第32話 私の知らないあなたの世界を、愛しいと思いたいのに
それから数日が経った頃、私はフォートリエ邸で催されているお茶会に足を運んでいた。お茶会とは言っても、エリアスの親しい友人たちを中心としたごく小規模なもので、大きなガラス窓越しに庭を臨める広間で私たちはお茶をしていた。
よりにもよってエリアスと微妙な関係のこの時にお茶会か、と私は小さく溜息をつく。もう何週間も前から約束していたことだから、数日前に諍いがあったからと言って欠席するわけにもいかない。目の覚めるような鮮やかな青色のドレスも、今の気分には合わないけれど仕方がない。
エリアスはというと、今はルクレール侯爵令嬢たちと談笑しているようだった。遠目にもルクレール侯爵令嬢の淡い金色の髪は美しくて、思わず見惚れてしまうほどだ。時折聞こえてくる可憐な笑い声も、きっと彼女のものなのだろう。
ルクレール侯爵令嬢を前にしたエリアスもいつになく楽し気で、ここ数日間彼とまともに会話を交わしていない私からすれば、彼の笑顔がやけに遠く思えてしまった。
こんなことならば、何かと理由をつけて欠席すればよかったのだろうか。でも、それは私がこの時間軸を生き始めたときに決めた「エリアスから逃げない」という信条に反する。結局悩んだところで、私は今日の御茶会に参加せざるを得なかったのだろう。
私がこのお茶会に乗り気ではない理由は、実はもう一つある。それには以前の時間軸の記憶が関係していた。
手元の紅茶をそっと口に運びながら、私は遠く苦しい思い出をそっと思い返してみた。
***************
以前の時間軸で迎えた15歳の冬、社交界デビューして間もないころに今日と同じようにフォートリエ邸でお茶会が開かれたことがある。
社交界デビューして間もない子息や令嬢がお茶会や夜会を開くのは珍しいことではない。人脈づくりの第一歩として、むしろ余程の理由がない限り遅かれ早かれ誰もが開催するのが習わしだった。
社交に乗り気ではないエリアスもこの風習からは逃れられなかったようで、彼はフォートリエ侯爵家と関係の深いいくつかの家の子息や令嬢をお茶会に招いた。当然、婚約者の私もその場に呼ばれた。
当時の私はと言えば、エリアスの愛の異常性に少しずつ気づき始めていて、なるべく男性の参加者とは話さないようにしようと気を遣っていた。エリアスの基準で考えると、男性の使用人とすらも会話を交わしてはいけないようだから、穏やかな時間の中でも私だけは妙に気を張っていたものだ。正直、こんな思いをするくらいならばエリアスと二人で過ごした方がずっと楽だと思っていた。
ご令嬢たちと他愛もない話を続けながら、時折エリアスの鋭い視線を感じて嫌な汗をかく。その繰り返しで何とか時間を潰しているうちに、ふと、ある公爵家の子息が私に話しかけてきた。あまりに気が動転していたせいで、相手の顔もよく覚えていないが、親切な紳士だったことだけは記憶している。
「ミストラル公爵令嬢、この間の社交界デビューでは充分にお話が出来なくて残念に思っていたのですよ」
「そう、でしたの……。申し訳ありません、あの時は色々と立て込んでおりましたもので……」
エリアスの毒殺未遂が起こったのだから、私の社交界デビューはおよそまともなものではなかった。話さなければならない家柄の子息や令嬢にもほとんど挨拶が出来なかったのだ、公爵子息の言うことはもっともだった。
「ミストラル邸の庭は美しいと評判ですから、もしもミストラル公爵令嬢がお茶会を開かれるようなことがあれば是非お伺いしたいものです」
他愛もない、世間話だ。公爵家同士それなりに仲良くしておこうというありきたりな思惑のもと話しているのだろう。それは分かっていたけれど、私はエリアスの視線が怖くて仕方がなかった。
「え、ええ……きっと、春の暖かいときにでも」
「本当ですか? 嬉しいなあ。ミストラル公爵邸にお邪魔したなんて、自慢の種になりますよ」
張り付いたような笑みを浮かべる私は、彼の目にさぞ愛想の悪い令嬢として映っただろう。だが、それでもいいから私は一刻も早く彼との会話を終わらせたかった。いつエリアスが見ているか知れないのだ。時間が経つにつれ脈が早まっていくような気がする。
