誰もが幸せな世界線にて


 セツの目の前に現れてからずっと、睡魔でもあるのか半分程度は閉じられていたロンドンの瞳が、驚愕一色に大きく見開かれる。


「驚いたな、リーバー。ワガハイの存在が認知されているぞ」


 ロンドンの肩に乗っていた鳥のような何かが、独特の硬音で流暢に人の言葉を再び話す。

 その身躯はどう見ても通常の鳥類のものとは異なっていて、重量感のある金属光沢で艶光している。

 肩こりはしないのだろうかなどと、セツは余計なことを考えてしまう。


「嘘でしょ? 君、ヴィニシウスに意識がいくの?」

「意識がいくっていうか、だって、明らかに変じゃない。だってそのフクロウか、ミミズクかわからないけどその鳥、機械かなにかでしょ? 人の言葉を話す機械の鳥がいたら、誰だって気になるわよ」

「わお。これは衝撃的だ。信じられない。ヴィニシウスがヘンテコな存在だってことがバレてる」

「ヘンテコ、ではなくトクベツ、という形容に言い変えて貰いたいところ以外は同感だ。これは到底信じられない、衝撃的な状況であるな」


 二足歩行している犬を見たかのような驚きようで、ロンドンは言葉を話す鳥の存在を指摘したセツを見つめている。

 どう考えても驚愕の感情を覚えるのは自分の方なのに、とセツは困惑した。


「意味がわからない。世界線を勝手に跳んだと思ったら、擬態アジャストの効果も効かないのか? 困ったな。いよいよわけがわからないぞ」

「だから、わけがわからないのはこっちの台詞だってば。その、色々説明してよ」


 なぜかセツ以上に混乱している様子で、目に見えて狼狽えているロンドンに対し、段々とセツは腹が立ってきた。

 ロンドンは頭を抱えるばかりで、いまだにセツの質問に答えようとはしない。


「……あなた、ヴィニシウスっていう名前なの?」

「そうだ。リーバーは皆、そう呼ぶ。正式にはVector Index Integrated Circuit User Interface Systemという名称を持っているが、皆省略形、或いは愛称としてVINICIUSヴィニシウスとワガハイのことを呼ぶ」

