第31話 どうか、手遅れになってしまう前にこの歪みから逃げ出してくれないか

 翌朝は、辺り一面銀世界の美しい朝だった。昨夜、眠るまでずっと私の手を握っていてくれた天使様のお陰か、あのような尋問会の後だというのにとてもよく眠れた気がする。


 ネグリジェのまま、軽く窓を開け放して寄りかかるようにして外を眺めていると、ドアをノックする音が響き渡った。聞き慣れたこの音は、リズがやってきた証だ。


「起きているわ」


 ドアの方へ半身振り返って、入室してくるリズを眺める。今日も慎ましく礼をしたリズは、私が気丈に起き上がっていることが予想外だったのか軽く視線を彷徨わせた。


「おはようございます、お嬢様。……もう起き上がっても大丈夫なのですか?」


「ええ、平気よ。よく眠れたわ」


 窓から離れ、リズの方へ歩み寄ながら小さく微笑みを送る。


「昨日はごめんなさい。取り乱してしまったわ。リズにも迷惑をかけたわね」


「いえ……迷惑だなんて……。あのような尋問会をご覧になったのですから、ご気分が悪くなって当然です。どうか、ご無理はなさらないでくださいませ」


 心底心配そうな表情を浮かべるリズの言葉に嘘はないのだろう。私の周りには、私を思いやってくれる人がたくさんいる。その幸せを噛みしめると、自然と頬が緩んだ。


「ふふ、本当にもう平気なのよ、リズ。心配してくれてありがとう」


 リズは私の表情を見ていくらか安心したようで、表情を和らげると気分を切り替えるように明るい声を出した。


「直にエリアス様がいらっしゃるでしょうから、エリアス様にもお元気な姿を見せて差し上げてください。早速、お着替えを手伝わせていただきますね」


「エリアスが来ることになっているの?」


「ええ、昨日のお嬢様の憔悴振りが気にかかっていらっしゃるようで、朝食が終わるころにミストラル邸を訪ねて来られると仰っておりました」


「そうだったの……」


 私としたことが、エリアスの言葉すら耳に届いていなかったようだ。それくらい、昨日の私はぼんやりとしていたのだろう。この様子ではエリアスにも多大な心配をかけてしまったに違いない。彼にもきちんと謝らなければ。






 リズの手によって、深い青色のドレスに着替えさせられた私は、いつものように家族と共に朝食を摂った。両親にも弟妹達にも酷く心配されたけれど、気丈に振舞う私を見て彼らもいくらか安心したようだった。それでも、今日は外に出るのを控えるように、とお父様とお母様に言われてしまったので、両親の過保護さは相変わらずだ。


 朝食を終えた私は、応接間の暖炉の傍で暖まりながら、神殿に関する書物に視線を落としていた。天使様に昨夜誓った通り、早速、神殿に生贄の制度を廃するよう意見書を出してみるつもりだった。


 意見書の書き方に関する記載をよくよく頭に叩き込んでいるうちに、規則正しいノック音が響き渡る。このノック音もリズのものだ。


「お嬢様、エリアス・フォートリエ様がご到着なされました」


 その言葉に、私は読みかけていた本を閉じ、すぐさま椅子から立ち上がった。リズの背後から姿を現したエリアスを見て、無条件に笑みが零れてしまう。


「エリアス! 来てくれたのね」


 ドレスを摘まんで早速エリアスの傍に駆け寄れば、彼はどこか戸惑ったような表情を見せた。昨日の私との変わりように驚いているのかも知れない。


「コレット……もう気分はいいのか」


 どちらかと言えば、エリアスの方が元気がなさそうな表情をしている。あまり眠れていないのか、紺碧の瞳の下には薄く隈が張っていた。


「ええ、心配かけてごめんなさい」


 エリアスを案内したリズが続き部屋へと移動していくのが分かった。お茶は他のメイドに頼んでいるのだろう。私はエリアスの手を取って、彼を革張りのソファーへと導いた。


「昨日の今日で来てくれてありがとう。疲れているでしょう? 私が取り乱したばっかりに、ごめんなさい」


「いや、いいんだ……。よく眠れたか?」


「ええ、何とかね」


 間もなくして運び込まれてきた紅茶は、気分を落ち着けるのにはもってこいのハーブティーで、たちまち部屋の中は爽やかな香りで一杯になった。お茶菓子は、甘さを控えたエリアス用のクッキーのようだ。今日も料理人たちが私とエリアスのために用意をしてくれていたのだろう。


「……あんな形であったけれど、あなたの命を狙う脅威が排除されて、私、少し安心しているの。オードラン伯爵の企みを許すことは、一生出来そうにも無いけれどね」


「俺と関わったばかりに、コレットには辛い思いばかりさせているな……」


 どこか思いつめたようなエリアスの声音に、思わず私は彼の顔をまじまじと見つめてしまった。彼の紺碧の瞳はどこか揺らいでいて、いつになく不安定な印象を受ける。


 無理もない。ただでさえ、エリアスは自分の命が長いこと狙われ続けていたという衝撃の事実を知ったばかりなのだ。昨日の今日で落ち着いているほうがどうかしているだろう。


「そんなことないわよ。あなたと過ごす一分一秒が私の宝物だもの」


 まるでどこかの天使様のようなことを言ってしまったな、と発言の後に僅かな羞恥を覚えた。こんなことばかり言っていては、エリアスに「言葉が直球過ぎる」とまたしても叱られてしまう。


