第53話 息を殺して、痛みに耐えて、行けるところまで逃げてごらんよ

 ずきずきと痛む足を庇いながら、私は必死に神殿の中央の広間とは反対の方向へ歩き続けていた。幸いにも、今のところセルジュお兄様には巡り会っていない。


 セルジュお兄様が真夜中に留守にすることが多いのは知っていたが、ぼんやりとした意識の中では逃げ出そうと考えたことも無かった。ただひたすらに、セルジュお兄様に叱られるのが怖くて、私は反抗することを諦めていたのだ。


 それ以前は、セルジュお兄様が私の傍を離れるときには、ベッドに鎖をかけられていたことを考えると、このところの私の様子を見て、セルジュお兄様も油断していたのだろう。まず、私が自分の意思を取り戻して、逃げ出すような事態になることは無い、と。


 多分、私は本当の私に戻れる瀬戸際にいた気がする。あと数日、エリアスを思い出せなければ、きっと私は完全にセルジュお兄様の言いなりの人形になり果てていたと思う。


 それくらいに、ここでの生活は息苦しかった。鬱々としていて、救いのない場所だった。


 私にとっても、そして恐らくは、セルジュお兄様にとっても。


「っ……」


 足の運び方を失敗して、左足首に激痛が走る。思わず声が漏れ出るような痛みだったが、唇を噛みしめて何とか耐えた。この機会を無駄には出来ない。これを逃せばエリアスにはきっと二度と会えない。そう自分に言い聞かせて、必死に我慢する。


 痛みが引いたのを見計らって、私は小さく息をつき、再び歩き始めた。回廊のような構造の神殿の壁を伝って歩いているが、手と壁が擦れる音が響かないよう気を遣って歩くのはなかなかの重労働だった。


 ぺたぺたと、素足で一歩ずつ一歩ずつ進んでいく。星の灯りが差す方へと、少しずつ。


 エリアスは、どのような経路で神殿に侵入するつもりなんだろう。セルジュお兄様が神殿に出入りしている以上、入り口はどこかにあるのだろうが、まさか正面から突破するわけにもいかないだろう。


 だとすると、窓を割る、というような強硬手段に出るのだろうか。それでもしもセルジュお兄様に見つかってしまったら、と思うと、ぞわり、と背筋を寒気が抜けていった。


 余計なことを考えるのはよそう。今は、ただ出来るだけ神殿の外側に、東側に向かうことだけを考えなければ。


 そう決意し、また一歩足を踏み出したそのときだった。


 水音に紛れて、背後で衣擦れのような、翼が壁に擦れるような音がする。まだ随分距離はあるが、大きな円を描くように走った一本の廊下にいるせいか、私がいた部屋のあたりよりも物音が響きやすくなっているようだ。


 どくん、と心臓が跳ねた。セルジュお兄様か、エリアスか。息を潜めて、僅かな間だけその正体を探る。


 だが、ご丁寧にもあちら側から答えが返ってきた。


「……ココ、どこにいるんだい?」


 セルジュお兄様もエリアスも、本当に良く声は似ているんだな、とどこか場違いな感想を抱く。そういえば、冬の東屋で「天使様」の声をエリアスのものと聞き間違えたことがあったっけ。


 でも、私の名前の呼び方と優し気な口調でわかる。今、背後に迫っているのは間違いなくセルジュお兄様だ。セルジュお兄様が、私を惑わせるためにエリアスを演じるならともかくとして、その逆は何の利点もないのだから。


「言ったよね……? もし逃げたら、次は右の足の腱も切るって」


 確かな怒りを携えたセルジュお兄様の声が、少しずつ少しずつ近付いている。これはきっと脅しではない。捕まれば間違いなく、右の足の腱も着られるのだろう。それも恐らく、左を切ったときよりも、残虐に。


 セルジュお兄様は、吹っ切れてしまうとどこまでも残酷になれる人だ。普段の優しさの反動なのか分からないが、それが余計に私の恐怖心を誘った。


 この期に及んで、右の足の腱までも傷つけられてしまったら、いよいよ私は移動できなくなる。そうなれば、エリアスと落ち合うことは絶望的だ。


 逃げなければ。


 私は歯を食いしばり、痛みなどお構いなしに足の動きを早めた。


 多分、セルジュお兄様はこちらの気配に気づいている。私がこの辺りにいることを分かった上で、ゆっくりと追い詰めるように追ってきているのだ。


 駆け足で追いかけて来られるよりもずっとずっと、怖かった。じわじわと真綿で首を絞められるような息苦しさを感じながら、私は円を描くように走っている大きな廊下を曲がって、小部屋が散在する入り組んだ廊下へと入った。


