第54話 天使となった今ならば、いくらでも遊んであげられるね

 クローゼットの中が薄明かりで照らされていく気配を感じながらも、私は顔を上げられずにいた。


 セルジュお兄様の翳った瞳がそこにあるかと思うと怖い。今度はどれだけ酷く右の足の腱を切られるだろう。考えただけで震えが止まらなかった。膝に顔を埋めながら、嗚咽が漏れる。


 顔を上げなくても、そこに人がいると分かる。僅かな衣擦れの音、息遣い、その全てに私は怯えていた。


「……やっぱり、隠れるならここだと思ったんだ。ずっと昔も、君はクローゼットに隠れていたから」


 いつになく優し気な声に、私はびくりと肩を震わせた。小さく首を横に振りながら、必死に拒絶の姿勢を示す。


「遅くなって悪かった、コレット」


 その言葉とともに、ぎゅっと抱きしめられる感触がして、私は顔を上げないままに目を見開いた。この呼び方は、この香りは、この温もりは――。


「……エリ、アス」


 恐る恐る顔を上げると、そこにはひどく安心したような微笑を浮かべる、愛しい人の姿があった。なぜか真っ白な神官の服を着ているが、それでも、夜と同じ色の髪と深い紺碧の瞳は、紛れもなくエリアスのものだった。


「エリアス……」


 目の前に彼がいることが信じられなくて、確かめるように何度も名前を呼んでしまう。感動なのか、安堵なのか、私の声は酷く震えていた。


「エリアス……っ」


 思わずエリアスにしがみ付くように抱きつけば、彼もまた苦しいほどにきつく私を抱きしめた。


「コレット……っ、良かった、生きていてくれて」


 感極まったようなエリアスの声は泣いているようにも聞こえて、私がどれだけ彼に心配をかけていたのかを知る。どれだけ抱きしめ合っても、足りないような気がした。


 エリアスに、もう一度会えた。たったそれだけで、生きる気力がみなぎってくるような気がするのだから、恋の力は偉大だ。


「信じて……くれたのね、私のこと。身投げしたわけじゃないって」


「コレットが俺を裏切るはずがない。君が自死を試みたなんて、少しも思わなかった」


 エリアスの言葉からは揺らぎない信頼を感じられた。そうか、私がエリアスから逃げ出すはずがないと、そう確信してくれるほどに、私の愛は彼に伝わっていたのね。


 以前の時間軸では、私の言葉など僅かにも信じずに束縛していたことを考えると、言い知れぬ感動を覚えてしまう。想いがきちんと伝わるというのは、こんなにも喜ばしいことだったのか。


「……君の、天使なんだろう。君をこんな目に遭わせたのは」


 そこまで見抜いているとは思っていなかっただけに、驚いてエリアスを見上げてしまう。エリアスは小さく微笑んで、涙に濡れた私の頬にそっと触れた。


「どうして……分かったの?」


「バルコニーに白い羽根が残されていた。海の鳥のものにしては見慣れない形状だったから、サラに訊いたんだ。そうしたら、あのサラでも知らない羽根だと言った」

  

 今ではすっかりエリアスと打ち解けたメイドのサラの姿を思い浮かべる。確かに、鳥に関する知識となると彼女の右に出る者はいなかった。そのサラでも知らない鳥の羽根だと言われたら、私から「天使様」の話を聞いていたエリアスなら思うところがあったのかもしれない。


「……『天使様』のことも、信じてくれたのね」


 エリアスが、いかに私の言葉や話を尊重してくれていたのか実感する。普段のどこか素直ではない彼の言動からは想像もつかないが、心の内ではきっと私が思う以上に私のことを気にかけてくれているのだ。


 その想いの深さに、心を打たれる。エリアスを疑ったことは無いけれど、こんなにも深く私を想ってくれていたなんて。


「……信じてくれて……愛してくれて、ありがとう」


「そんな言い回しをされると何だか不穏だな。今更改まる必要なんてないじゃないか」


 エリアスは小さく笑って私の頬を撫でると、ふと、私の左足首に視線を落とした。薄暗がりの中だが、きっと傷が見えてしまっただろう。そもそも足を見られたことが恥ずかしくて慌ててワンピースの裾を広げようとするも、既に遅かったようだ。


