第3話

「いつどこで朝比奈先輩に話を聞くか決まったら、また晴彦に声を掛けるよ」


 京也は、昼食を済ませると、そう言った。

 目論見を実行するに際して、上手く事態ことを運ぶためのがあるらしい。


 やがて昼休みが終わり、他の級友も皆、二年一組に戻ってくる。

 そのなかには当然、華原真雪も含まれていた。尚、普段から昼休みには、中庭で手製の弁当を食べている姿が目撃されている。

 彼女が机の前に着席すると、幾人かの生徒が好奇の目を向けていた。


 そのあと午後の授業がはじまり、二時間程度やり過ごすと終業時刻になる。

 ただし、この日の晴彦は掃除そうじ当番で、いささか放課後も居残りせねばならなかった。

 教室の床をほうきき、机や椅子を上げ下ろしして、役目を果たしてから下校する。



 それから古木野駅前で、馴染みの書店に立ち寄った。

 晴彦が停留所でバスに乗る時刻までは、まだ余裕がある。


 店内へ入ると、書棚に左右をはさまれた通路をすり抜け、奥を目指す。

 文学に属す本が並ぶ場所に来たところで、見知った人物を見付けた。


 昨日、失恋したと噂の少女――

 級友の華原真雪だった。



 ――やっぱり、ここに来ていたか。


 晴彦は、予感が的中していたことを悟った。

 今日は真雪に会えるかもしれないと思って、試しに書店をのぞいてみたのだ。


 噂に従えば、真雪は昨日の放課後、町立図書館に出入りしていたという。

 それゆえ失恋した翌日、すぐに同じ場所を訪れる見込みは薄い気がしていた。

 とはいえ活字中毒だから、それでも書籍を手に取りたがるかもしれない……

 ならば図書館以外で下校途中に寄り道しそうなのは、この店だと考えていた。

 校内の図書室は、彼女を知る生徒の目も多いから避けるだろうとも。


 もっとも、ここで会えたからといって、まさか「朝比奈将市と破局したのか」などと、直接質問するほど無神経になれない。

 ただ何となく、学校の外で会って、様子をうかがっておきたかったのだ。


 ――他の級友が居なければ、少しぐらい素顔を垣間見かいまみせてくれるかもしれない。


 そうした期待が友人としての自惚うぬぼれであることを、晴彦も自覚はしていたのだが。



 真雪は、学校指定のセーラー服姿で、書棚の前にたたずんでいる。

 通学鞄を左の脇に抱え、空いた手で文庫本を持って読んでいた。


 晴彦は、そばまで歩み寄り、何も言わず横に並んで立った。

 そうして棚差しの本を選んでいると、思い掛けなく真雪から切り出してきた。


「今学校から帰るところなのかしら、藤川くん」


「さっきまで掃除当番だったんだよ、華原さん」


 晴彦は、本の背表紙から目を離し、少しだけとなりに立つ真雪を見た。

 本のページに視線を落としたままで、美しい横顔に変化は感じられない。


「えっと、華原さんは何の本を読んでいるの」


「……武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつ『お目出めでたき人』だけど」


 真雪は、あまり抑揚よくようのない声色で答える。

 本の作者と題名を聞いて、晴彦は反応に困ってしまった。

『お目出たき人』なら、読んだことがある。主人公の青年が、一方的に女性に懸想けそうして、最終的に失恋してしまう物語だった。


 それをどうして、真雪が読んでいるのか。

 失恋したはずの級友の心情を、晴彦は測りかねた。

 そのまま、微妙な空気と共に一〇秒余りが過ぎる。


 いったん途切れた会話を再開したのは、真雪の方だった。


「藤川くんは、どんな本を探しているの」


 真雪は、なぜ本を探しに書店へ来たの、とは訊かない。

 読書が特別な理由の必要な行為だと考えていないからだ。


「特に決めていないよ。漠然ばくぜんと面白そうな本がないかと思って、ここの棚をながめに来たんだ」


 晴彦は、あらかじめ用意しておいた言葉で返事した。

 それに対して、真雪は短く「そう」とつぶやく。



 晴彦は、改めて書棚に並ぶ本を吟味ぎんみしはじめた。

 だが手掛かりもなく背表紙を見ていても、これと一冊に決めるのは難しい。

 そこで、ここは涼しげな題名の本にしようかと考えた。店内は空調が効いているものの、屋外おくがいは夏場の熱気でし暑い。あべこべに冬や雪を連想させる作品が読みたくなった。


 ――華原さんの名前も、真雪だし。


 晴彦は一瞬、そうした発想に及んだが、すぐに恥ずかしくなって頭の中から追い出した。

 余談であるが怪談などは苦手なので、背筋が寒くなる種類の涼しさは求めていない。


 書棚に並ぶ背表紙を、作者名の五十音順に眺めていく。

 と、「い」の範囲へ来たところで、すぐ井上いのうえやすし『氷壁』が目に付いた。

 これは晴彦も未読だ。棚から本を抜き出し、手に取ってみる。

 隣で真雪が立ち読みを続けながら、ちらりとそれを見た。


「面白いわよね井上靖。私も嫌いじゃない」


「うん。でも僕は『闘牛』と『あおおおかみ』しか読んだことがないんだ」


「個人的には『あすなろ物語』や『敦煌とんこう』も素敵だったわ」


 真雪は、淡々と私見を話す。

 趣味を語る口調からは、相変わらず現在の心理状態が判然としない。

 あるいは失恋の悲嘆を看取されないため、偽装しているのだろうか。


 表紙カバーの裏側を見て、晴彦は『氷壁』の梗概こうがいに目を通した。

「雪山で氷壁登攀とうはんに挑戦した主人公が、同行した友人の事故死を巡り、思い掛けない運命にみ込まれていく……」といった内容らしい。濃厚なドラマの香気がにおう。


 晴彦は、その本を買うことに決めた。


「じゃあ僕はもう行くから」


 一言断わってから、逃げ出すように店のレジへ向かう。

 背後から、さようなら、と真雪に小声で別れの言葉を掛けられた。



 書店から出ると、夏の西日が肌を刺す。


 晴彦は、バス停に続く道を歩きながら、噂の真偽がこれまでより気になりはじめていた。

 真雪が心情を明かす素振りは一切なく、結局「友人としての自惚れ」では何もわからなかったからだ。身勝手と知りつつも、密かな失望を覚えていた。


 あるいは仮に本当の友人だったとしても、悟らせまいとする理由があるのだろうか? 

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