第16話 

 春日王子は礼の右側に倒れ、礼の胸と足の上には王子の腕と足を乗せたままになっている。

 礼は王子の手足を載せたまま、王子の寝息を聞いていた。そこで初めて涙を流した。声を上げないように、唇を噛み締めた。露わになったままの乳房をそっと肌着の襟を掴み戻して隠した。そして、身じろぎせず、夜が明けるのを待った。

 そっと自分の胸と腹の上に左手と右手を置いて、この時間を耐えた。こうなってしまったら、後戻りはできない。自分のできる最善を尽くすしかない。それは、お腹のややを守ることしかないと思う。

 部屋の中が少し明るくなった。

 夜が明ける。

 この場をどうしたらいいのだろうか。

 王子は規則的な寝息を立てている。

 礼はもう暫くそのままに時間が経つのを待った。

 そうすると、廊下をゆっくりと歩く音が聞こえた。侍女が朝を知らせに来たのだ。この状況をどのように説明したらいいのか。礼は、自分の胸の上にある王子の手をゆっくりと移動させて、上半身を起こした。結い上げていた髪は乱れて解けてしまった。結い紐をとって、髪を垂らして、左側に垂らし胸の前でまとめた。

 御簾が揺れて一人の女が入ってきた。侍女であろうが、昨日見た侍女とは違っている。寝台の上に身を起こして座っている礼にすぐには気づかず、そろそろと寝台に近づいてきた。王子のそばに誰かいることに気づいて、立ち止まった。

 礼は、顔を強張らせた侍女が大きな声を出すのではないかと身構えたが、反応は違ったものだった。

「しっ」

 犬を遠くへ追い払う時のような声を出して、寝台の上にいる礼を追い立てる。

「いつまで寝ているのだ」

 小さな声でそう叱責された。

 礼は王子を起こさないように体を抜いてゆっくりと寝台から降りた。寝台の上の帯を掴み、脱がされかけた裳を押さえて、部屋の隅に移動して、手早く衣服の乱れを直して着直した。

「お前はどこの者だい?」

 礼は少し考えて。

「薔薇の館の者です。申し訳ありません」

「早くお戻り」

 礼は追い出されて、春日王子の部屋から王宮に通じる渡り廊下を渡った。見張りは立っておらず、礼は昨日来た道を後戻りした。

 王子の部屋に入ってきた侍女は、礼をどこかの後宮の侍女と思ったようだ。どこの者だと聞かれて、薔薇の館と答えことが、すんなりと受け入れられたことでわかった。薔薇の館とは詠妃の住まいのことだ。そこの侍女だと言って、早く戻れと言われたのは、春日王子にとっては王宮内の侍女との一夜の戯れは珍しいことではないのだろう。侍女が誤解してくれたおかげで、あの場を去ることができた。礼は無我夢中で車止めの部屋まで戻ろうと思った。いつもなら、車止め近くの付き人の控えている部屋に縫はいるが、一晩中そこにいるとは考えられなかった。一旦岩城の邸に帰って、後宮から使いが来るのを待っているだろうが、礼はまずそこまで行って、縫がいないことを確かめたかった。

 王宮内の春日王子がもらっている部屋から、この車止めまで長かった。長い廊下では隠れることもできず、何度か侍女とすれ違ったが、礼は左顏を見られないよう顔を俯けて通り過ぎた。何人かの侍女は訝しげに見ていたが、礼は気にせず足早に立ち去った。

 ようやく付き人の待つ部屋の並ぶ棟まで来ることができた。いつもはここまで来ることはなく、縫が迎えに来てくれるのだった。こんな朝早くに、一つ一つの部屋を覗くのも憚られて、礼は絶望的な気持ちになった。

 そこへ、廊下に出てくる者があり、その者が礼の方へ顔を向けた。

「礼様」

 小さな声だったが、よく通って、礼の耳にも名を呼ばれたのが聞こえた。

 静かに、しかしできるだけ速く、礼のもとにたどり着こうと、縫は駆け寄ってきた。

「縫」

 礼の目の前に来た縫は、今にも泣きそうな目をしていた。

「礼様。ああ、良かった」

 二人は手を取り合った。

「詠妃の使いの方が、礼様は詠妃のところで話し込まれていて、今日は泊まると言われて、一旦帰れと言われたのですが、私は納得がいかず、無理を言ってこの控えの間に泊まらせてもらったのです。お待ちしていて本当に良かった。このようにお会いできたのですから」

 縫は早朝の誰もいないことをいいことに、礼を抱きしめた。礼も縫の体を抱きしめ返して、一息ついた。

「すぐに岩城家に使いを出します」

 縫はそう言った。詠妃に帰れと言われて、縫は牛車とその供の者は返して、耳丸に事情を話すように指示したとのことだった。

 縫は礼を先ほどまでいた付き人の控える部屋に入れると、誰か使いを頼めそうな者はいないか、車宿にいる下働きの者を探しに行ったが、すぐに戻ってきた。

「礼様、岩城の車が来ておりましたわ。すぐにお邸に戻りましょう」

 縫について、牛車の乗り場へ行くと、耳丸がいた。

「実言様のご指示により」

 礼が牛車に乗るのを助けながら、耳丸が言う。

 礼は牛車に乗り、王宮から岩城の邸へ戻る。箱の中には、礼と縫の二人で、耳丸は外で一緒に歩いている。

「礼様。髪も乱れて、顔色もたいそう悪いですわ」

 再び会えた喜びの気持ちが落ち着くと、縫は礼の様子を観察した。礼は春日王子の部屋から出る前に衣装の乱れは直したつもりだが、じっと侍女にみられていたので、着崩れたものをきっちりと直せていなかったのだ。上げていた髪は解けて下ろし、櫛を通していないのでくしゃくしゃのままである。