「……コレット、その傷……!?」


「……大丈夫、少し遅いけど歩けるわ」


「そういう問題じゃない! まさか、天使とやらにやられたのか……?」


 そうだ、と即答できなかったのは、「天使様」の正体がセルジュお兄様であるという事実を、いずれエリアスに伝えることになるだろうと予想されるだけに、セルジュお兄様を慕っていた弟として、彼がどれだけの衝撃を受けるだろうか、と考えてしまったからだ。


 だが、エリアスはその沈黙を答えと受け取ったのだろう。紺碧の瞳に明らかな怒りを滲ませながら、私の肩に置いた手に力を込める。


「……よくも、コレットにこんなひどいことを」


 絶対に、許さない、と確かな憎しみを瞳に宿すその姿は、皮肉にも、エリアスを許さないと言い放ったセルジュお兄様の表情によく似ていた。仲の良かった兄弟がいがみ合う姿を見るのは、やはりどこか心苦しい。その原因が私にあるとなれば尚更だ。


「逃げよう。もう一秒たりとも、こんな場所の空気をコレットに吸わせたくない」


 そう言うなり、エリアスは自身が羽織っていた真っ白な神官の外套を私の肩にかけると、外套で包み込むようにして私を抱き上げた。私もおとなしく、エリアスの首に腕を回し、少しでも安定するよう調整する。


「エリアスは、どこからこの神殿に入ったの?」


「隠し通路からだ」


 エリアスは、私の背中と膝の裏に当てた手の力を強め、悪戯っぽく笑った。神官の服の姿のエリアスは、この国で一番清廉とされる服装なはずなのに、妙な色気があって大変よろしくない。こんな状況だというのに、不覚にも私は戸惑いから視線を逸らす羽目になった。


「この神殿、別の神殿と繋がっている通路がいくつかあるんだ。そのほとんどがこちら側から塞がれているようだったが……一つだけ、行き来できる通路があった。それで、知り合いの神官に頼み来んで、こうして服を借りて通路を通って来たというわけだ」


 隠し通路の存在なんて初めて知った。神殿の構造は奥が深い。


「……天使様が、塞ぎ忘れたのかしら」


 そう自分で言っておきながら、違和感があった。セルジュお兄様は、やるとなったら残酷なことでも必ずやり遂げる人だとこの数日間で痛感した。そんな人が、隠し通路を一つだけ塞ぎ忘れるなんていう過ちを犯すだろうか。


「……どうだろうな。あるいは――」


 そこまで言いかけて、エリアスは息を潜めた。この部屋ではないが、近くの部屋で物音がする。一気に緊迫した空気が流れる中、私たちは顔を見合わせ、頷き合った。


 逃げよう。セルジュお兄様のことを見捨てたわけではないが、この状況では私たちが下手に出るばかりで、解決策が思いつくとも思えない。まずは、体制を整えなければ。


 エリアスは私を抱きしめる力を強めると、息を殺して扉付近に歩み寄った。物音は近い。恐らく、セルジュお兄様が、隣かそれに近い部屋を探しているのだろう。ここに来るのも時間の問題だった。


「……行くぞ、コレット。舌を噛まないように気をつけろ」


「ええ、お願い、エリアス」


 エリアスは、僅かに扉を開けると、左右を確認した後、そのまま勢いよく廊下を駆けだした。私を抱えている以上、足音を完全に消すのは至難の業だ。それならば一刻も早くここから離れるべきだろう。賢明な判断だった。


 いつもより早いエリアスの息遣いを聞きながら、私は私でセルジュお兄様がいないか目を光らせていた。何分薄暗がりの中なので、遠くまでは見渡せないが、二人の目で見れば気づけることも多いはずだ。


