第14話 

 月の宴が終わって、しばらくは礼にとっては穏やかな日々が続いた。

 九月に入ると台風が来て、都も風や雨によって建物の被害が出た。宮廷は至急の対応を迫られて、岩城家も宮廷へ出て忙しい日々を送った。

 十一月になると、新嘗祭の準備で忙しくなる。今年は、外国からの使節団が来て、大路を行列して王宮に入り大王に謁見することが予定されている。それで、余計に宮廷は様々な準備に忙しい。

 しかし、礼は使節団の行列のことを聞くと、顔色を青くして、実言は行列見物など絶対に行かないでくれと懇願した。

 実言は礼を腕の中に入れて「行かないよ」と言ってやった。礼は左目を失った時のことを思い出している。また、同じように岩城家の誰かを暗殺しようと暗躍する者がいないとは言えない。実言が標的になり、今度こそ命を落としてしまうのではないかと恐れた。

「お兄様やお姉様たちにも行って欲しくないわ」

 礼は心底心配している。

「お前が考えているようなことは起こらないよ」

 礼が左目を失った時、父の園栄が政敵を追い落とすのに躍起になっていた。いわゆる政争を繰り広げていたから、敵も岩城家に向かってきたのである。今は権力の均衡は何とか保たれているから、あのような凶行が起こるはずはないのだが。

 思えば、激しい争いをしていたのだから、何かしらの襲撃にもっと備えておくべきだったのだ。それを怠ったために、礼の左目を失わせ、顔に傷を作ってしまった。実言は、礼長い髪を撫でながら、かわいそうなことをしたと思うのだった。

 礼の日常はいつもの通り、邸の者が風邪を引いただの、腹が痛いだのと訴えてくるのを快く面倒見ていた。それが祟ったのか、礼は疲れを感じて肘掛にもたれて休むことが増えた。あまり臥せっていると、実言が見咎めて声をかけてくるので、礼は心配をかけたくなくて、足音が聞こえると体を起こした。

 新嘗祭の前に、後宮の碧から密かに会いに来てくれと手紙が来た。月の宴から三月ほどが経っている。久しぶりに礼と会って話がしたいと言ってきた。祭の準備に忙しいので、密かに会いたいということらしい。礼は実言に手紙を見せた。

「そうか…月の宴の後に、大王がよく碧の館に通ってくださっていたのだ。宴での姿を気に入ってくださってね」

 礼は宴での碧の髪、衣装、化粧、装身具など頭の先から足の先までの装いを思い出していた。それは、大輪の花のように華やかで美しかった。大王が碧の美貌に他の妃よりも気持ちが寄ったのはわかるというものだ。

「だから、あの子も大王に尽くしていたのだけども…あの子ばかりに執心されると他から恨み言のような声が入るものだから、また碧のところに通われるのは間遠になってしまって、少し元気がないのだ。行って、話でも聞いてやっておくれ」

 礼はもちろん、碧のところに行くつもりだった。後宮の行き来にもだいぶ慣れてきて、後宮の中の見えない力が見えてきて、碧の孤独についてもわかるようになった。

 翌日、後宮へ入るいつもの手続きを経て、礼は碧の館へと行く。

 礼が部屋に入ると、碧は礼の訪れを聞いているだろうに、体を庭の方に向けてその先をじっと見ていた。

 侍女たちが礼に訪れを囁きも聞こえない様子で、礼がその背中に「碧様」と呼びかけると、振り向いた。

 礼より一つ年下の碧が振り向いた姿は、月の宴の時と同じように今が盛りとばかりに咲いた花のような美しさである。後宮に入っていなければ、身分の高い貴族の妻になり、その夫に碧以外に他に女はいらぬと言わせて、大切にされていただろう。後宮に入ったばかり、その他のそれぞれに違う美しさを持った妃たちと競い、見えない争いに心をすり減らさなくてはならないのだ。

「急に呼び出してごめんなさい。後宮も慌ただしくて、少し疲れてしまったわ。なので、礼と話しがしたくなったのです」

 ふっとこぼす笑みも、少し寂しげに見える。

「お疲れなのですね。温かい飲み物を用意してもらいましょう。あと、実言様から碧様に渡すように言われた鏡があるのですよ。一緒にお見せくださいまし」

 碧が自分の場所に座ると、その向かいに礼も導かれて座る。

「実言兄様が。まあ、嬉しいわ」

 礼は明るい笑顔になって、侍女が差し出す箱を開けた。

 碧と一緒に、実言が取り寄せた鏡の美しさを褒め、語り、それから心の赴くままに取り留めのない話をした。碧には姉妹がいないと言った。それは礼にとっても同じだったが、従姉妹の朔がいた。碧は礼を姉のように思いたいらしく、礼も朔がしてくれたように一つ上の年長者として碧を支えたいと思った。

 碧は礼と話をすることで、明るさを取り戻したようだった。礼が用意した薬草で作った温かな薬湯を飲み終わるとホッとしたようで、碧は笑った。

 礼は安心して、その場を辞しようとすると。

「礼も疲れているようね。なんだかとても元気がないように見えたわ」

 碧に言われて、余計な気を使わせてしまったと、礼は恐縮してその場を辞した。

 新嘗祭がつつがなく終わった。

 急に気温が下がって寒くなる日があって、岩城の家では体の不調を訴えるものが出て、礼は忙しくかいがいしく世話をしていた。

 そんな中、朝も早い時間に後宮から遣いが来た。礼のいる離れの階の下へ来て、箱に入った手紙を渡す。遣いはその場に留まって、すぐに返事がほしいとのことだった。

 それは碧からの手紙で、その中には「今日来てほしい」と書いてある。実言は宮廷に出仕した。あいにく、付き添いをしてくれる耳丸も実言について行ってしまった。主人に断りもなく外出するのは心許ない気持ちになるが、碧の頼みでもあるし、礼は午後から伺うと返事を書いて、遣いに渡した。