「あの、きっと招待状をお送りいたしますから、このお話はこの辺りで――」
「――ココ」
甘くとろけるような優しい声に呼び止められ、私はびくりと肩を震わせた。声のする方を振り向けば、品の良い黒の礼服を纏ったエリアスがにこりと微笑んで私を見ていた。だが、その紺碧の瞳はぞっとするほどに冷たくて、それだけで私は彼の機嫌を損ねてしまったことを知った。
「これはフォートリエ殿、婚約者のミストラル嬢をお借りして済まないね。大した話はしていないんだよ」
公爵子息は穏やかに笑いながらエリアスの登場を歓迎していた。エリアスの手がそっと私の肩に置かれる。
「そうでしょうとも。ただ、ココはどうやら気分が優れないようです。御歓談中申し訳ありませんが、今日はもう彼女を休ませてあげてもよろしいでしょうか?」
「それは気が付かなかった、申し訳ない、ミストラル嬢」
公爵子息はその言葉通り、心底申し訳なさそうに眉を下げながら謝ってきた。私の気分がすぐれないとすれば、それはエリアスの行き過ぎた監視によるものだと思うのだが、この状況でエリアスの言葉に逆らえるはずもない。私はただ曖昧な微笑みを浮かべることしか出来なかった。
「……どうぞ、お気になさらず」
「さあ、ココ、行こうか。温かい部屋で休もう」
そう言って差し出されたエリアスの手に自分の手を重ねれば、手の甲に彼の指が食い込むほどに強く握られた。ああ、エリアスはとても怒っている。その事実をひしひしと感じて、ますます脈が速くなっていくのを感じた。
そのまま広間を抜けてエリアスに案内された先は、フォートリエ侯爵夫人がよく使っていたという温室だった。室内に設置されたその温室の中には、ベッドやソファーなんかもあって花を眺めながらくつろげるようになっている。
話には聞いたことはあったが、実際に温室を目にしたのはこのときが初めてだった。冬だというのに色とりどりの花が咲き乱れるその鮮やかさに一瞬目を奪われたが、隣でエリアスが困ったように溜息をつくのを聞いてすぐに我に返った。
「ああ、ココ……君は何度言ったら分かってくれるのかな。本当ならば僕以外の人間とは話してほしくないと思っているところを、令嬢たちと話すことには目を瞑っているだけ、僕は充分譲歩したと思っているよ。それなのに……よりにもよってあんな薄汚い公爵子息と話すなんて……」
底冷えするような紺碧の瞳で睨まれ、私はすっかり委縮してしまった。思わず彼から視線を逸らしながら、ただ謝罪の言葉を口にすることしか出来ない。
「っ……ごめんなさい、エリアス。気を付けていたのだけれど……あちらから話しかけられてしまったら、何も言わないわけにはいかないわ……」
「なぜ? 無視すればいいじゃないか。あるいは適当な言い訳をして席を立てばいい」
エリアスは心の底から不思議そうな表情で軽く首を傾げた。一回や二回ならそれでいいかも知れないが、それを繰り返すのがどれだけ失礼に当たるかエリアスだって分かっているはずなのに。
「……ミストラル公爵家の令嬢として、そんなことは出来ないわ。社交は個人と個人の問題じゃない、家同士の問題でもあるのよ」
「君はミストラル公爵家の令嬢である前に、僕の婚約者だよ。そうだろう?」
エリアスは恐ろしいほどに端整な笑みを浮かべながら、私の頬に手を当てた。そのまま顔を上向かされるようにして力を入れられ、私は怯えるような眼差しでエリアスを見上げることになる。
「君は僕とだけ話していればいい。分かるよね、ココ?」
「っ……それでは私はまともに生きられないわ。この先だって、社交の場に顔を出すことはあるでしょうし……」
「そういう面倒なことは全部僕がやるよ。君はただ、僕のことだけ考えてくれればいい」
「……それでは、私はまるであなたの所有物みたいだわ」
思わず、このところ静かに溜まっていた思いを口にしてしまった。平気だと言い聞かせていても、心のどこかでうんざりしていたのかもしれない。
エリアスは数秒間まじまじと私を見つめると、やがて声を上げて笑い出した。紺碧の瞳はどこか翳っていて、彼は狂気を滲ませた笑みで私の腕を掴む。
