第17話 

 実言は礼が眠ったのを確かめて、添い寝していた体を起こして、縫を呼んだ。

 隣の間に控えていた縫が現れた。

 実言は寝所を囲んだ几帳の中から出て、縫に礼の体のことを話した。

「私、気がつきませんでした。申し訳ありません。ああ、なんとおめでたいことでしょう」

「礼が起きたら、医者を呼んで看てもらっておくれ。人の体のことばかり気にして自分の体のことは忘れていたのだろう。人の気持ちに応えたいと思って、自分のことは置いて無理をするから。礼らしいことだ。……私は今から出かけるから、着替えを手伝っておくれ」

 実言は外出着に着替えると、馬を用意させた。

「礼が起きて私がいないことを心配させないでおくれ」

 実言は馬に飛び乗り、一人王宮に向かった。

 馬上で実言は考えた。男として礼の体に触れたのは実言しかいない。礼は実言しか知らない。一途な性格のため、一度決めた実言への思いから、どれほどの貴人の命令であっても受け入れることができなかったのだろう。実言にとってはその思いが嬉しく、たとえ王族に刃向かうことになろうとも礼を守ってやらねばと思っている。

 王宮に着くと、その内にある春日王子が与えられている部屋への取次を頼んだが、王子は王宮から下がって、自身の宮に帰っているという。実言はすぐさま、王宮を出て、王宮の近くにある春日王子の住まいの宮へ行った。春日王子は大王とは異母兄弟である。先代の大王には、四人の妃がいたが、正妃と二番目の妃の間にそれぞれ生まれた男子が現大王と春日王子である。現大王は政治をするのに、専制的な支配ではなく臣下の岩城や椎葉と距離を置きながらもその意見に耳を傾ける。王族全体の権力も維持するためにも、弟の春日王子を頼りにされていた。そのため、形ばかりと揶揄されているが国境の警備を司る軍隊の長に任命して政治へ関わりを持たせ、権力の均衡を保った。しかし、春日王子は軍隊の人事を操るようになり、その発言は強くなった。今では臣下の岩城、椎葉と王族代表の春日王子の三頭が角を突き合わせて政治を回しているような状態である。

 碧妃や詠妃のところに通う礼を見て、その容姿に興味を持ち、岩城家の女だと知って部屋に呼んだのだろうか。礼の話では、須和の娘のことを知っていて、礼に興味があると言われたといっていたが。

 厄介な相手との交渉になった。その相手には、はっきりと覚悟を決めて対峙しなければならないと思った。

 春日王子の宮である、双玉宮に着いた。時刻は午刻(正午)をまわった頃だろう。名を名乗り、王子にお目通りをお願いしたいと従者に取次を頼んだ。少し待たされて、別室へ案内された。まだ、会うとも会わないとも返事をもらっていないので、まずはその返事を待つために部屋に案内されたようだ。実言は一人、その部屋で待った。時刻としては申刻(午後四時)頃、部屋の前に人の影が立ち、入ってきた。姿は臣下の装束で王子の側近の舎人と思われた。

「王子はお会いするとのこと。ご案内する」

 その者に伴われて実言は王子に謁見するための広間に案内された。

 その部屋は異国風に王子が作らせた人に会うための間のようだ。高い天井に、床は石畳にして、一段高く作った広間の真ん中に立派な椅子を設えている。実言が膝を折っている石畳と王子がこれから座る椅子の間には高い天井を支えるための二本の太い柱があり、彫刻と色彩が施されていて威圧と荘厳を与えている。

 実言は石畳の上に頭を下げ、膝を折ったまま王子が現れるのを待つ。待ったが、一向に王子は現われない。その姿勢のまま、刻は戌刻(午後八時)へと移った。実言の姿勢が崩れると、見張りにたっている者が持っている槍の柄の先で小突く。実言は何度か姿勢を正されて、王子が現れるのを待った。

 その間実言は、改めて春日王子という方の人物について考えた。

 実言は階位からして、大王や王族の面前に対することはないので、間近に拝見したことはない。職は軍事の長であるため、実言の仕事である都の警備には関わりがあるが、その姿を遠くから拝見する程度で直接お声をかけていただいたことはない。だから、実言が実感として持っている感想はないのだが、人から聞くその姿、行動については今、合点がいっている。

 人の情に薄く、自身の感情によって人を裁くことが多い。そのため、言われのない出来事で失脚した者は数知れず。また、嗜虐的な面があり、言葉でまたは直接肉体をいたぶって苦しめられたという話は一つや二つだけではなかった。

