第19話 

 礼の体は、妊娠したと自覚したら急につわりの症状がでた。吐き気で、何を食べても吐いてしまう。体もだるくて、眠い。実言が春日王子の宮から帰った翌日、礼は体を起こすことができなくなった。七日が立ち、礼は食事できず痩せていくので、縫も心配する。

「実言様、どうか礼様にお食事をさせてくださいまし。実言様でしたら、礼様もお食べになりますから」

 縫はいいつけるように、宮廷から帰ってきた実言に言った。

「では、食事を持ってきておくれ」

 実言にすくった粥の匙を差し出されたら、礼はおとなしくそれを口に入れた。

「苦しくないか。もう一口お食べ」

 実言に差し出された匙を口に入れ、薬湯を飲む。

 そこで、久しぶりに体を起こして実言を見たわと礼は思った。最近は褥に横になったままで、そのそばに実言が座って声を掛けてくれていた。

 礼には実言の顔色が悪く見える。実言は礼のことばかり心配するが、実言もやつれて、疲れがにじみ出ている。

「先ほどは母屋で何かあったの?」

 礼はそう訊ねた。

 実言が帰ってきたとの連絡を受けたが、一向にこの離れにやってこない。突然に母屋の方が騒がしく、大きな声が聞こえて来て、母屋で父や兄たちと何か話をしているのだろうと、礼と侍女たちは言い合った。

「何が起こっているのでしょうか?」

 澪が簀子縁まで出て心配そうに母屋の方を窺った。女たちは顔を見合わせて、母屋はどうしたことかと気にしていたところだった。

「ああ、ここまで声が聞こえていたのか。父上や兄たちと話し込んで、盛り上がってしまったのだ」

 実言は礼を寝かせると、自分は別の部屋で書き物をするからと言って出て行ってしまった。礼も相変わらず体のだるさがあるので黙って横になるとうつらうつらした。

 それから三日後、礼はこの時の母屋の話を知ることになる。

 礼は寝てばかりいられないので、寝所を片付けて、机の前で肘掛に寄りかかり、薬草の本を見ていた。まだ吐き気や体のだるさは収まらないが、随分と軽くなった気がする。

 簀子縁で縫と澪が声を潜めて話をしている。

「どうやら、先日の母屋での話は実言様が戦に行かれることだったようです!母屋の侍女が話しておりました。北方の夷の成敗ですと。でも、とても厳しい情勢で、長い戦になりそうだと言われているそうです。また、生きて帰る者がいないと言われているとか。不吉なことと、皆が心配しておりました」

 礼が奥の部屋にいると思っているのか、二人は話をやめない。

「こちらには、何も聞こえておりません。実言様はまだお話しくださらないのですわ。礼様のお身体を心配してのことでしょうか?これが本当であれば、礼様の体にはどれほどの衝撃があることか」

 二人は話しながら、火桶の炭を足すのに簀子縁から奥へと向かった。

 礼は肘掛にもたれていた体が震えてずり落ちそうなほどに、動揺した。

 胸騒ぎがする。戦に行くことが本当なら、なぜ実言は礼に言わないのか。礼の妊娠がわかり、つわりにも苦しんでいるから、心配をかけたくないためなのか。

 よくないことばかりが考えられて、礼は突っ伏したまま動けなくなった。

 確か、今朝は宮廷で重要な会議があると言っていた。もしかしたら、戦のことなのだろうか。

 未刻(午後二時)に実言は離れに帰ってきた。

 礼は机の前に座って、本を読んでいた。実言は礼の代わり近づいてきた澪に腰に下げた刀を渡して、礼の前に座った。

「どうした?礼、今日は寝ていなくても大丈夫なのか?それにしても、顔色が悪いじゃないか。奥の部屋にいって休もうか?澪、用があったら呼ぶから、お前たちも休んでおいで」

 実言が人払いしたことで、今日の朝の宮廷会議がどのようなものかわかった気がする。礼は実言に手を引かれて、寝台へ乗った。

「もう、気分が悪くなることはなくなったのかい」

 礼は清々しく笑う実言の問いになど答えたくなかった。そんなことより、礼に話さなくてはいけないことがあるはずなのに。

「実言……戦に行くの?」

 眼帯をした礼は、普段は必要以上に顔を近づけて来ない。しかし、今は実言の目を外さないように、右目を近づけて実言に詰め寄ってきた。実言は嘆息して、礼の両頬を手で包む。

「母屋での話を聞いた者がいたのかい?私は礼に今から話して聞かせようかと思っているのに。とんだ水を差されたものだね。礼……私は戦に行くことになった。年が明けたら、北方の夷との戦いに向かう。いつ帰るとも約束できぬ戦であるが、私は軍人だからね、行くしかないのだ。わかってくれるね」

 実言は真っ直ぐに礼の右目を見つめて言った。認めるしかないことだが、礼は胸騒ぎがおさまらず、実言の手から逃れるように顔を振った。

「嫌よ。嫌です」

 実言の手は優しく礼の両頬を包んでいて、礼が抗うように顔を振っても離さない。

「礼。わかっておくれ。これは私が大王から頂いた役目なのだ」

 春日王子との出来事が何事もなく終わって、懐妊の喜びと無事出産した後の生活を夢見ていた矢先の実言の出征の話である。礼は、到底受け入れられるものではなかった。それも、年が明けたらすぐというと、腹の子を見ることなく実言は戦に行くことになる。礼はいつもと逆に右を向いて左顏を見せる。右目から涙がこぼれそうになるのを我慢した。

