スケキヨ式入浴法

満井源水

スケキヨ式入浴法

 いまさらかの有名な犬神家の一族のことも、その登場人物である犬神佐清スケキヨのことも説明はしない。万が一の場合は「スケキヨ」で画像を検索していただきたい。ディスプレイには白いマスクの復員兵が陳列され、いくらか足の生えた青木湖の画像が混入するはずだ。


 題のとおり、これは私の入浴法の話である。


 半身浴の話題になると「上半身?下半身?」などという愚にもつかないジョークを飛ばす輩は各自治体に最低二十人はいるだろうが、私の場合それには間違いなく「上半身」と回答する。


 つまり、私は頭から湯船に入り、脚を天井の方へと伸ばした状態での入浴を行っている。当然、浴槽に満たされた液体には浮力があるので腕の負担は大したことはない。やはり問題は呼吸だ。私は定期的に体内への酸素の循環を試みる必要がある。そのため、我が家の浴室では日々、三点倒立の練習をする小学生のごとき我が入浴が繰り返されている。


 もちろん、私は一般的な入浴は重力に逆らって行われないことは承知している。しかし私は重力に逆らわない入浴など正気の沙汰でない、とも思う。それはなぜか、という問いに答えるにあたって諸君らにひとつ質問をさせて頂きたい。


 諸君らは生物か。


 おそらく諸君らは"はい"、もしくは"YES"と答えるだろう。ヒンディー語話者が読んでいた場合は"हां"と答えるものがあるかもしれないが、とにかく肯定の意を示す言葉であろう。ならば諸君らは風呂に逆立ちせず入るべきではない。仮に否定した者がいた場合、おそらくそれらは風呂に入ることを要しないだろう。


 われわれ日本人は、浴槽の外で体を洗浄し清水を湛える湯船に身を浸す。このフォーマットに則らないのもまた、論外だ。シャワーなんぞで済ませるのは言わずもがな、バスタブ内で体を洗うのも冒涜行為に値する。浴槽の中は聖域サンクチュアリであり、その中で垢を濯ぐなど言語道断だ。


 その一連の動作において、当然、湯船に入る前に石鹸をつけた手あるいはスポンジ、タオルやその他の清掃用具で体をこすり洗うプロセスがあるわけだが、生物たる我々は、当然その過程で垢などの老廃物を落とす。それらはかけ湯によって流されるが、世に完璧などない以上、そのうちのいくらかは床に溜まり、長い年月をかけ老廃物のミルフィーユを形成する。また、タイル間の溝には型に入れられたパウンドケーキのように老廃物が蓄積する。


 諸君らは!その垢と雑菌の原生林たるタイル上を!!間抜け面を晒しながら闊歩し!!!遍く不浄の坩堝と化した足裏を以て!!!!湯船にその身を沈めているのか!!!!!何という腐敗した衛生観念!!!!!!


 諸君らの足裏の雑菌は紅茶に溶かしたシロップのように浴槽内を対流し、諸君らの全身は陽光に包まれる瑠璃色の星のごとく雑菌に覆われるのだ!よく「ばい菌がうつるだろ~近寄るなよ~」などと同級生にほざくガキがあるが、お前も同類だぞアホめ!!!


──などと息巻いていたのも過去の話。事件は起こった。


 私の浴室がリフォームをすることになったのだ。「逆立ちのしやすいバスタブにして頂きたい」と述べたところ業者はきょとんとしていたが、今はそんなことはどうでもいい。問題はその後だ。


 リフォームにかかる時間は36時間ほどとのことだった。即ち、そのあいだ私は銭湯で入浴を済ませねばならない。


 私は銭湯に行き、どこで売っているのか知らないがなぜか安ホテルなどで高い普及率を誇る謎のシャンプー、コンディショナー、ボディソープで身を清めた。


 いざ浴槽……と、ここで私は衝撃的な光景を目撃した。三人ほどの先客が入っている。しかも、湯船に入っているのはおしなべて上半身ではない!下半身だ!!クソ、スケキヨが三つ仲良く並んでいれば万事うまくいったものを……やはり他人は信用できない。これだから私はホテルでも大浴場を頼らず客室のバスタブに浸かっていたのだ。しかしここは銭湯。眼前にあるはただひとつ、最後の聖域ラスト・サンクチュアリにして失はれた聖域ロスト・サンクチュアリである。


 脱衣所の時計の振り子のごとく心が揺れる。「他人の使った風呂に頭から入るのは不衛生だろう」もちろんだ。「かといってシャワーで済ませるのはどうなんだ」その通り。


 熟考した。葛藤した。逡巡した。決心した。そして。


 ドボーン。逆立ちで入った。


 大浴場の利点はその広さにある。幸いにして男三人は固まって歓談しており、雑菌はその付近に、排水溝を中心とした渦を巻くに留まっているはずだ。そう踏んだ私はいつものように、彼らから離れた地点めがけ、ジャンプ後のイルカよろしく水面に突き刺さった。


 しかし話はこれで終わらない。なぜならいつもの方式で倒立型の行水を繰り返せばあの三人や番頭につまみ出される恐れがあるからだ。


 スピード勝負だ。一瞬で片をつけねばならない。


 私は上半身を素早く捩じった。もちろん足裏が湯に浸からないように。不格好なきりもみ回転。その勢いで私は手すりを掴み、体を押し上げ大浴場のふちに自身を"水揚げ"する。手摺りを支えにしたブリッヂの姿勢から立ち上がった私は、三つの怪訝な顔を背に何食わぬ顔で引き戸を開けた。


 後日、その銭湯の扉には「マグロ人間お断り」の張り紙があった。

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スケキヨ式入浴法 満井源水 @FulmineMaxwell

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