「そうだよ? 君は僕のものだ。そんな当たり前のことを今更確認することになるなんて思わなかったなあ……」
エリアスはぐっと私を引き寄せると、冬の冷気で冷えた私の耳の端に口付けながら笑った。
「もう逃げられないよ、可愛いココ。君は僕のものなんだから。それがちゃんとわかるまで、この部屋で反省していようね?」
そう言ってエリアスは温室の扉を開けると、半ば強引に私を温室の中へと押し込んだ。逃げ出す間もなく、あっという間に再び温室の扉が閉められ、鍵の閉まる乾いた音が響く。
「……エリアス?」
ガラスにそっと手を当て、不安げにエリアスを見上げれば、彼はどこか満足そうに微笑むばかりだった。
「いい眺めだね、ココ。僕が迎えに来るまで、ちゃんとそこで反省していてね」
エリアスは穏やかな笑みを浮かべたまま、私に小さく手を振った。当然ながら、鍵を閉められた扉は僅かに音を立てるばかりでびくともしない。
「っ……エリアス、待って! エリアス……っ!」
ガラス越しの私の声は通りが悪いのか、あるいは彼が聞こえないふりをしているだけなのか定かではないが、エリアスは一度もこちらを振り返ることなく出て行ってしまった。残るのは、むせ返るように甘い花の香りと、薄く汗ばむような温室の暖かさだけだ。
閉じ込められた私は、脱力するようにその場に崩れ落ちた。ぽたぽたと、透明な涙が落ちて行く。
私はこの先一生、彼のこの歪みに耐えなければならないのか。
そう、一瞬思ったことは嘘ではない。だが、エリアスのこの対応を理不尽と思う気持ちすら、あっという間に彼の言葉に掻き消されていく。
ああ、私が、私が悪かったのだ。エリアス以外の人と会話なんてするから、彼が怒ってしまった。この息苦しさも、自由を奪われたことも全部、当然の罰なのだろう。
結局この日、陽が沈むころに彼が迎えに来るその時まで、私は静かに涙を流しながら自分の行いを悔いた。温室の高い温度のせいで軽い脱水症状を呈していた私は、迎えに来たエリアスに縋りつくようにして泣きながら、ただひたすらに謝罪の言葉を述べたものだ。
「ごめんなさい、エリアス……私が、私が悪かったの」
「うん、分かってくれればそれでいいんだよ、ココ」
エリアスは私の頭を撫でながら慈しむように言った。このときのエリアスはいつになく上機嫌で、簡単に私を許してくれた。
「こんな硬い床の上でずっと僕を待っていたの?」
「……ええ」
泣きじゃくりながら何とか返事を返せば、エリアスは小さく笑うように言った。
「そっか、でも次からは奥にあるソファーやベッドで待っていてね。ココの体に障ったら大変だから」
何気なく放たれたエリアスの「次」という言葉に、私がどれだけ絶望したかなんて彼は知らないのだろう。収まりかけていた涙が再び勢いを増して流れ出すのを感じながら、私は必死に首を横に振った。
「っ……もう、しない、もうしないから閉じ込めないで……っ」
「うん、信じてるよ? ココ」
エリアスは紺碧の瞳を翳らせたまま、甘い笑みで私を見ていた。
***************
息苦しい記憶を思い出したせいか、妙に脈が速い。落ち着かない心を静めるように紅茶を一口口に運び、ふう、と小さく息をついた。
結局のところ、このお茶会以降も私は何度か温室に閉じ込められることになる。そのどれもが、些細なことでエリアスの怒りを買ってしまった結果だった。
温室は美しかったけれど、高い温度が肌に纏わりつくようで、息苦しくて不快だった。とてもじゃないが、丸一日を過ごすような場所ではないのだ。そんなことを気にも留めないエリアスは、私を温室の中に閉じ込めておくのが気に入っていたようで、私を開放するときはいつだって上機嫌だった。
最終的には、彼の機嫌が良くなるなら一日くらい閉じ込められていてもいい、と思っていたのだから、私もかなり感覚が麻痺していたと思う。今の私からは考えられない精神状態だった。
そんな辛い記憶があるせいで、フォートリエ邸で行われるお茶会は、どうやったってあの温室のことを思い出させるから気が乗らないのだ。