 薄暗がりの回廊にエリアスの足音と二人分の呼吸の音が響いていく。美しくもどこか物寂しい神殿の中を、エリアスは走り続けた。私を抱きかかえたままなので、かなり体力の消耗が激しいだろう。


 本当は私も走れたらいいのだが、この足ではただ出鱈目にエリアスの足取りを遅らせるだけだ。このままセルジュお兄様を鉢合わせることなく脱出するのが最善である以上、時間に余裕が無いのは確かだった。


 直に、朝が訪れる。天井付近に備え付けられた窓から見える空の色が、そう教えてくれていた。一見するとまるで夕暮れのようにも見える空だ。


 隠し通路までの道のりはよくわからないのだが、エリアスは少しずつ広間の方へ近づいていた。苦しい思い出ばかりがある場所なだけに、本能的な恐怖を覚える。


 そのわずかな私の震えにさえも、エリアスは気が付いたようで、走る足を休めることも無いままに、わずかに微笑んで私を強く抱きしめた。エリアスの香りを一層身近に感じて、ほっと息をつく。


 大丈夫、きっと大丈夫だわ。エリアスは、絶対に私を見捨てたりしないもの。


 信頼の証を示すように、私もエリアスの肩に頭をすり寄せた。少し気恥ずかしいが、この方が揺れずに安定した姿勢を保てそうだ。


 その瞬間、付近でエリアス以外の足音が響く。水音に紛れていたが、たしかに聞こえた。


 突然の物音に、エリアスは足を止め、警戒するように辺りを見渡した。私たちがいる廊下の先には、左右に曲がり角があり、入り組んだこの神殿の構造は死角が多い。物音からして背後ではなく前方だったと思うのだが、やけに音が反響するせいで自信がなかった。


 まずい、ここで、セルジュお兄様に見つかったら――。


 私もエリアスも、どんな目に遭うか分からない。ただでさえ、エリアスを憎むセルジュお兄様が彼と対面したらどんな行動に出るか分からないというのに、二人で逃げ出そうとしているこの状況が見逃されるはずもない。

 

「……一旦、引こう。多少周り道になるが仕方ない――」


 エリアスが私の顔を近づけてそう囁いた瞬間、廊下の曲がり角の先から、ゆらりと白い翼が現れる。ゆったりとした足取りで、セルジュお兄様は私たちの目の前に姿を現した。


「っ……」


 薄暗がりの中、生成り色の外套のフードを深く被り素顔を隠したセルジュお兄様は、ゆったりと翼を揺らめかせながら、私たちと向き合っていた。フードから覗く口元は、優雅に歪められていて、雰囲気のある一枚の絵画を見ているような錯覚に陥る。


 セルジュお兄様も、先ほどまで私たちと同じような場所にいたはずなのだが、先回りしたのだろう。やはり、翼がある分、逃走劇においては私たちよりはるかにセルジュお兄様に分があった。


「……へえ……助けに来たんだ、病むしか能のない男だと思ってたんだけどな」


 嘲笑うような、セルジュお兄様の声。エリアスが、僅かに私を抱き締める力を強めるのが分かった。


「っ……あいつが、コレットの使とやらか? 思ったより陰鬱そうな奴だな」


 セルジュお兄様がフードで顔を隠しているせいで、エリアスは「天使様」の正体に気づいていないようだった。


 そうだ、エリアスには、まだ「天使様」の正体を告げていないのだ。詳しく説明する暇もなかったから仕方がないかもしれないが、これはまずい、と思わずエリアスの纏う神官の服を掴み、口を開く。


「エリアス、聞いて、天使様は――」


「――ココ、また痛いことされたいの? 余計な口を利くことを『許した』覚えはないんだけどな」


 優し気に緩められる口元とは裏腹の、あまりに冷酷なその言葉に、思わずびくりと肩が震えてしまった。エリアスと再会して、ぼんやりとした意識からは脱出できたというのに、この数日間でセルジュお兄様に植え付けられた恐怖心は消えていないらしい。