「ベクターインデックスイン……うん。わかった。じゃあ、私もヴィニシウスって呼ぶね」

「構わない。ワガハイは貴公のことを今は、セツと呼ぼう」


 会話にならないロンドンとは異なり、血のまるで通っていない外見とは裏腹にヴィニシウスとは滞りのないコミュニケーションをとることができた。


「ねえ、ヴィニシウス。あなたとロンドンはどういう関係? ペット?」

「まさか。ワガハイは決して、愛玩動物などという一方的な隷属関係をリーバーと結んではいない。ワガハイはあくまでリーバーの羅針盤コンパスであり、親愛なる隣人である」

「羅針盤? ヴィニシウスがロンドンをどこかに道案内でもしてるってこと?」

「道案内か。フランクで好感のもてる言い回しだな。まさにその通りである」


 ギギッ、ギギッ、とヴィニシウスは言葉とは明らかに異なる擦音を鳴らす。どうやら笑っているらしい。

 まだ出会って数分しか経っていないが、ヴィニシウスとはなんとなく気が合いそうだとセツは感じた。


「……やっぱり、もう一度試してみるしかないか。うん。そうだな。一晩、どこかに宿でもとって、色々すり合わせをしてみよう」


 俯いて一人でぶつぶつと何かを呟いていたロンドンが、ふと顔を上げる。

 セツはその自分と同じ色の瞳を、背筋を真っ直ぐと伸ばし正面から受け止めた。


「セツ。一応確認しておくけど、“リーバー”、っていう言葉は初めて聞くよね?」

「え? うん、まあ。というか、あなたの名前じゃないの?」

「じゃあ、世界の歪線ノイズリンクルは?」

「ノイズリンクル? なにかのお菓子?」

「これの名前は?」


 矢継ぎ早に問いを投げかけるロンドンは、最後に彼の胸元にぶら下がっている指輪のようなものをセツに見せる。

 知らない、ただの指輪にしか見えない、とそう言いかけたところで、セツの脳裏に記憶の影が横切る。

 ロンドンの首からかけられたリングには、不可思議な紋様が刻まれていて、どこか惹きつけられるような感覚を覚える。

 あれ、これを私、どこかで見たことのあるような――、


「レターデーションリングにも見覚えはなし、か。まあいいや。とりあえず、ここにはもう用はないし、外に出ようか」


 ――ロンドンはすぐにその指輪をまた外套の中にしまい込み、そこでセツ

の記憶を探る旅が終わる。

 指輪の名前はどうやらレターデーションリングというらしいが、その名には覚えがなかった。


「そういえばリズはどこにいるの? 自分の部屋?」

「そうだと思う。旦那さんと会う約束があるとかって言ってた」

「そうなのか。最後に挨拶でもしておこうかな。可能なら、一晩寝れる場所も貸して欲しい」

「贅沢だな、リーバー。貴公はいつも要求するばかりだ」

「べつにいいだろ。どうせ最後は拒絶されるんだ。受け入れてもらえるうちに、頼み事はしておかなくちゃ損だ」


 あまり長く立ち話をするのも落ち着かないと思ったのか、ロンドンはこの応用生物学研究機構の温室から場所を変えるようだ。

 ロンドンとヴィニシウスのやりとりは、ところどころ聞き耳を立てるだけでは理解しきれない箇所が混じっていて、セツは中々会話に入り込めなかった。


「じゃあ行こうか、セツ」

「うん。わかった。ロンドン」


 初めて会うのに、初めて会う気がしない。

 名前以外のことはほとんど何も知らないはずなのに、名前以外はすべてどこか馴染み深い。

 セツは白雲の上にいるような浮ついた感覚の中、どこか父の面影を感じるロンドンの背中を追いかけるのだった。







 不吉な予感を覚えたのは、殺風景な空白の通路に足を踏み入れた時だった。

 得体の知れない胸騒ぎを抱きながら、セツはロンドンとヴィニシウスの後に続く。

 ジージー、と蝉が囁くような空調の音だけが響く施設内。

 リズの研究室はもうすぐそこなのに、どうしてかセツは歩く足を止めたい気持ちになっている。


「なんだろう。嫌な予感がする」


 セツの心の声を代弁するかのように、ロンドンが小声を漏らす。

 心なしか彼の歩行速度もいくらか落ちているようで、リズの下に行くのを拒んでいるかのようだった。


「さすがだな、リーバー。貴公の予感はよく当たる。また不測の事態だ」


 そしてとうとうリズの部屋に辿り着く。

 その瞬間、全身が凍り付いたかのように足が勝手に止まる。

 ロンドンもセツと同様に、足が床に縫い付けられたかのようにピタリと直立不動で立ち止まった。

 冷めた空気に乗って、鼻腔まで届くのは不快な鉄錆の香り。

 ヴィニシウスだけが唯一平静を保っていて、セツはこの時初めてその金属質の肉体には人と同質の心が宿っていないことを実感した。


「あら、ロンドンにセツ。そんなところに立ってどうしたの。中に入って来ていいわよ」


 部屋の真ん中で、リズが晴れやかな笑みを浮かべている。

 本人の潔癖な性格を表すように汚れ一つなかった白衣は、今はまだらに赤く染まっている。

 右手には白衣と同様に赤く汚れたハサミが握られていて、左手の方には長方形の合成樹脂質のケースを持っている。

 これまでのような親切さの滲む、部屋に招き入れる言葉だったが、ロンドンとセツはまったく動けないでいる。


 その理由はたった一つだ。


 リズの足下に転がる、見知らぬ一人の男を中心に滲む真っ赤な血溜りが理由だった。


「本当に、今回はイレギュラーばかりだな……」

「リズ、その人はまさか……どうして?」


 屈託のない笑顔を見せるリズは、中々部屋に入ってこないセツたちを不思議に思ったのか首を傾げている。

 事前に話を聞いていたこともあって、セツには薄々わかってしまっていた。

 ぴくりとも動かず、ただの肉片になり果ててしまったその男が、リズが口にしていた最愛の相手だと。


「ああ、コレ? コレのことなら気にしないで。二年間単身赴任をしてる間に、他に好きな女ができたとかよくわからないことを言うから、そのよくわからないことを喋る口を裂いてやったのよ。もう静かになったから、気にしなくていいわよ」


