第7話 思い出はありません
火尾木村へと向かうバスに揺られながら……。
ザッと検索して調べてみたのだが、いわゆる記憶喪失というのは、医学的には健忘症の一種らしい。
記憶の追想や記録に障害が出るのが健忘症。
その中でも、主に宣言的記憶と分類されるものが追想できなくなる状態のことを、世間では記憶喪失と呼んでいる。
宣言的記憶とは、言語的に記憶した情報。
要は〝思い出〟だ。
一定の期間における〝思い出〟が回想できなくなる。あくまで消えるのは思い出であり、概念や通念など、感覚で記憶した情報は憶えていることが多いらしい。
それが何という食べ物で、どこで食べたかはわからなくても、食べ方と味は憶えているなど……。
記憶によって司る脳の部分が違うからと考えられているようだが、細かいとこは難しくて良くわからん。
アルルは病院で目を覚ます以前の思い出が、スッパリと喪失している。
まさに〝わたしは誰? ここはどこ?〟ってヤツだ。
名前や素性など自分に関わる全てを思い出せないこの症状は〝全生活史健忘〟といい、心因性や頭部外傷によって発生することがあるようだ。
なら、やっぱり原因はあのタライなんだろうな。
消えているのは思い出だけ。
実際、アルルは現代科学文明を普通に受け入れている。特に戸惑いも疑念も抱いている様子はない。バスを見て〝鉄の怪物が走ってる!?〟なんてベタに騒ぐことなく、車内にてスマホで記憶喪失について検索している俺にも、特別な反応は示さなかった。
つくづく、その言動と格好だけがズレている。
流暢すぎる日本語を話し、異様にリアルな騎士装備一式を携えた、自称〝騎士〟な金髪青眼の女性。
記憶が飛んだ上でも自身を騎士だと思い込んでいるのは、演じていたわけではないということなのか? そもそも〝騎士である〟という認識は宣言的記憶だと思うが、その部分の記憶は喪失しなかったってこと?
……本当に、わけがわからん。
何にせよ、この手の記憶喪失ってのは基本的に時間が経てば回復するものらしい。それまでは面倒見てやるしかないんだろう。
あまり時間がかかるようなら、その時はその時で、また考えよう。
ずいぶんと楽観的に過ぎた思考だが、正直、昨日の今日で心身ともに疲れていた。
今はとにかく、とっとと休みたい。
秋も過ぎた初冬の夕暮れは短い。
家に帰り着いた時にはもう太陽はほとんど沈み、周囲は宵闇に包まれていた。
俺はアルルを空き部屋に案内し、風呂やら何やらの最低限のことを説明したが、やはり彼女に戸惑う様子はなし。
それから、あり合わせのレトルトカレーで夕食をとる。
食べている途中で、アルルがジッと俺を見つめているのに気づいた。
「……何だ?」
「いや、その……少し踏み込んだことを訊くのだが……」
やや言葉を濁しつつ、障子戸の向こう……彼女に提供した空き部屋を指差して続ける。
「あの部屋は、ご両親の部屋なのだよな?」
「ああ、そうだよ」
「父君は行方不明らしいが、なら……」
訊きにくそうにしていたのはそういうことか。
まあ、デリケートな話だよな。けど、さすがに俺も幼い子供じゃない。変に気づかわれる方がわずらわしい。
「母親はいないよ。俺が物心つく前に死んだ。写真も何も遺ってないから、俺は顔も知らないし、思い出せるような記憶もない」
だから、別に気をつかうことはないんだぜ……と、そういうニュアンスだったのだが、疲労のせいか、表情や声音がどうにも強張ってしまった。
アルルは案の定、神妙な様子で肩をすくめて謝罪する。
「……すまない」
「いや、だから……」
説明しようとして、けど、うまく言葉が浮かばない。
どうもさっきから頭がぜんぜん回ってない。疲労が、特に心理面での消耗が激し過ぎるんだろう。
……まあ、いいか。とにかく考えるのは明日だ。
俺はさっさとカレーを掻き込み、自室に引っ込むと、とっとと休むことにした。
