第1話 人生の転機

 人生の転機がいつかと聞かれれば、あたしは5歳の夏だと答える。ふつうはもっと大きくなって世間の荒波にもまれてから転機を迎える人が多いと思うが、あたしの場合は物心のつきはじめた、初々しい5歳の夏だった。


 台風の翌朝、よく晴れた暑い夏の日に、妹は生まれた。初めて見る赤ちゃんという生き物にあたしは興味津々だった。それで、ぷくぷくした手足をつねってみたりベタベタのおしゃぶりを口から引っこ抜いたりして、妹をよく泣かせていた。おわびにあたしの大好きなチョコミントアイスをあげようとしたら、母さんにすごい剣幕で怒られた。それからしばらく、あたしは妹のそばには容易に近づけなくなった。


 母さんは妹につきっきりだし、父さんも仕事から帰ってくるなり妹の芸術的な寝相に見入っているし、あたしはかまってもらえなくて退屈だった。つまらないいたずらで気をひこうとしたけど、育児中の母さんを余計にカリカリさせるだけ。そんなわけで私は、家出を決意した。


 リュックサックにお菓子を詰められるだけ詰めこんで、水筒をオレンジジュースで満タンにして、補助輪つきの小さな赤い自転車にまたがり、炎天下をがむしゃらに走った。まあ、ふつうの5歳児だったからそれも長くは続かなかったけれど。


 公園にたどり着いて木陰のベンチで休憩していると、見知らぬ男の子がじっとこっちを見ているのに気がついた。ジュースがのどの変なところに入って軽くむせた。男の子はやせっぽちで、髪はボサボサで、のらネコみたいに近寄りがたい目つきをしていた。


「……なんか用?」

 男の子は警戒するように少し間をあけて、「そこ、おれの場所」といった。

「おれの場所?」

 あたしはちょっとムッとして答えた。

「公園はみんなの場所じゃん」

「みんなの場所ってことは、やっぱりおれの場所でもある」


 男の子はポケットに手を突っこんだまま、リュックをはさんであたしのとなりに座った。つんと汗のにおいがした。


「あたし、今家出ちゅうなの」

 だから気安く話しかけないでという意味だったのだが、男の子は特に驚く様子もなく、「へえ」とつぶやいた。

 それでちょっとむきになったあたしは、聞かれもしないのに家出をするにいたった経緯を細かに、ほんのちょっと大げさに話した。


「お父さんもお母さんも妹ばっかりかわいがるの。あたし、頭に来ちゃってさあ」


 男の子は相変わらず「ああ」とか「ふうん」とかうすいリアクションだったけれど、あたしのほうはだんだんヒートアップしてきて、しまいにはたまっていた家族への愚痴を一滴残らずぶちまけていた。


「あー、なんかしゃべったらすっきりした!」

「……おお」


 ちょっとうつらうつらしはじめていた男の子に少し申し訳なく思って、リュックから棒つきのアメを出して渡した。


「あげる。つきあってくれたお礼ね」

「……どうも」

 男の子は物珍しそうにキャンディを木漏れ日に透かし、それからポッケに突っこんだ。


「さて、そろそろ帰ろうかな」

 あれほど威勢よく家を飛び出したにもかかわらず、あたしはもうすっかりそんな気分になっていた。なにしろ暑かったし、日も暮れかけていたし。

 「ねえ」と男の子に呼びかけようとして、まだその子の名前も聞いていないことに気づいた。


「えっと、名前はなんていうの?」


 男の子はちょっと目を泳がせてから、小さく「うみ」とつぶやいた。


「そっか、海っていうんだ……明日もここに来る?」

 海はこくりとうなずいた。

「じゃあまた会おうよ。明日はもっと、早い時間に来るからさ」

 少しだけ海の目が大きくなった。そうすると、ちょっとかわいげのある顔になった。

「約束だよ。あ、あたしは千夏ちなつっていうの。それじゃ、ばあい」

 重たいリュックを背負ってキコキコと自転車をこぐあたしを、海はふしぎそうに眺めていた。


 それが海との、最初の出会いだった。

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