ティーテーブルの上に用意された甘いケーキを一口口に運びながら、再び零れそうになる溜息を何とか押し込んだ。みんなが楽しそうに談笑している御茶会で、私だけ不機嫌な素振りをするわけにはいかない。
帰ったら、神殿に送る意見書の続きを書こう、などと半ば現実逃避をしながらぼんやりと時間を過ごしていると、不意に可憐な声が頭上から降ってくる。
「ミストラル公爵令嬢」
驚いて顔を上げた先にいたのは、他でもないルクレール侯爵令嬢だった。淡い金の髪が陽光にきらきらと煌めいている。彼女の傍にはエリアスやバルテ伯爵子息もいて、彼らが鳥の話で盛り上がっていただろうことは簡単に予想がついた。
私の知らない、エリアスの世界だ。以前の時間軸にはそんなものなかった。そのせいか妙な寂しさを感じてしまう私は、きっと心が狭いのだろう。
「これはルクレール侯爵令嬢、バルテ伯爵子息……それにエリアスも、ごきげんよう」
席を立って深い青色のドレスを摘まめば、ルクレール侯爵令嬢とバルテ伯爵子息も慎ましく礼をした。人当たりの良さそうな人たちだ。
「ごきげんよう、ミストラル公爵令嬢。実はとても天気が良いから、庭の奥の方まで散策してみようという話になっていますの。エリアスの話だと、たまに鳥を見かけることもあるようですから」
ルクレール侯爵令嬢は琥珀色の瞳を細めて楽しそうに話していた。本当に鳥が好きなのだろう。バルテ伯爵子息も似たような反応だ。
「それで……もしよろしければ、ミストラル公爵令嬢もご一緒にいかがかと思いまして……」
ルクレール侯爵令嬢はどこか恥ずかしそうに頬を赤らめながら、親切にもそんな誘い文句を口にした。天使様の計らいで、一部の方々からは「聖女」と呼ばれるようになった今でも、こんな風に私に近寄ってきてくれる人はいない。それだけに、とても嬉しく思った。
ちらりとエリアスを見やれば、彼はどことなく翳った瞳で私を見ていた。先ほどルクレール侯爵令嬢たちと話をしていた時は、あんなにも楽しそうだったのに、私が視界に映るだけでこれか。途端に言いようのない息苦しさを感じて、折角だがこの誘いを断ろうかと思ったその時、ルクレール侯爵令嬢が畳みかけるように告げた。
「実は……エリアスからミストラル公爵令嬢のお話はよく伺っておりますの。あのお転婆のルネちゃんを手懐けているなんて、素晴らしいですわ。是非ともそのお話も出来たら、と思っておりまして……」
ルクレール侯爵令嬢は、顔を真っ赤に染めて視線を彷徨わせる。彼女からは貴族特有の下心のようなものが一切感じられない。
ここまで真剣に誘われてしまっては断るのも何だか忍びない。私は苦笑を交えながら、広間の隅に控えるリズに視線で合図を送った。すぐに彼女がドレスに合わせた深い青色のケープを持ってこちらに歩み寄ってくる。
「承知いたしましたわ。私も、是非ルクレール侯爵令嬢とお話をしてみたいと思っておりましたのよ」
「本当ですか!? わあ、嬉しい……!」
ルクレール侯爵令嬢は琥珀色の瞳を輝かせて両手を握った。その愛らしい反応に、思わず笑みが零れてしまう。
「晴れているとはいえ、外は寒いですから温かくしてくださいね」
ルクレール侯爵令嬢自身もメイドから手渡されたケープを纏いながら、親切にも注意してくれる。私はにこりと笑って頷きながら、リズの手から深い青色のケープを受け取った。
そのまま何気なく肩にかけ、首元でベルベットのリボンを結ぼうとしていると、不意にエリアスが私の前に歩み寄ってきた。先ほど遠い記憶を思い出したことも相まって、思わずびくりと震えてしまう。
その私の反応にエリアスは一瞬躊躇ったようだったが、やがて彼は無言で私の髪をケープの外に出してくれた。どうやら巻き込んでいたらしい。
「あ……ありがとう」
同じエリアスでも、彼は以前のエリアスとは違うのに。申し訳ないことをしたと思いながら彼を見上げれば、エリアスは暗い目で私を見下ろして小さく微笑んだだけだった。これだけ何気なく振舞っているが、彼の心は今も不安定なのだろう。それを察するには充分な笑みだった。
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