 実言は礼の左目の眼帯の上に顔を寄せて、口付けた。礼は、我慢していた涙がこみ上げてきて、嗚咽を我慢したが、うっ、と押し殺す声が漏れてしまう。

「礼。泣いておくれ。どうしようもないことだから、我慢しないで」

 礼は実言が着ている袍を掴んでその胸に顔を伏せるとむせび泣いた。

 それから十日ほど過ぎて、礼の体はつわりの症状も治まり落ち着いた。それを待って、実家の真皿尾家を代表して三番目の兄の兼正が訪ねてきた。三番目の兄は二番目の兄瀬矢と同母であるため、兄弟仲が良く、瀬矢が亡くなった後、そのかわりを受け継いで、何かと礼を気にかけてくれる。懐妊の知らせは、実家の真皿尾家にもすぐに連絡していたため、祝いの品と共に会いに来てくれたのだった。

 実言はまだ宮廷から戻ってきておらず、礼一人で兄と話をしていた。

「それにしても、まずはおめでとう。父上もたいそう喜んでいらっしゃった。お前は体にいろいろ傷を負うことがあったため、懐妊には何かしらの障りがあるのではないかと心配していたところだったのだ。本当に良かった。おめでとう」

 兄はくどいように同じことを言った。

「結婚してから一年。そろそろ懐妊していいころと、こちらも心配していたのだ。お前は実言殿にもらっていただいたも同然だから、もしも子を成さぬとなればこちらから新しい夫人を迎えてもらうようにお願いしようと考えていたところだった。その矢先の知らせだったために、父上や兄弟みな、安堵したのだよ」

 礼は平静な顔をして話しを聞いていたが、実家では実言に新しい妻を娶るよう勧めるつもりがあったと聞いて悲しい気持ちだった。

「しかし、実言殿も、何というか……北方の制圧の戦に行くことになるとはな。それも、副官であられる。大した役割でいらっしゃる。この制圧を成し遂げれば、岩城家だけでなく、実言殿ご自身の地位も確立され、安泰であるな。だが、何しろ北方の戦では相手の方が地の利も手伝って優勢であり、敗戦が続いている。かなりの損失を出しており、宮廷においても、この出征で決着をつけたいと考えているようだ。軍の長である春日王子が、大王に実言殿のことを推薦なさり、急遽決まったと聞いたが、宮廷ではこれは適任とおっしゃる方が多くいらっしゃる。確かに戦としては難しいものであるが、岩城家であれば成し遂げてくれるであろうとみな、期待しておるところだ」

 礼は、兄の話の中に春日王子の名が出てきたことに驚いた。

「春日王子が、実言を推薦なさったの?」

「そのようだ。父上の話では、宮廷の評議の場で春日王子が大王に次の北方制圧の副官には実言殿をとご推薦されたとのことだ。実言殿は岩城家の三男といっても、その地位はまだ低く副官になれるものではないものを、抜擢されたようだ。すでに水面下では話が通っていたらしく、園栄殿もそのほかの臣下も反対される者はいなかった」

 礼は、春日王子が実言を推薦したことを素直に受け取れなかった。それは、あの時の代償のように思えてならない。実言は、王子はわかってくれたといって、笑っていたけれども。

「今回の制圧は並々ならぬ意気込みで臨むとのことであり、必ず勝って参れと大王も言われたそうだ。実言殿も評議の場に出席されて、その命令を畏れ多くもお受けされたと聞いた。お前もそのような体ではあるが、実言殿が出発されるまでの間、よくお仕えしてお慰めするのだぞ」

 くどくどと兄は礼に言い聞かせた。昔はこんなに説教のようなことをいう人ではなかったが、時が立ち宮廷内の地位を維持するために苦心惨憺していると、このようなことをいうようになるのか、と礼は考えた。

 しかし、春日王子の名を聞くにつけて、不安になる。この戦の出征が春日王子と礼とのあの出来事と無関係とは思えない。春日王子はわかってくれたと実言は言ったが、本当は全く違った話になっていたのではないだろうか……。

 礼は兄の話に上の空で考えていたところ、頭上から呑気な声が聞こえた。

「これは兄上。いらっしゃいませ」

 実言が宮廷から帰ってきて、離れに現れたのだった。

「実言殿、いらっしゃらない間にお邪魔しております」

「いいえ。今日は少し退出が遅れまして。いつもならすでに帰ってきているところです」

「おかえりなさいませ、あなた。兄が、真皿尾家を代表してお祝いを言いに来てくれたのです。祝いの品もいただきました」

「それは、ありがとうございます」

 縫が現れ、礼の隣に実言の座る場所をつくり、実言はそこに座った。

「退出が遅くなったのは、戦の準備ですかな?」

 実言と向き合った兄の兼正は言った。

「ええ。そうです」

「お忙しいですな。実言殿も、春日王子に見出されるとは、さすがですな。それも、副官とは、春日王子は実言殿ではならないとの仰せだと聞いています。実言殿の武功を聞き及んでいらっしゃったのでしょう。大王の決意も並々ならぬものがおありのようで、今回の出征は必ず成果のいるものですが、実言殿であれば、成し遂げられるでしょう」

「いえいえ。今回、大変なお役目をいただき、今はそれに応えることだけを考えていますよ。しっかりと準備をして臨むつもりです。必ずや大王の望む成果を上げてくる所存です」

 実言は目を細めて控えめに笑った。

「礼。お前は少し奥で休んだ方がよくないかい?兄上、礼を休ませてもらいますよ。縫、ちょっと来ておくれ」

 礼は何も言っていないのに、実言は礼を下がらせた。春日王子の名が出ると、礼が俯いたのを気にしてのことかもしれないし、これ以上出征の話を聞かせたくないのかもしれない。

 縫が現れて、礼は付き添われて奥へと引っ込んだ。それから、兄の兼正と実言はまだしばらく政治のことなど話し込んでいた。

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