 午後には実言が帰ってくればと思っていたが、結局、実言は宮廷から帰ってこないため、顔を合わせて事情を話すことはできないまま、澪に碧からの手紙と実言への伝言を託した。

 当日に来てほしいと言われたことは初めてで、礼は碧の体の具合がよくないのかと心配し、いろいろと薬草を用意して、縫と少ない供を連れて、急ぎ後宮に向かった。

 いつものようにいくつもの関所を抜けて、やっと碧の部屋に行くと、心配していたような様子はなく、いたって元気な様子で、碧から出迎えを受けた。

「急なお呼び出しで、何かお体に不調が現れたのかと心配致しました」

「驚かせたかしら?ごめんなさい。私は元気なのよ」

 礼は、碧に大事がないことがわかってほっとした。胸に手を置いて、呼吸を整える。

「今日はね、急に、詠様から礼を呼んで欲しいと言われて。悪いけど、この後詠様の所に行ってあげてください」

 礼は驚いた。なぜ、詠妃が自分を呼ぶのだろう?二度しか会ったことがなく、それも気に入るような会話もできなかったというのに。礼の心は再び不安が広がった。

 碧と少し話をしたら、すぐに詠妃の所へ伺うことになった。去り時に、碧は礼に言った。

「礼、前と同じように少し元気がない様子ね」

 礼は、前にも碧に心配されたことを思い出し、自分の顔色はそんなに悪いだろうかと思った。確かに、食は細いし、体がだるいと思うことがあるが、それはずっと忙しい日々が続いたから。

「もしかして、お腹にややが……」

 礼はその言葉を聞いて、立ち上がろうとした体をもう一度元に戻した。はっと顔を上げたら、碧と目が合った。

「そうなのですね。……先を越されてしまいましたわね」

 大王の子を産むという、岩城家の大望を背負っている碧は冗談めいた口調でそう言ったが、顔色を読まれまいとすぐに袖で口元を覆った。

 礼は全く予想していなかった自身の懐妊の可能性を言われて、動揺した。碧になんと返答していいのかわからなかったが、この場を辞するためにも何か返す言葉が必要だった。

「まだ、はっきりしないことゆえ、内密にお願いいたします。単なる疲れが出ているだけかもしれませんから」

「もちろんだわ。はっきりしたら教えてくださいね。私に気兼ねなどせずに……そうであるなら、当分礼にはここに来てもらえないわね」

 礼はゆっくりと立ち上がり、碧の前を辞した。

 詠妃の館に向かう途中、先導する侍女の後ろを歩きながら礼は唇をかみしめた。

 周りの者の体のことばかり気にして、自分のこの体のだるさや気分の悪さについて何も考えていなかった。考えれば先月は月の物も来ていない。人の体を見ている者が自分の体をおろそかにして、子を宿していることに気づかないとは、自分はなんとぼんやりしたばかものだろうか。

 月の宴の時に、偶然荒益と朔に会った時、朔から子供はまだかと聞かれて、実言は、次期に授かるはずだと言った。それは、近い将来への願望だ。しかし、隣で聞いていた礼はそれを叶える自信がなかった。それがこんなに早く実現できるのだ。それは、自分にとっても願ってもない喜びだ。

 実言の子を産み、母になることは。

 礼は、実言とともに住むあの離れに飛んで帰りたいとはやる気持ちを抑えて、大王の第三妃詠の館へと向かった。

 部屋に入ると、詠妃は座って待っていた。

「お待たせしてすみません」

 礼は定められた場所に座ると、そう言った。

「いいのよ。私が、碧様にお願いして、あなたを呼んでもらったのです」

「どうかされましたでしょうか」

「ええ。少し、疲れていて。どうしたものか。何かいい薬湯でもないかしら」

「後宮には、良い先生がいいらっしゃいます。その先生にお尋ねしてみてはいかかでしょう。私のような民間の治療に携わるものより、宮廷のお医者様ははるかに高い知識をお持ちですし」

「碧様にはできて、私にはできないというのか」

「いえ、そのようなことは」

「気休めでもいいのよ。もうこの後宮では私は用のない人間なのよ。そんな者が宮廷の先生をお呼びするのはおこがましいわ。それほどのひどい症状ではないのに。だからあなたにお願いしたいのよ」

 そう言われては、礼は断ることもできず、詠妃の不調の症状をお尋ねする。

 夜に何度も目が覚めて良く眠れないことや、食欲がないなどとおっしゃるのを、それを緩和させる薬草を紙に書き付けた。

「ところで、礼。あなたはまだ時間はあるかしら」

 その質問がどのような意味を持つのか、礼は測りかねた。しかし、その時は軽い気持ちで答えた。

「はい」

「そう。それは良かった。あなたも一度か二度はお見かけしたことがあるかしら、大王の弟君でいらっしゃる春日王子を。その王子があなたをお気に召してね。会いたいとおっしゃるの。これから、王子の部屋へ行っておくれ」

 礼は、返事ができずに押し黙った。

「……どうした?」

「いいえ。それは、どういうことでしょう。またの機会ではだめなのでしょうか」

「王子は今日と仰せだ」

「今日は、少し体調が悪く」

「時間があるかと尋ねたら、お前はあると返事した。体調が悪いなんてことは一言も言っていない。王子の話をしたら急に態度を変えるなんて。王子とお約束した私の立場も考えておくれ」

 急に口調の変わった詠妃に、礼は当惑した。

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