 左手薬指に嵌められた指輪を虚しく輝かせながら、リズは足下で物をいわずに転がる人の形をしたモノを指さして気にしなくていいと言う。

 明瞭で親し気な口振りにはたしかに知性を感じさせたが、どこか正気を失った不気味さが滲み出ていた。


「あー、とりあえず僕たちは、もうここを出ることにするよ。色々ありがとう、リズ」

「もう行くの? もう少し話しましょうよ。私、結局、あなた達が何者なのかわからないままだわ」

「いや、その、僕たち、ちょっと急いでるから……」

「あなたも捨てるの?」

「え?」

「あなたも私のこと捨てるの?」


 吐き気を催すような異臭の中、すんでのところで保たれていた堤防が決壊した気がした。


 リズはまだ笑っている。


 セツは寒さとは別の理由で、身体が震え出すのを感じる。


「そもそもあなた、誰なの? 不法侵入よ。許せないわね」

「ま、待ってリズ。落ち着いて」

「うふふ。私は落ち着いてるし、幸せだわ。でも、あなた達が消えてくれたら、もっと幸せになれる気がする」


 血で濡れた鋏を持ったまま、リズが一歩前に踏み出す。

 左手からケースが落ちて、小さな錠剤が中から零れる。

 リズはまだ笑っている。


「ヴィニシウス、予定変更だ。今すぐこの世界線を出よう。どうしてかわからないけれど、もう擬態の効果が弱くなり出してる」

「だいぶ早いな。しかし理解した。オーダーアクセプト。オーナーリーバーの要請により、並行世界検索プログラムを実行」


 フォンフォン、という周期的な電子音がヴィニシウスから放たれ始める。

 いまだにこの急変した現実に思考も感情も追いついていないセツの手を、ロンドンが掴む。


「セツ、逃げるよ」


 どこに、とセツが問い返す前に、ロンドンが突然走り出す。

 腕を引かれるの頭上に、焦燥を煽る騒がしいアラーム音が鳴り響く。



「どうしてぇ! どうして逃げるのぉ!? やっぱり不審者なのねぇ!?」



 リズが満面の笑みを顔に張り付けたまま、哄笑を上げながら追いかけてくるのを、セツは振りかえり見る。

 ロンドンは胸元からレターデーションリングを取り出し、空いている方の手でその表面を撫でている。


「検索設定、世界の歪線ノイズリンクル、反応昇順。検索除外、世界線番号4、世界線番号37、世界線番号89……」


 ヴィニシウスから流れる、平坦な誰にあてるでもない言葉。

 ロンドンは息を切らしながら、走り続けている。

 手を引かれるセツは、背後を振りかえる。

 リズはまだ笑っていた。


「並行正解移動プログラム実行準備完了。リーバー、いつでもいけるぞ」

「ならすぐ行こう。オーダーコール、オーダーコール。これより並行世界移動プログラムを実行する。コマンドオールラン。レターデーションスタート」

「オーダーアクセプト。オーナーリーバーの要請により、並行世界移動プログラムを実行」


 空気が張り付くような乾いた音が響き、蒼白の光がセツの周囲で規則的に点滅を繰り返し、静電気に引かれるように雪白の髪が逆立つ。

 ヴィニシウスが金属の翼と尾を時計の針のように真っ直ぐと伸ばし、目を眩ませる光の点を自らを中心にして真円に繋ぐ。


「……リズ、あなたは今、幸せなの?」


 空間が歪み、身体にかかる重力が半減する。

 セツは最後にもう一度振り返し、リズへ言葉を投げかける。

 夫の思い出に笑みを零し、再会の日に頬を赤らめていたリズは、黒々しい赤で濡らした白衣をはためかせながら、最後まで笑う。



「ええ。私は幸せよ。これまでの人生で一番の幸せを今、感じてるわ」



 点が線になり、光が無に変換される。

 風船に針を刺した時に似た破裂音。



「ここは“僕ら”のいていい世界じゃなかった。さあ、世界を僕らのいていい世界に再起動リブートしよう」



 初めからそこには何もなかったかのように、リズと、彼女のいた世界がセツの視界から消滅する。

 セツが最後に見たリズの笑顔は、この世界で誰よりも幸せそうに見えて、そこで白髪の少女は自分の意識をまた手放すのだった。





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