 痛みと焦りで、尋常じゃない汗をかいていた。息も挙がっている気がする。こんなに激しく呼吸をしたら、セルジュお兄様にすぐにバレてしまうのに。


 掌で必死に口を押さえながら、私はひたすらに前へ進んだ。走れないのがもどかしい。


 それでも、確実に背後に迫る気配は近づいていて、絶望が迫り来る気配に、いつしか私は涙目になっていた。苦しくて、痛くて、諦めてしまいそうになる。


「ココ? あんまり動くと足の傷に障るよ?」


 先ほどよりもずっと声が近い。この状況を楽しんでいるかのようなセルジュお兄様の残酷さに、余計に涙が溜まっていく。


 駄目だ、このまま逃げ続けていても必ず追い付かれてしまう。一か八か、どこかへ隠れるしかない。


 幸いにも、辺りには小部屋がたくさんあった。どれもが馴染みのない部屋ばかりだが、覚悟を決めるしかない。


 私は、小部屋の一つの白い扉に手をかけ、すぐさま部屋に飛び込んだ。残念ながら、内側から鍵をかけられるような仕組みはなく、部屋の中には簡易的なベッドと質素なクローゼットだけ。


 迷っている時間は無かった。私は咄嗟にクローゼットを開け、中に飛び込んだ。やさしい木の香りがするが、とてもじゃないが落ち着けるような状況ではない。


 長い髪を手早く片手で纏めながら、私はクローゼットの扉を閉めた。正直、体が収まりきるか不安だったが、ぎりぎり身を隠せたようだ。もう少し背が高かったら、入りきらなかっただろう。


 こうして蹲っているだけでも、左足首はずきずきと痛む。木の香りの中に、僅かに血なまぐさい臭いも混じっているから、傷口が開いたのかもしれない。


 傷口がどんな有様になっているのか、想像しただけで怖かった。涙が頬を伝っていく。クローゼットの暗闇の中では、自分の手足の形さえ分からなくて、余計に心細かった。


「っ……」


 それでも、抱えた膝の間に顔を埋めて、必死に息を押し殺す。少しでも物音を立てたら終わりだ。


 廊下を移動する物音が遠ざかるまでの辛抱だ。だが、勘のいいセルジュお兄様のことだから、このあたりの小部屋を捜索し始めることも考えられる。


 そうなったら、一巻の終わりだ。見つかったらどれだけ痛いことをされるだろう。


「っ……」


 想像しただけで、肩が震えた。涙がとめどなく溢れてくる。


 ……ああ、でも、どこか懐かしいわ、この感覚。


 現実逃避をするように私の脳内に蘇ったのは、以前の時間軸でのエリアスの執着だった。こんな風に逃げ惑い、隠れたことは無かったけれど、温室に監禁されていた頃は、似たような閉塞感と恐怖を味わったものだ。


 あれに耐えられたんだから、今回も耐えられないはずがない。そう自分に言い聞かせ、心を奮い立たせた。ここで弱気になったら、本当に心を壊してしまいそうだ。


 エリアス、エリアスエリアスエリアス。


 祈るように指を組んで、心の中でエリアスの名前を唱え続けた。ついさっき思い出したばかりの、誰より大切な人の名前。


 その名前の響きだけで、勇気づけられるような気がするのだから、私も大概愛が重い。盲目的なのはお互い様だ。


 手の甲に爪が食い込むほどに、指を組む。星鏡の天使様から逃げているというのに祈るというのも妙だが、そうせずにはいられなかった。


 どうか、お願い、星鏡の大樹様。私をエリアスと巡り会わせて。セルジュお兄様のことを考える時間をください。


 だが、敬虔な信者でもない私の祈りは届かなかったのか、無情にも部屋の扉が開かれる音が響く。


 がちゃり、と響いたその音に、脈がこれ以上なく早まった。息を殺していても、この心臓の音が聞こえてしまうのではないかというくらいの暴れようだった。


 間もなくして扉が閉まる音がしたかと思えば、足音が少しずつこちらに近付いてくる気配があった。最早涙は留まることを知らず、顔を埋めた白いワンピースの膝の部分を濡らしていく。


 こつり、と足音を立てて、また一歩近づいてくる。怖い、こわいこわいこわい、助けて、エリアス。


 ぎゅっと指を組む力を強める。手の甲に生温かい液体が伝っていく感覚があった。


 足音は、もうクローゼットの目前にまで迫っていた。恐怖で震える体を必死に縮こまらせながら、私はそれでも息を殺し続ける。きっと、もう、バレているから無駄な抵抗だと頭のどこかでは分かっているのに。


 やがて、クローゼットの扉と手が擦れる音が響き、木製の扉がゆっくりと開かれていく。


 ああ、駄目だ、もうここまでだ。


 短い夢だった、と突きつけられた絶望を受け入れる準備をする。


 僅かに差し込んだ薄明かりを前に、私は、覚悟を決めたのだった。

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