第33話 わたしがわたしであるために


 開始すれば誰がゴネることもなく順調に進められた試験勉強だったが、午後七時を回った辺りで、紅姫が限界を迎えた。

 頭から湯気を上げんばかりの様子で卓袱台に突っ伏す。


「……もうダメだ。頭回らない。お腹空いた。とにかくもうダメ……」


 聞くだに哀れっぽい弱々しい嘆き。

 もう一秒だって勉強したくないって感じだ。

 とはいえ、実は今日一番勉強を頑張っていたのは紅姫だった。

 コイツは決して勤勉ではないし、勉強はハッキリと嫌いだ。それでも、こうして勉強の場を作って真剣に教えてやれば、その期待に応えようと気を張って臨んでくれる。

 ただ、いかんせん地力というか、普段の怠慢が大きいというか、完全に一夜漬けな勉強であり、根本的な学力向上には繋がっていないのが本当に残念だ。

 特に今日の集中力には鬼気迫るものがあったが、それだけ登河さんの教え方が怖か……上手だったのだろうか。


「この努力の半分でいいから常に発揮していれば楽なのに……」


 あきれる登河さんに、紅姫は濁った呻きしか返せない。


「アオツグ、時間も頃合いだろう。そろそろ夕食にしないか?」

「そうだな。あんまり遅くなるのも困るし」

「……ばんごはん……」


 ピクリと紅姫が反応した。

 ゾンビのようにぎこちない動きで首を回して俺を見上げてくる。


「……アオ兄……オレ……がんばった……?」

「まあ、頑張ったな」

「……プリン食える?」

「もちろんだ」

「……特大?」

「…………」


 あの集中の原動力はそれか。特大プリンの何がそこまでコイツを搔き立てるのかはわからんが、信賞必罰は大事だろう。


「わかった。特大プリンはオマエにやる」

「……ぅぁ……」


 瞬間、青ざめていた紅姫の顔色に艶やかな朱が差す。


「ありがとうアオ兄……♪」


 半ば倒れ込むように俺に抱きついてくる紅姫。

 うっすらと涙まで滲ませているが、そんなにまで特大プリンが食べたかったのかオマエは……。

 少し引き気味ながらも、優しく頭を撫でてやれば、力なくも至福の笑みを浮かべる我が愚妹。

 まあ、勉強頑張ったのは事実だし、別にいいか…………ん? 何か袖を引っ張られてる?

 見れば、ミカヅキがすぐ傍らに正座して俺の右袖を引っ張っている。


「……アオ、ボクも……頑張った」

「ああ、そうだな。オマエも頑張ってたな。だからプリン食っていいぞ」


 ミカヅキはもともと頭は悪くない。むしろ良い。今日の勉強でも特に詰まることはなく、登河さんが教えた端から吸収してる感じだった。

 この分なら、復学するにあたって学力の面では問題ないだろう。

 問題ないと思うんだが……。


「……ボク……頑張った。だから、ベニみたいに……アオから御褒美もらいたい……」

「オマエも特大プリン欲しいのか? でも、もう紅姫にやるって言ったしな……」


 燃え尽きるまで頑張るほど求めた特大プリンだ。ここで仲良く半分ずつにしろというのは、少し紅姫が哀れな気がしないでもない。

 だが、ミカヅキはふるふると頭を振った。


「特大とか……食べきれないし……そうじゃなくて……」


 ツイと揺れたミカヅキの視線は、紅姫を……その頭を撫でている俺の手を羨ましそうに見つめていた。

 要するに頭撫でて欲しいのか?