 今も、その嗜虐的な一面により、実言を精神的にも肉体的にも苦しめて愉しんでいるのかもしれなかった。そうであっても、実言は耐えるしかない。

 時刻は子刻(午前零時)をまわった。実言は眠気に襲われて、何度もその姿勢を崩したが、そのたびに見張りの男に槍の柄で小突かれる。実言を見張る者は数刻ごとに入れ替わっているようで、実言のように眠気に襲われることはない。

 眠気の最高潮を過ぎれば、実言の意識はらんらんとしてきて、このいじめにも挑むような気持ちが芽生えてきた。

 更けた夜はやがて明ける。外は白々と薄明かりに照らされ、朝の光が、この謁見の間にも差し込んできた。この意地の我慢比べはいつまで続くだろうかと思っていると、遠くから部屋に通じる廊下が騒がしくなってきた。

 時刻は卯刻(午前六時)をまわったころだろう。

 実言は緊張が体を走った。気力、体力を消耗させられて、対面する前から打ち負かされるわけにはいかない。これからが本番なのだ。

 どたどたと廊下を踏み鳴らす音がして扉が開いた。実言から一段高くなったその板間に男が一人入ってくると、大きなあくびとともに、両腕を上げて伸びをした。

 春日王子は、伸びをした両手を下に降ろし、椅子の前まで来て、下の石畳に控えている男を認めた。

「ああ、そういえば、私に会いたいといってきた男がいたと聞いていたが、それはお前か」

 王子は思い出したというような口調で言って、椅子に座った。

「はい。岩城実言でございます。春日王子にお目通りを願っておりました」

「岩城実言……岩城の家のものか?その者が私に何の用だ?」

「はい。昨日……いや、二日前に我が家の者が王子のお身体の相談に上がった時のことでお伺いしました」

「……そうだったな。そのせいで、昨日は一日中寝たり起きたりよ。お前に会おうと思っても、体が上がらなかった」

「その者は大王の妃様のお身体のことなど相談にのっておりまして、どちらかのお妃様からお聞き及びになった春日王子がその者を部屋に呼び、不眠を訴えられたため、その者は薬を処方して差し上げ、飲まれたあとのご様子を見守るために朝方まで付き添っていたと言っております」

「ふうん」

 王子は頷いただけだった。

「今の王子のご様子を窺いみると、その夜のことは我が家の者が言う通りと確信いたしました。朝方まで王子はぐっすりとおやすみになり、朝を知らせる侍女が来た時に変わるようにして帰ったといっております。お休みのままでしたので何も挨拶をせずに宮から下がってきたと言っておりました。王子におかれましては、薬の効きも良く、昨日もよくお休みなられたようでございます。薬を処方いたしました岩城の者は、私の妻でございます。急なご相談を受け、十分な用意もない中、王子の求めに応じてしまったことを大変恐縮しておりまして、お詫びに私が参上いたしました。どうか、お赦しください」

 実言は深々と頭を垂れて、冷たい石畳に額をつけた。

「そうか。……そうか」

 王子は遠くを見るような目で宙を見つめて、二回同じことを言った。

「実言よ、近くによれ」

 高座の席から王子は立ち上がり、実言に命じた。実言も低い体勢で、膝を進めて、石畳と高座の境まで来る。後ろの見張りの者がそれに合わせて後ろから近づいてきた。

「来なくてもよい。身はあらためてあるのだろう。何も持ってはおるまい」

 王子は椅子のそばに置いてある刀掛けから一振り手に取り、鞘をとって抜身にした。

「しかし、用心に越したことはない。何かあれば私が対処する」

 と言って、一段下にいる実言の前に立ち、抜身を手にしたまま身をかがめて見下ろした。

「身をあらためてもお前の妻は持っていたがな」

 二人にしかわからないほどの小さな声で王子は言った。

「あの日、私は眠っただけだが、ことによっては岩城家が私に薬を盛って何か仕掛けたと思われてもおかしくないぞ。お前は、不眠の相談に乗ったということにしたいようだが」

「私は妻の言う事実を申し上げているのです」

 実言も小声で返答した。

「私にも考えがある。お前の思い通りにはさせぬ。岩城家に逆心の企みがあると大王に訴え出ることもできるが、それはお前次第だ。……私には欲しいものがある。それをお前は差し出せ」

「何をでしょうか?」

「わかっているだろう。とぼけるな。お前の妻だ。聞けば、須和の娘だという。私も須和の娘の迷信めいた話はまんざら嘘だと思っていなくてね。お前も信じているから、あの女を妻にしたのだろう。お前の元に帰ってしまっては、無理やり手に入れることもできなくなった。だから、代わりにお前がその手で私に差し出すのだ。それがこの件を収める条件だ」