 だが、彼はどこか物悲し気な瞳で私を見つめただけで、いつものように照れるような反応は見せなかった。僅かな違和感を誤魔化すようにハーブティーに口をつければ、エリアスも私に倣ってティーカップを手に取った。


 優雅な所作で紅茶を口に運ぶエリアスの横顔は、やはりどこか疲れているような気がしてならない。自惚れるつもりはないが、二人きりの時はどちらかと言えば緩んだ表情を見せることの多い彼が、今は気を張りつめているような気がする。


「……ねえ、エリアスこそ昨夜はあまり眠れていないんじゃないかしら? あなただって、戸惑ったわよね……。それなのに、私のことばかりに気にかけてくれたから余計に辛かったでしょう……?」


「いや、そんなことは無い。少し、考えごとをしていただけだ」


「考えごと?」


 彼の言葉を復唱するように尋ね返せば、彼はティーカップを置き、どこか真剣な眼差しで私を見つめた。ぴり、と張りつめたような空気を感じ取って、私も彼に倣うようにしてティーカップを置く。


「コレット、俺は君のそばに居て本当に楽しい。どうしてこんな俺に優しくしてくれるんだろう、って毎日思ってしまうほどだ」


「そ、そう? そう思ってくれているなら私も嬉しいわ」


 突然のエリアスの告白に何だか私の方がたじろいでしまう。エリアスの紺碧の瞳に見つめられ続けて、脈は早まるばかりだ。いっそ視線を逸らしたいような気がするが、エリアスの纏う緊張感がそれを許してくれなかった。


「でも……俺は君に与えられてばかりだ。身勝手な感情だけが膨らんでいく一方で、俺は何一つ君にあげられていない」


「そんな……言ったでしょう? 私にとってはあなたと過ごす時間こそが宝物なのよ」


 何となく不穏な会話の流れに、心臓がばくばくと暴れだしていた。以前の時間軸を合わせても、エリアスとは喧嘩らしい喧嘩などしたことも無い。


「それが分からない。なぜ君が俺をこんなにも気にかけてくれるのか訊いたところで、君ははぐらかすばかりじゃないか」


「そ、れは……」


 エリアスの不安はもっともだ。でも、だからと言って今すぐに打ち明けられるような話ではない。「以前の時間軸で私たちは婚約者同士で、私はあなたに殺されたのよ」なんて何の前触れもなく言えるはずがないのだ。それくらい非現実的で、彼にとっては受け入れられないはずの話なのだから。


「ほら、やっぱり言えないんだろう……?」


 エリアスは私の両肩を掴むと、僅かに力を込めて私の体を彼と向かい合わせた。彼にしては多少強引な仕草に、戸惑うように瞳が揺れてしまう。


「なあ、正直に言ってくれ。今はともかくとしても、君が俺を気にかけてくれた理由は、俺が兄さんに似ていたからじゃないのか? 俺があからさまな演技をしたから、優しい君が気に病んだだけで、本当は俺に兄さんの面影を見た瞬間はあったんじゃないのか?」


「何を言って――」


「それを責めるつもりはない。当然だ。これだけ顔が似ているんだから、むしろその方が自然だ」


 エリアスの真剣な眼差しに、思わず何も言えなくなってしまう。不安定なはずなのに、鬼気迫ったような迫力があって、どうするべきなのか分からなくなっていた。


「正直に言ってくれ、コレット。もし君が一瞬でも俺に兄さんの面影を見たのなら……俺は、今からでも兄さんの代わりになるつもりでいる。完璧に、俺だって悟らせないくらいに演じてみせるから……」


 縋るようなエリアスの紺碧の瞳は、見ていてとても痛々しかった。


 ああ、昨日の私の動揺が、彼をここまで不安定にしてしまったのだろうか。彼がセルジュお兄様を演じたあの時に、「やめて」と言えなかった私の弱さがエリアスを不安にさせているのだろうか。


「だから……俺を見限らないでくれ、コレット。きっと君にとって益のある人間になる、本当の俺なんてもう見なくてもいい」


「エリアス、落ち着いて。昨日のことは私が悪かったわ。セルジュお兄様の名を呼んだときも、あなたをお兄様の代わりとして見たわけではないのよ。……すぐに否定できなくてごめんなさい。私が悪いわ、本当に……」