「お願い、アオ……ご褒美ください」


 上目づかいに見つめてくるミカヅキ。

 ……いや、そんな捨てられた子猫みたいに瞳を潤ませんでも、いくらでも撫でてやるが……。

 セミロングの天パ頭に手を乗せ、クセっ毛を軽く梳くように撫でる。


「これでいいか?」

「……ふあ……ぁ……!」


 ミカヅキは一瞬ビクリと身を震わせて、けど、すぐに嬉しそうに表情をほころばせた。


「うん……いい。もっと、もっと撫でて……アオ」


 ミカヅキは真っ赤になってうつむきながら甘えた声を上げる。


 ……まあ、喜んでくれるのは結構なんだが。


 抱きついている紅姫を左手で撫でつつ、赤面デレデレ状態のミカヅキを右手で撫でてるこの構図は、何だか端から見ると────。


「ロリコン詐欺師」


 投げられた冷ややかな声。

 見れば、絶対零度の眼差しを向けてくる登河冬華さん。

 俺もそう言われるだろうと思った。だが、それは大いなる誤解というものだ。


「あのな、コイツらは俺にとっては妹同然なんだ。だから……」

「じゃあシスコン詐欺師ね」


 ……どうしても詐欺師は外してくれないんですね。


「おいおい、碧継はロリコンでもシスコンでもないぞ」

「そうなの?」

「ああ、マザコンだ」


 流れるように断言する我が親友。

 うん。まあ、事実だからいいんだけどね。


「マザコン詐欺師なの?」

「……否定はしない。だってさ、仮にもウチの母ちゃんはあの人だぞ?」


 観念して台所を示せば、今まさに大きな土鍋を抱えて振り向いたアルルの姿。どうやら夕食は鍋物らしい。


「……ん? 何だ?」


 一斉に見つめられて首をかしげる彼女。

 その拍子にサラリと肩から流れ落ちた金髪。青瞳を穏やかに細めた可憐な笑顔に、登河さんは吐息まじりに頷いた。


「……まあ、確かに、こんな美人に全開で甘やかされてたら、マザコンになるのも道理よね」

「ふふ、それは誤解だ。アオツグはわたしに甘えたりなどしていない」


 しみじみ納得する登河さんに、アルルがやんわりと否定を返す。


「むしろ、不甲斐ないわたしが彼に支えられているのが現状だな」

「……へえ、そうなんだ。意外ね」

「意外……って、どんな風だと思ってたんだよ」

「どんな……って、まあいろいろよ……」


 プイッとそっぽを向かれてしまったところを見るに、あまり面と向かって説明できる想像じゃないんだろう。

 けど、残念ながらというか幸いにもというか、俺とアルルはそういう色っぽい関係ではない。


 ……そもそも、アルルの俺への感情は、あくまで母性愛みたいだしな。


 そんな相手に手を出すわけにはいかない。だから俺は日々自制しているのだ。まあ、それ以前に手を出す度胸もないんだが────。


「あ、アルル、ちょっと待て」


 アルルが卓袱台に土鍋を乗せようとしたのを制して、俺は台所の棚から卓上カセットコンロを取り出してくる。カセットをセットし、改めて土鍋を乗せて点火すれば、アルルは感心した様子で頷いた。


「おお、便利なものがあるのだな。これなら温めながら食べられる」

「カセットコンロ知らなかったのかオマエ」

「……のようだな。見た覚えはない」


 全生活史健忘……いわゆる記憶喪失状態であるアルル。

 失われているのは宣言的記憶、すなわち思い出であり、感覚で身に着けた記憶は消えていない。たとえばアルルはスパルタ戦士ばりに盾を使いこなすが、その術理を説明はできないし、いつどこで学び磨いたのかもわからない。

 アルルはカセットコンロに全く覚えがないらしい。ていないだけではなく、ていないようだ。

 そういえば初日の日、台所のガスコンロや電子レンジ、風呂の湯沸かし器やシャワーの使い方もわかっていなかった。教えれば戸惑うことなく使えるようになったし、あの頃は単に妄想癖の女と決めてかかってたので、深く気にしてなかったのだが……。


 改めて考えれば、少し妙ではあった。


 生まれてから二十歳前後に至るまで、シャワーや基本的な生活家電に触れたことがない人間というのは、いるのだろうか……?

 当然、世界的な視野で見ればいるだろう。

 だが────。


「……さあ、準備できたぞ」


 アルルの声に思考は中断された。

 土鍋のフタを開ければ、たちまち拡がる美味そうな熱気と香気。鍋の中では白菜や豆腐、キノコにネギに白滝などの鍋物具材の定番たちと、大振りに切られた角肉。たぶん、こないだ大量にゲットした猪肉だな。

 ぐつぐつと良く煮立てられた濃厚な味噌の風味が、居並ぶ全員の空きっ腹を刺激した。


「ぼたん鍋か?」

「肉は角煮にしているから〝ぼたん〟ではなく〝しし鍋〟だな」


 俺とアルルのやり取りに登河さんが微かに驚く。


「え? これ猪の肉なの?」

「こないだアル姉が仕留めたヤツだな!」

「仕留めたって、猪を?」

「そうだ! こーんなデッカいヤツを盾でビューンでガイーンだ! スゴいだろ!」


 ……ああ、本当にスゴいな、オマエの語彙力ごいりょくが。

 拙すぎる説明だが、あのケータイショップでの立ち回りを見ている登河さんなので、だいたい理解してくれたようだ。


「私、猪って食べるの初めてだわ」

「オレも食うのは初めてだな。結構クセがあるって聞くが……」 


 野生の害獣を狩って食う。

 ド級の田舎たる火尾木村でも最近はあまりないことだ。市街暮らしの登河さんと賢勇は興味深そうに鍋を覗き込んでいる。


「大丈夫だ。ちゃんとオトメさんに猪肉をお裾分けして調理法を習ってきたからな。……しかし、何ぶん初めての調理法だから、口に合わなかったらすまない」

「うまいに決まってる! アル姉の作るごはんはサイコーだ!」

「……おばあちゃんのレシピも最高……」

「最高に最高を合わせたんなら問題ないな」

「少なくとも、見た目と匂いはとても美味しそうだわ」

「ふふ、期待に応えられるといいのだが……さあ、今日はみんな良く頑張ったな。遠慮なく食べてくれ」


 アルルに促され、みんなが〝いただきます〟と、箸を取る。

 ただでさえ腹減ってるし、寒い時期の鍋物。さらにアルルが丹念に下拵えしてくれた食材たちだ。

 味は当然ながら美味かった。


「うまい! やっぱりサイコーにうまいぞアル姉!」

「……美味しい……」

「ああ、美味いな。これだけでも今日の苦労が報われるってもんだ」

「本当、臭みもぜんぜん感じないわね」

「口に合ったなら良かった。肉は紅茶で煮込んだ後に、酒に漬け込んだ香辛料と合わせて臭みを消してある。出汁も辛味噌をベースに濃いめにしたが……辛すぎたりはしてないだろうか?」

