少し深めの皿の方がいいかな?」
「あ、カンニング禁止っ!」
舌を出すヴァウに苦笑して、オレは皿を取り出した。オレが買って来た食材の中で、まだ野菜が手付かず。きっとサラダになるのだろう。そう思っていると、ヴァウの怒ったような声が飛んでくる。
「あっ! ルアン、コンソメ買って来るの忘れてるよっ!」
「え? そうだったか?」
「そうだよ! もう、コンソメスープ作ろうと思ったのにっ」
「……牛乳があるんだから、クリームスープで代用すればいいだろ?」
「カルボナーラにクリームスープじゃ、クリームクリームになっちゃうでしょっ!」
それで何が悪いのか、オレにはさっぱりわからない。しかし、結構真面目に怒っているヴァウの表情を見て、それだけは言ってはいけないと、オレは本能で理解した。
「じ、じゃあ、魚介のスープは?」
オレの代案を聞き、ヴァウの眉がぴくりと跳ねる。
「海藻と貝があれば、出汁は出来るだろ?」
「えー、魚介ぃ?」
「今からオレ、捕って来るからさ」
オレがそう言うと、ヴァウは真剣な表情で腕を組んだ。さながら、裁判官が判決を悩むような表情に、何故だかオレは冷汗をかく。やがて彼女の中で判決が下りたのか、幼馴染は小さく口を尖らせた。
「……今日は、陸系で攻めたかったのになぁ」
「……ごめん」
「あはははっ! まぁ、ないものはしょうがないか。早く捕って来てよ?」
「わかったよ」
オレは光の速度で、ヴァウの家を飛び出した。幸い、ここは海の底。目当てのものは、そこら中にある。ひとまず、ヴァウの機嫌が下り坂にならなくて安心した。覚悟は決めてきたつもりなのだが、やはり意識すると、色々と上手くいかない。
いつも通り、自然体を意識しても、無理がある。そもそも、普段はいつも通り、自然体なんてもの、意識していないのだ。意識するという事は、それはイコール逆に意識しすぎているという事になる。
しかし、だからと言って、自分の決意を曲げるような事は、もうできない。むしろ、今までずるずると、長引かせてしまった方が問題だったのだ。
「あ、ルアン早かったね。お帰りなさいっ!」
子供の頃から変わらない、その無邪気な笑顔に出迎えられて、更にオレの決意は固くなる。
「にしししっ! 何? 急に黙っちゃって。あ、そっかー。ルアン、一人暮らしだもんねぇ。毎日ボクにお帰りなさい、って言ってもらえたらいいなぁって、そんな事考えてたんでしょ?」
「ち、違わない」
「あはははっ! ルアンは相変わら、ずぅ? え……あ、危っ!」
一瞬硬直したヴァウが、拭いていた皿を落としそうになる。それを慌ててキャッチしたのを見て、オレは思わず拍手した。
「おー、凄い凄い」
「ど、どうも……」
照れながらも釈然としないという表情を浮かべたヴァウへ、オレは捕って来た海藻と貝を預ける。
「毎日、料理を作ってくれないか」
「ぼ、ボク、基本的に自炊だから、ま、ままま毎日料理、してるよっ!」
ヴァウの声が裏返り、珍しく狼狽した様に、両目を忙しなく動かし始めた。流し台を見れば茹で上がったパスタが、ボウルに移しかえられ、湯切りをされた状態で置いてある。
オレの視線に気づいたのか、ヴァウは慌ててパスタが入ったボウルを手に取った。
「熱っ!」
跳ねた油の様に身を引いたヴァウの体は、狙いすましたかのように、オレの方へと流れてくる。彼女の細い体を抱きしめると、電気が走ったかの様に、ヴァウの尾が跳ね上がった。
「る、るるるルアン?」
「一緒に住もう」
今度は、全身が跳ねた。
「す、相撲? る、ルアン、さ、流石にボクの部屋が広くても、ここで相撲を取るのは――」
「はんむっ!」
「はにゃぅんっ!」
普段とは打って変わり、オレの言葉を誤魔化して逃げようとするヴァウの耳へ、オレは甘噛みをした。
魚の求愛行動とは、面妖だ。新居を用意するものもいれば、自分の肉体を魅せつけるものもいる。中には尿をかけるものもいれば、相手に噛みつく様な輩もいる。
そう、海の中で、噛みつくのは求愛行動にもなり得たのだ。
結論から言えば、オレは昔から、子供の時から、意図せずヴァウへ求愛行動を取っていた。オレにとって咄嗟にとった行動だったが、ヴァウにはそういう意味に感じられていたのだ。そして彼女は、それを求めた。今も、それを求めてくれている。
そして光栄な事に、オレはそれに選ばれたのだ。これが、彼女がオレを好きな理由。何故惚れているのか(Why done it)の答えは、僕と彼女の、それこそ子供の時の出来事に答えがあったのだ。