「それは聞けません。あれは私の妻で唯一の女でございます。渡すことはできません」

「では、どうするのだ。岩城家に逆心の疑いをかけるぞ。あの日の様子を侍女たちが見ておるからな、私に有利な証人は多くいる」

「これは我々夫婦に関わること。家とは関係ありません。妻の無礼を詫びるのが私の役目ですので、妻に罪があるというのなら、罰はどうか私へお与えください」

「ほう。王子にわけのわからぬ薬を飲ませて、手違いにせよ殺しそうになった罪は死に値するものだぞ。お前はそれを受けるというのか」

「はい」

「妻の代わりにお前が死んでもいいというのだな」

「はい」

「なんと、美しい。女のために死ぬという。私にはできぬことだ。そのようなことを言い出したものなら、多くのものが必死に懇願して止めさせるだろう。愛する者を救うために己の命を差し出すとは、お前は自由であるな。しかし、その言葉を撤回するのは今のうちだぞ、いいのか?」

 実言が黙っていると、今まで二人にしか聞こえない小さな声で話をしていた王子は、急にその場にいる側近や見張りの者全員に聞こえる声で言い放った。

「お前は死をもって償うというのだな!」

 何度も死ねるのかと問うて、心変わりしないか確かめる。死を受け入れる様子を愉しんでいるように見える。人の命を弄ぶことなど大したことではないのだ。そして、この場にいる皆の前で宣言させる。実言は三度目の同じ問いにも答えは変わることはない。

「はい。そうでございます」

「わかった」

 王子は抜身を握り直した。実言の前に屈んでいた体を起こし、屋根を支える二本の柱の間をゆっくりと右に左に歩き、思案する。

「……ただ、私も情け深い男でな。ここでお前の命を奪うというのも面白くない。お前は今、大王に仕える軍人の端くれなのだから、その命は戦場で散らすのがいいはずだ。生きては帰れぬ戦場でだ」

 王子はそう言って、ニヤリと笑った。

「北方の夷との戦いが長引いている。何としてでも北を制圧しなければならない。大王も早く決着をつけろと言われる。しかし、行くもの、行くもの、生きて帰っては来ない。ついには誰も我こそは北方を制定してみせると名乗りを上げる者がいなくなった。新しく軍隊を送るのに、人選に苦慮しておったところだから、ちょうど良いわ。大王に進言しておく。お前の家から抗議があるかもしれないが、お前は断ってはならない。ここで誓ったことを守るのだ」

 実言はほっとする顔を見せてはいけないと、わざと驚き、慄いた顔をして、俯いた。安心した顔みせたら、この嗜虐的嗜好を持った人物の気が変わって、すぐにでもその抜身を振り下ろしてくるかもしれない。それだけは避けたい。この場で殺されることだけは。戦に出すとは、なんという幸運だろう。

「去るがよい」

 王子はそう言い捨てて、抜き身を逆手に持って床に投げおろした。抜き身は床に突き立ち、その身を揺らした。王子はそのまま、開かれた扉から部屋を出て行った。実言も見張りの者に連れられて、その部屋を出ることができた。王子が去ったあと、少しも動こうとしない実言を、両脇から体を持ち上げられたが、実言は足の感覚なく立ち上がることができない。仕方なく、腕だけを抱えられたまま引きずられるようにして広間の建物から出されると、外に投げられた。約一日同じ姿勢でいたため、突き飛ばされたその力に耐えることができず、実言は転がった。土の上に腹ばいになったまま動けず、しばらくしてゆっくりと膝で立ち、腕を突き、四つん這いになって、身体中が痺れで震えるのに耐えて、やがて立ち上がった。王族から見たら岩城家といってもただの人である。それは、王族に仕えている者も同じ気位らしく、見張りの者たちは実言の無様な姿を笑っている。実言は腹に着いた土をはたいて、ゆっくりと馬を留めている場所まで歩いた。

 さすがに徹夜で同じ姿勢を続け、王子とやりとりをした後は、気力も体力も使い果たし、体に堪えた。誰か供のものを、耳丸でも連れて来ればよかったかもしれないが、誰にも知られず静かにことを運びたかったから仕方がない。

 実言はやっとのことで馬に乗り、駆け出した。

 あとはあの岩城の離れに帰るだけだ。

 生きて帰れる。それはこの対決に勝ったというものだ。北方の制圧には、莫大な犠牲を払っている。行けば死ぬと言われていることも知っている。しかし、死んだわけではない。まだ生きる望みがある。

 実言は自然と笑みがこぼれ、声を出して笑いそうになった。

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