「大丈夫! サイコーにうまいぞ!」

「……辛いの好き……あったまる……」

「オレも辛いもんは好物だから問題ないぜ。つーか、もっと辛くてもいいくらいだ」

「私はこれくらいで丁度良いわね」


 みんなにも好評のようで何よりだ。

 ……それにしても紅姫、オマエは本当に〝うまいサイコー〟しか言わんのだな。


 俺はやれやれと苦笑いながら猪肉を頬張る。

 ボリュームある角切り肉なのに実にやわらかい。


 本当に、アルルがきてからウチの食卓は豊かになった。


 そもそも、以前はこうして誰かと食事するってこと自体がなかった。せいぜい学食で賢勇と食うぐらいで、こうして自宅でのんびり食卓を囲むなんて、それこそ何年も忘れていた光景だ。


 賑やかな食卓。明るい会話。穏やかな空気。

 絵に描いたように平和な食事風景。

 和やかで温かいはずのそれは、けれどもやはり、俺にとってはどこか現実感が希薄な……文字通りに絵に描いたような情景。

 少し前の俺なら、内心で嘲笑しながら否定していたはずの団欒だんらん

 それでも、今の俺は確かに安らいでいた。


「……? どうかしたか? アオツグ」


 青い瞳が覗き込むように見返してくる。

 どうやら、無意識に彼女の顔を見つめていたらしい。まったく……我ながら、美人の色香に惑わされているにもほどがある。


「……別に、俺ももっとシッカリしないとなって、自戒してただけだ」

「アオツグはシッカリしているだろう?」

「そんなことはない。オマエに守られてばかりだ」


 アルルは俺に支えられていると言ってくれたが、実際のところはこっちが守られてばかり。命の危機を救われただけじゃない。こいつがいてくれるおかげで、正直、俺は……俺の心は救われている。

 何だか、こうして口にするのは照れ臭いけれども……。


だからな。これからは、俺もオマエを守れるくらいに……」


 笑声まじりに紡いだ言葉は、だが、半ばで途切れた。

 眼前のアルルの微笑が驚愕に凍りついていた。

 驚愕……いや、これは恐怖か?

 現に怯えるように唇を震わせながら、アルルは俺の肩をつかむ。


「違うぞアオツグ……守るのは、わたしだ。だって、わたしは貴方の母なのだから……母は我が子を守る…………そうだろう?」


 震えた声。肩をつかむ手も震えている。

 何かに怯えるように、何かを忌避するように、アルルはハッキリと恐怖を感じている。

 けど、何に?

 アルルは何をそんなに恐れている?


「……アルル? いったい」

「わたしは! 貴方を守るんだ!」


 俺の声を遮るように彼女は声を上げた。


「わたしは守る! 貴方を守る! 貴方を守らないと! そのためにわたしは…………貴方を守れないのなら、わたしには、守るものが何もなくなってしまう!!」


 悲痛な声、悲壮な叫び。

 何かに急き立てられたように声を張り上げながら、アルルは俺を抱き締めた。必死に力を込めて、両腕で掻き抱くように、俺にしがみつく。


「ミソラアオツグ…………わたしは……貴方を……!」


 それは初めて会ったあの日に投げかけられた言葉。

 あの日、力強く唱えられたそれが、今はあまりにも弱々しくかすれていた。


 突然に取り乱したアルルに、俺はもちろん、他のみんなも呆然と。

 アルルは俺を抱き締めて……いや、すがりついて震えている。

 俺のことを〝守る〟と、震える声で繰り返してくる。


〝……わたしは、貴方を失うことが何よりも恐ろしい……〟


 以前にアルルが告げた言葉。

 それが本当はどういうことなのか、彼女が何をこんなに怯えているのかはわからない。

 わからないけれど────。


「……そうだな、なら、これからも俺を守ってくれ」


 俺が守られることで、彼女が救われるというのなら……。

 なら、今はそれでいい。

 俺には彼女が必要で、彼女には俺が必要だ。それがわかったから、今はそれでいい。

 震えるアルルを抱き締める。少しでもその恐怖がまぎれるように、あの停電の夜に彼女がしてくれたように、抱き締める。


〝……悲しいね。そういうのは、とても悲しいよ、碧継……〟


 いつだったか、深空白斗が呟いた言葉が脳裏によみがえる。

 なぜそれを思い出したのかはわからない。わからないけれど、それは確かに重く、頭の芯に響いていたのだった。

 


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