昨日と同様、風呂やら何やらは朝起きてからにして、布団に潜り込む。
まぶたを閉じて、ゆっくりと呼吸を整える。
本当に疲れている。心身ともに疲れている。とても眠い。
なのに、眠れない。
……クソ、イヤな気分だ。
脳裏にグルグルと渦巻いている雑念。
今日、戌亥刑事に会ってから……いや、学校で周囲のイタイ視線にさらされてから、ずっと俺をさいなんでいる嫌悪感。
深空白斗。
あのロクデナシの記憶が、俺をさいなみ続けている。
アイツの脳天気な馬鹿面が、ずっと脳裏に居座っている。
いつもニコニコと愛想良くて、調子が良くて、怒ったりとか、声を荒げたりなんてしたところは見たことがない。
陽気で穏やかで、誰がどんな失敗をしようと笑って流す。
それだけ聞けば素晴らしい人格者のようだが、実際にはただの狂人だ。
〝……碧継。暴力は最低の行為だ。暴力は、どんな理由があろうと正当化されてはいけないし、してはいけない。暴力は新たな悲劇を生むだけで、決して本当の解決をもたらすことはないんだから……〟
人には知恵があり、人には言葉がある。
対話こそが人間の最高の
〝ペンは剣よりも強し〟
それが親父の座右の銘だった。
暴力はいけません。腕力に頼ってはいけません。話し合いましょう。
それが親父の信条で、どんな時にも、どんな相手にも、ひたすらにそれを貫いていた。
幼い頃は、そう、物心ついたばかりの幼い頃だから仕方ないけれど、俺はそんな親父を誇りに思い、カッコイイと憧れたりすらしていたもんだ。
……本当、思い出すだに胸クソ悪くなる。
何が誇らしいものか! 何がカッコイイものか! 綺麗事と理想論に拘泥したロクデナシの狂人め!
〝碧継、言葉には力がある。言葉の力は無限大なんだ。人は言葉によって全てを生み出し、全てを成し遂げることができるんだ〟
子供のように目を輝かせて語る親父の姿を、今でも憶えている。
忘れたくても、忘れられない。
言葉で示し、言葉で繋ぎ、言葉で動かし、言葉によって無を有にする。
……ああ、そうだ。あんたの言う通りだよクソ親父!
人の言葉には力がある。だからアンタは言葉を磨き、言葉を操り、言葉を吐き続けた。
最悪だ。
夢のような言葉を並べ立て、夢のような理想を
それを世間では〝詐欺師〟と呼ぶのだと、あの男はどうしてわからなかったんだ!?
……最悪だ……本当に、最悪だ。
胸裡に淀んだ苦い思いを吐き出そうと、深い呼吸を繰り返す。
どれくらいの間、そうして布団の中で苦悩していたのだろう。
眠いのに眠れぬまま、休みたいのに休めぬまま、意識は混濁しかけて呆然と。それとも半分は
今は何時頃か?
確認するのも億劫で、頭痛と吐き気まで感じ始めて、自分が息苦しいのか寝苦しいのかも判じきれぬままに……。
ふと、誰かが俺の額に触れた気がした。
まるで熱でも測るかのように、誰かの手のひらが、そっと触れてきた。
ああ、何だろう。何だか……懐かしい。
ずっと昔にも感じたことがある気がする安らいだ感覚。
火照った額に触れるそれは、ひんやりと心地良い。なのに、確かに温かい感覚。
ぼんやりとまぶたを開ける。
力なくまどろみながら垣間見たのは、点けっぱなしの室内灯に陰った人影。俺の枕元に座した誰かの姿。
懐かしくて温かい、優しく俺を気づかってくれている誰かの気配。
「……おかあ……さん……」
何となく、そんな気がした。
母親のことなんて知らない。憶えていない。
周囲には母代わりを務めてくれる親戚もいなかった。だから、俺にとって母親なんてのは、他人のそれやフィクションやらで見る中から見出した想像でしかない。
それでも、その触れてくる感覚が奇妙に懐かしく温かくて……。
俺は静かな安らぎに包み込まれて、ゆっくりと眠りに落ちたのだった。
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