そして既に、ヴァウはオレへ返事をしてくれていた。彼女は、オレが最初に耳を噛んでから、ずっとオレをからかって来た。
ヴァウはオレに、昔から、もっともっとと、愛情表現を迫っていたのだ。そんな彼女からすれば、変に考え込んだオレの行動は、じれったくて仕方がなかっただろう。釣った魚に餌をやらない奴だと思われていたのかもしれない。
変に自分自身を責め、こじれたオレに、けれども彼女は、オレをからかう事を止めなかった。考え込んだオレに、それでもヴァウは、オレを求めてくれたのだ。だって、彼女はずっとオレに言ってくれていたじゃないか。大丈夫だからと。それは、今でも変わっていない。ただ、オレがヴァウがどう感じているのかを、考えようとしなかっただけだ。
ヴァウはオレの事を思ってくれていたが、オレはいつも自分の事ばかりで、ヴァウの心中を理解しようとも、想像しようともしてこなかった。
でも、今は違う。
「お前はずっと、ずっと、待っててくれたんだな。あの地震で離れ離れになっても、ずっとオレの事を……」
「あ、あぅおぅ……」
噛んだ耳をなぞりながらそう言うと、ヴァウは目を虚ろにして、熱に浮かされた様に体をびくびくと痙攣させる。しかし、すぐにオレから距離を取ると、火にかけたままだったフライパンを、鍋敷きの上へと移動させた。
「だ、ダメ、ダメだよルアン……。い、今、料理の途中で、ま、まだスープが――」
「いいから、話を聞いてくれっ!」
「きゃ、きゃべどんっ!」
壁に手を当て、ヴァウを見下ろす。ヴァウが口元に両手を添え、わなわなと体を震わせていた。彼女が何を口走ったのか聞き取れなかったが、そんなものは知らないし、知った事ではない。
オレの脳が今考えられるのは、そう、今の今まで放置し続け、一時の別れを経ても、まだオレを思ってくれる彼女の想いに応える、いや、それも言い訳だ。
それじゃ何も変わらない。変わっていないじゃないか!
そんな言い訳、どうでもいいだろう? オレが今、どう感じていて、どう思っていて、それをただ、今、今まで伝える事のなかった、自分の想いにすら気づかなかったバカなオレが、ようやく気付いてそれを言えるようになったんだ!
ここで言わずして、何が言えると言うのかっ!
「ヴァウ、オレは――」
「だ、ダメ! ダメダメ! ダメだよっ!」
赤面するヴァウが、両手でオレの口を塞ぐ。
何故? と目で疑問を投げかけると、それだけで幼馴染はオレが言わんとしている事を理解してくれていた。
「だ、だだだだだって、変、変だよ、ボクぅ。み、耳を噛まれて、その、よ、喜ぶ、なんて……」
そこで初めて、オレはヴァウの中でも葛藤があったのを知った。確かに、耳を噛まれて喜ぶような、それが求愛行動だと思うような存在は、この世界でも圧倒的に少数だろう。今の今まで気付かなかった、気付けなかったオレが、一番共感する。
「だ、だから、ね? お、おかしいんだ、ボク。ぼ、ボクは、だから、そんな、あ、あれ、変だ。変だよ、ボク。変なボクとルアンはそんな、一緒に居たらダメだって、ダメだって思ったのに、なのに、ボク、抑えきれなくて、抑えないといけないのに、今までへ、変、変に、からかって、かまって思おうって思って。か、噛ま、噛まれて、嬉しいなんて……。だ、ダメ、おかしいよ、ボク……。だ、ダメだか、ら……。おかしいボクと、じゃ、る、ルアンは釣り合うわけなくて、だからダメで、ボク、でも、ダ――」
言葉の途中だが、オレはヴァウを抱きしめていた。力強く、そして力の限り抱きしめていた。
それ以上は、言わせなかった。言わせるわけには、いかなかった。
ヴァウも、感じていたのだ。自分自身が少数派なのだという事を。一般的でないという事を。周りから認められ辛いという事を。だから言えずにいたのだ。離れ離れになる直前であっても、オレと再会しても、言えなかったのだ。
バカか。バカかこいつは! バカかオレはっ! 何で、何でオレだけだと思ってた? うじうじ考えて、変にこじれた考えになって、相手にどう接すればいいのかわからなくなって、きっかけがつかめなくって、変に意地を張って、それでも相手から離れられなくって、相手の傍に居続けて、それが、それが何故オレだけだと、オレと一緒に育った幼馴染が、何故自分を同じように悩んでいないと、そこに思い至らなかったんだ! バカだ! バカだバカだバカだバカだ!
