海の向こう

 彼が自身の能力に気づいたのは、生まれてたった数年後、言葉の意味を理解しはじめたころだった。


 彼を取りまく環境は恵まれたものとは言えない。閉めきったカーテンと窓、ものが散乱した部屋、たまったごみ袋、敷きっぱなしの湿っぽい布団、食器で埋まった流し、食べかけの総菜が入ったプラスチック容器や空き缶が乗ったままのテーブル。それから、暗い目をして椅子に座っている疲れたふうの女性。仕事から帰ってくると彼女はたいていそうやってぼんやりと宙を見つめているのだが、ときどきものすごくヒステリックになって、幼い彼に当たった。


 どうして私ばかりこんな目に遭うのか、たったひとりであんたを育てるはめになったのか。あんたのせいで、あの男のせいで、私の人生は台無しになった。あんたなんか、生むんじゃなかった。あれは人生で最大の選択ミスだった。どうして黙って見てるの? 何か言ったらどう!?


 しかし、ひとたび怒りの波がおさまると、彼女は少年を抱き寄せ、涙を流しながら謝るのだ。ひどいこと言ってごめんね。ただ疲れていただけなの、許して、と。


 彼は母を許した。


 けれども、あのヒステリーの時間を耐え忍ぶことは苦痛だった。母親の言葉は容赦なく彼の胸を突きさした。途中で口を挟めばつらい時間が長引くだけだし、泣きだせば余計にヒートアップさせることになる。だから、じっと歯を食いしばって目をつぶり、耐えるしかなかった。


 この空間から消えてしまいたい。一時的に、嵐が過ぎるまで。

 でなければ何か盾が必要だ。容赦ない言葉の矢から生身の体を守ってくれる、安全な場所……


 そうだ、世界を閉じればいいんだ。

 突然、彼はひらめいた。


 心に開いた暗い穴に意識を集中させる。すると、その穴は彼のことをものすごい力でひきこむ。目、鼻、耳、口、頭から、肩、胸……と、彼のやせた体を飲みこんでいく。この瞬間、彼の三半規管は能力を失い、上も下もなくなった。思考がゆっくりと闇に溶け出し、同化していく。


 誰の声も聞こえない、何者も彼をとがめることのない、安全な暗闇。そこでは、一瞬も永遠も大差ない。ただ外の世界に平穏が訪れるまで、もう大丈夫の合図が聞こえるまで、彼の意識は虚空をさ迷う。


 もう大丈夫の合図は、多くの場合母親が彼の名を呼ぶ声だった。申し訳なさそうな、後悔と慈愛に満ちた声。あるいは、温かいご飯の匂いであったり、疲れてそのまま寝入ってしまった母親の寝息が合図になることもあった。それが伝わると、彼は夢から醒めるように現実へと戻ってくる。


 月日が経つにつれ、彼の母親のヒステリーはよくなるどころか悪化していった。

 彼が世界を閉じる機会も、同じように増えた。回を重ねるごとに、彼の閉じられた世界は居心地よく、豊かになった。最初に、彼がいつも眠るときに使っている枕が現れた。その次は、彼の母親がときどき買ってくるお菓子の入った箱。欲しいと言い出せずにいつも売り場を通り過ぎていたおまけつきのチョコもセットになっていた。それから、デパートで見かけたおもちゃのロボット、ふかふかのベッド、かっこいいマウンテンバイクやランニングシューズなど、次々に増えていき、閉じられているはずの世界は無限の広がりを見せた。


 そこはもう暗闇ではなかった。空があり、光があり、公園や道路や家並みがあり、彼が住んでいる町に勝るとも劣らない風景がある。ただし、この架空の都市に住んでいる人間は彼ひとりしかいない。心地よいそよ風も、無意味に点滅する信号も、すべて彼だけのために存在した。

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