 どう言葉を尽くせばエリアスは落ち着くのだろうか。必死に謝罪の言葉を連ねるも、彼の不安定な瞳は虚ろになっていくばかりで、彼が落ち着く気配は微塵も見せなかった。


「……謝らないでくれ、コレット。君を責めたいわけじゃないんだ」


「でも、あなたにそれだけの不安を抱かせてしまったのは私のせいなのでしょう? ごめんなさい、もう二度とあんなことはしないって誓うわ――」


「違う、コレットのせいじゃない。結局俺は、自分が安心したいから、その一心で……っ」


 その言葉と同時に、肩に添えられたエリアスの手に力がこもったのに耐えられず、私はソファーに押し倒されるような姿勢になってしまう。驚いて目を見開くようにしてエリアスを見上げれば、彼は酷く悲し気に紺碧の瞳を伏せた。


「コレット……本当は俺も、君が俺自身を見てくれているのは分かっている。だからこそ余計に苦しいんだ……俺は、こんなにも汚く醜い人間なのに……君に大切にされるような人間じゃないのに……」


「あなたは汚くなんてないわ」


 幾度となく繰り返した台詞を口にすれば、私を押し倒したエリアスはどこか自嘲気味に笑った。


「汚くない、ね……」


 以前の時間軸の彼の狂気を思わせるには充分な不安定さに、ぞわりと背筋が粟立つのを感じる。


「……昨日の尋問会、兄さんが叔父上に葬られたって知ったとき、俺がなんて思ったか分かるか?」


 仄暗い瞳で私を見下ろしたまま、エリアスの指が乱れた私の髪を耳にかけた。その仕草一つひとつは不気味なほどに丁寧だというのに、先ほどから寒気が収まらない。


「ああ、よかった、生贄でも何でも、兄さんが殺されてくれて、本当に良かった、って……そう思ったんだ。兄さんが生きていたら、まず俺はコレットと話すことはおろか、姿を見せることすら許されないような身の上だっただろうからな」


 あまりに歪んだその考えに、私は暫く呆然としていた。この時間軸では穏やかな表情ばかり見せていたエリアスが相手なだけに、俄かには信じられなかったのだ。


「君が……兄さんを想って泣いている横で、俺はそんな自分本位のことしか考えられなかった。理不尽に殺された兄さんを思いやることなんてできなかった。俺は……君が兄さんの名前を呼ぶのを聞いて、君を憐れに想うより先に、君に捨てられるんじゃないかと怯えるような人間だ」


 私をソファーに押し付けるエリアスの手が痛いほど腕に食い込んでいた。いくら大好きな相手でも、圧倒的な力の差を思い知らされると、どうしたって恐怖を覚えてしまう。エリアスの不安定さも相まって、きっと私は今、怯えるような瞳で彼を見つめているのだろう。


「俺のような人間が、ただのうのうとコレットの傍で笑っているなんて許されるはずがない。俺は、君の隣にいていいような人間じゃない」


 エリアスは、まるで泣いているような声で苦し気にそんな言葉を絞り出した。知らなかった、普段あれだけ穏やかに笑っているエリアスが、こんなにも悩んでいたなんて。気づこうともしなかった私はやっぱり、以前の時間軸から大して成長もしていない愚か者なのかもしれない。


「君にはもっと相応しい人間がいるってことは、痛いほど理解しているんだ。でも……それでも俺から君の傍を離れるなんて真似は出来そうにない。こんな歪みを自覚しても、君を困らせてばかりだって分かっていても……俺は君の隣を諦めきれない、往生際が悪いんだ」


 エリアスは不安定な笑みを浮かべたまま、再び縋るように私を見つめてきた。息もできないような張り詰めた空気の中で、私はただ彼の紺碧の視線に縫い留められていた。


「なあ、コレット……逃げるなら今の内だぞ。俺を受け入れるということは、この歪みまでも許容するということだ。それがどんな結果をもたらすか……俺自身分からないから怖いんだ。この先も俺を傍に置くべきかどうか、よく考えて決めてくれ」


 それは、暗に私が彼を婚約者として選ぶかどうか決めるよう諭しているのだろうか。自分の歪みと葛藤を打ち明けた上で、私にその選択を迫っているのだから、ある意味潔いと言えるのかもしれないが、ずるい手法だ。


 エリアスは自分から私の傍を離れられないと言うけれど、そこに隠された感情は何一つ明らかにしていない。どうせ自分の感情なんて、私の選択の二の次だと思っているのだろう。


 私がどれだけエリアスの幸せを願っているかも知らずに、私の選択に従うためならば、自分の心を押し殺そうとするなんて。酷い人だ。本当に、酷くてずるい人。


 そこまで考えて、もっとも、私も天使様にとっては似たような存在なのだろうな、とも気づいてしまった。人のことを言えないのかもしれないけれど、心から幸せを願っている相手が自分を犠牲にしようとする様を見るのはこうも不快なものなのか。


「……初めてあなたに対して苛立ったわ、私」


 軽く睨むようにエリアスを見上げれば、彼は不気味なほど端整に微笑んで私の頬に触れた。


「……その調子だ。早いところ俺から逃げ出さないと、手遅れになるぞ、聖女様?」


 喧嘩というにはあまりに苦しいやり取りだったが、結局この日、私とエリアスは決断を引き延ばしにしたまま、短いお茶会を終えることになったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る