大バカやろうだ、オレはっ!
「ダメなわけがあるか! お前とオレが一緒に居ちゃダメな理由なんて、あるものかっ!」
「で、でも、ぼ、ボクぅ……」
「うるせえバカやろう! お前が何て言おうとも、この世界を作った神様がなんて言おうとも、オレは、オレだけはお前の傍にいてやる! 絶対、絶対居てやるからなぁっ!」
しかし、オレのその言葉も、まだヴァウには届かない。彼女は駄々をこねる子供のように、オレを突き放そうとする。
「だ、ダメ! ルアンは、ルアンは、普通なんだから――」
「お前と一緒に居られないのなら、普通なんてくそくらえだっ!」
「で、でも、でもボク、おっぱいないし、貧乳だし――」
「それがどうした! それがお前なら、オレはお前の全てを受け入れてみせるっ!」
「あ、あぁ……。ぼ、ボクの祈り(呪い)が、通じたよぉぅ……」
あれ? 今、ルビがおかしくなかったか?
頭の片隅に沸いたそんな疑問も、ヴァウの抵抗がなくなり、その身をオレに預けてくれた事でどうでもよくなる。
ヴァウは今まで抵抗していた力を、逆の力へと転換した。つまり、オレを抱きしめ返してきたのだ。
「――んで」
「え?」
「耳、噛んで……」
この願いを聞き届けれない奴は、死んだ方がいい。オレはまだ死にたくないので、聞き届ける。オレはこれから、ヴァウと生きていくのだから。
だからまだ、死ぬわけにはいかない。
とはいえ、どれぐらいの力で噛んでいいものかもわからないし、見当もつかない。今までほぼ反射的にやっていたので、恐る恐るやるしかない。
だが、迷い箸ならぬ迷い歯で、悩んでいたオレの歯が、微かにヴァウの耳に触れてしまう。するとヴァウは、抱きしめていたオレの腕を振り解かん勢いで、体をのけぞらせた。
嘘っ! こんな風になるのっ!
「も、もっと! もっと強く、ルアンっ!」
歯が触れただけなのだから、強くも何もない。
オレは甘噛みよりも、更に甘く口を閉じる。瞬間、腕の中のヴァウは、陸地に水揚げされた魚の如く暴れ始めた。呼吸は乱れ、上気し、痙攣が止まらず、呼吸もままならないように思える。
「もほぉ、もほぉちぇぉしゅちぇへぇ……」
「本当に大丈夫か? お前! 脳髄溶けてんじゃねぇのっ!」
オレのその言葉すら、オレが噛んだ部位に響くのか、ヴァウは全身全霊を込めてオレの体に抱きついてくる。
「……しゅきぃ」
「え?」
「言って、ルアン……」
そんなに濡れた瞳で見つめなくとも、お前の求めている言葉は、もうわかっている。
そして何より、それを言うために、オレは今、お前に会いに来たのだ。
子供の時から言えなかった言葉を言うために、お前に会いに来たのだ。
だからオレは、ヴァウの濡れそぼる瞳を見つめ返しながら、口を開く。
「オレは、オレはヴァウの事が――」
そこで俺は、オレ(ルアン)の意識から分離していく。幽体離脱をしている様な、全身金縛りなんだけれども自分を見下ろしている様な、この次の異世界に転生する感覚も、未だ俺は慣れていない。
この状態になったという事は、俺がこの世界で出来る役割、ルアンの背中を蹴飛ばす役割は、全う出来たという事だろう。
いやぁ、しかし、途中からはルアンの意識をほぼ優先していたが、まさかあんな形で告白するとは思わなかった。
少数派、マイノリティになるという事は、それだけで自分の存在を認めてもらう事が難しいのだが、それすら包み込むとは。いやはや、恐れ入る。でも、ちょっと闇も感じたような?
ま、それはもう、俺が気にする事ではないか。俺の役割は、あくまで何故惚れているのか(Why done it)を導き出し、その背中を押してやる事だけだ。
さぁ、次の転生先は、一体どんな男女が、互いに一歩踏み出せない関係なのかね。
そう思ったのも束の間。俺の意識はあっという間に薄れていき、そして――
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