「……大丈夫、大丈夫だ、コレット」


 エリアスは、囁くような声で私を慰めた。セルジュお兄様への根本的な恐怖心は変わらなくても、少しだけ心が落ち着いていくのが分かる。


「星鏡の天使、とでも呼べばいいのか? ……よくも、コレットをこんな目に遭わせてくれたな。お前の命で償っても足りない罪を犯した自覚はあるか?」


「嫌だなあ、それを君に言われるのか、エリアス。可愛い可愛いココの心臓を抉ったのは、どこのどいつだったかな?」


 笑うような調子で紡がれたものの、ひしひしと怒りが伝わるようなセルジュお兄様の声に、一気に場の空気が緊迫する。当然ながら、今の時間軸のエリアスにそんなことを言ったって彼に自覚があるはずもない。現に、エリアスは多少眉を顰めるようにして、セルジュお兄様を見つめていた。


「僕は絶対に君を許さないよ、エリアス。この時間軸で君を殺さなかったのは、可愛いココが君を愛していたからだ。でも……それももうやめるよ」


 穏やかだった声に明らかな怒気を滲ませたセルジュお兄様が取り出したのは、いつかの血まみれのナイフだった。ちょうど、以前の時間軸でエリアスが私を殺したときに使っていたものと同じくらいの刃渡りだ。


 セルジュお兄様に見つかれば、ただで済まないことは分かっていた。それでも、自らの弟に刃を向けるセルジュお兄様の姿に、事の深刻さを実感してますます脈が早まっていく。


「……ココを、返して貰おうか」


 セルジュお兄様は、ごく静かな声で告げた。対してエリアスは、ふっと笑いながらも、実の兄であるセルジュお兄様を射殺さんばかりに睨みつける。


「物騒な天使様もあったものだな。それに……それはこちらの台詞だ。コレットの帰る場所はお前のもとじゃない」


 はっきりと言い放ったエリアスの言葉が気に食わなかったのか、充分な距離が開いたままでも、セルジュお兄様が苛立ちを覚えたのが分かった。緊迫した空気の中、体感温度が下がったような気までしてしまうのだから、私はすっかり彼に怯えてしまっているらしい。


「ココは……僕が幸せにするはずだった人だ」


「何を訳の分からないことを……」


 エリアスは、小さく嘲笑を浮かべると皮肉気に表情を歪める。


「お前は、コレットをどうしたいんだ? 花嫁にでも望んでいるのか?」


 セルジュお兄様は、何も言わなかった。その沈黙の中で、一瞬だけ、フードから覗いたセルジュお兄様の紺碧の瞳と目が合った気がする。


 それは、憎しみでも怒りでもなく、まるで泣いているような、静かでとても優しい眼差しだった。私を苛んだ「天使様」の姿よりは、記憶の中の大好きなセルジュお兄様を思い起こさせるその瞳に、どくん、と心臓が跳ねる。


「……僕は、君とココの結婚を祝福していた、二人で幸せになってほしいと、心から祈っていた。でも、その想いを、死者のささやかな願いを……君が踏みにじったんだ、エリアス」


 エリアスの名を呼ぶセルジュお兄様の声は、怒りを越えて悲愴なものだった。思わず息がつまるほどの壮絶な告白だったが、「天使様」の正体も事情も知らないエリアスは、訝し気に眉を顰めるだけだ。


「僕はココに何も求めない。ただ、傍にいてくれればそれでいい」


 セルジュお兄様が、ナイフをエリアスに向けたまま、一歩踏み出す。エリアスが改めて私の体をぎゅっと抱きしめるのが分かった。


 やがて、セルジュお兄様はゆったりとした調子で顔を上げると、ひどく寂し気な瞳で私を射抜き、甘い笑みと共に、幾度となく耳にした歪んだ熱を帯びた囁きを繰り返した。


「……一緒に不幸になろう、ココ?」


 その瞬間、エリアス目掛けてセルジュお兄様は走り出す。時を同じくして、エリアスもまた、広間の階上へ繋がる階段へと駆けだしていた。

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