 悲しそうな顔をして俯く礼に、縫はたまらずその手を握る。

「とても冷たいですわ」

 縫は礼の指先を温めようと、自分の手の平に挟んで擦った。礼は黙って縫がしてくれることに身を任せた。

「お邸に着きました」

 車の外で耳丸の声がした。やがて、岩城家の離れに近い門の前で車を止めた。御簾が上げられ、先に縫がおり、縫と耳丸に助けられて礼は牛車から降りた。縫に支えられて門を潜ると礼の体に手が伸びた。

「礼」

 実言は礼の手を取って、縫からその体を預かった。礼は実言の声を聞いて、安心するとともに、畏れにより小刻みに震え始めた。実言は礼を抱きしめた。すると、礼の小刻みな震えは自分の意思では体を制御できないほどに大きくなり、肩が上下し始めた。

「礼。大丈夫だ」

 立っていられない程の、体が踊り狂いだしそうなくらいの大きな震えを押さえ込むために実言は礼をきつく抱きしめた。それでも鎮まらない礼の震えを実言は何度も何度も言葉で言い聞かせた。

「大丈夫だ。お前は私の元に帰ってきて来てくれたのだから。もう、大丈夫だよ」

 礼は、実言の腕の中で、自分がしたことの恐ろしさを思い出した。そして、それが実言や岩城一族にどのような影響を及ぼすのか、考えただけでも恐ろしい。礼は、実言の耳に口を寄せて、車の中で考えていたことを言った。

「命をもって償います。でも、どうか猶予を、猶予をください。それだけはお願いして」

 実言は礼を横抱きにして、離れの階を上がった。用意していた寝所に寝かせるが、礼は実言の首にまわした腕を離さない。実言は礼の腕をとって、優しく解いた。それでやっと礼は横になった。澪が持ってきた薬湯を飲むのに一度体を起こしたが、少し口をつけただけでそれ以上は飲めない。

「礼。詠妃がお前と夜通し語らいたいとのことで、泊まることになったと聞いたが、一体何があったのだ」

 実言は礼に尋ねた。礼は俯いて、すぐには話すことができなかった。実言は縫だけを残して、人払いをした。

 礼は、ゆっくりと切れ切れに昨夜のことを話した。

 詠妃の部屋から、春日王子の部屋へ行くことになったこと。春日王子は礼の左目の傷と須和の娘であることに興味をもっていたこと。特に須和の娘に興味を持っていて、夜伽を命じられたこと。そして、それに耐えられず、礼は持っていた眠り薬を自分が飲み、昏倒しようと思ったが、礼が飲むはずだったその薬を誤って王子が飲んでしまったこと。王子は寝台の上で眠り、礼はその横で一晩を明かしたこと。朝、王子を起こしにきた侍女に、王子の一夜の相手をした後宮の侍女と勘違いされて、部屋を抜け出すことができたこと。

 礼は、最後は言葉を継ぐのも難しいほどに、肩で息をしながら話した。

「王子様に催眠の薬を飲ませてしまった。自分が飲むはずであっても、あの場にそのようなものがあったことが間違いだったのです。今になってわかります。実言、あなたや岩城の家にどのような禍いを招くことか。私がしてしまったことは、命でお詫びしなくては。でも、少しだけ猶予をいただきたいのです。それだけは、それだけはお願いします」

「礼、それはどういうことだ」

 実言は、猶予が欲しいという礼の意図がわからなかった。礼がより近くで話したそうな素振りを見せたので、受けるように実言が顔を近づけると、礼は実言の耳元に口を寄せて話した。

 昨日わかった自分の体のことを。

 実言は礼の言葉を聞くと、笑った。

「ならば、体を休めなくては。お前は、とても疲れているからね。さ、体を横にして」

 実言は礼の体を横にするのを手伝ってやりながら、自分も礼に添い寝するように寝転んだ。

「礼、私は嬉しいよ。お前が心配することは何もない。私に任せておけばいいことだから」

 今の礼は顔色も悪く、疲れ切っていた。懐妊による体の変化を自覚した上に、昨夜の春日王子との出来事が堪えている。

 実言は礼の眼帯を外してやる。

「目を閉じて」

 実言に言われるまま礼は目を閉じた。閉じた目から涙がこぼれて、たまらず礼は両手で顔を覆った。

「礼、眠るのだ。そして、起きたら全てはいつも通りだ」

 礼は実言の声を聞きながら、意識が遠くなる。顔を覆った手を実言の手が優しく握って体の横に戻してくれるとすっと眠りに落ちた。

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