第27話 もっとも、私の中で一番尊いのはあなたの命なのだけれどね
豪奢な控室の扉をリズがノックし、私の来訪を室内のメイドに告げる。リズと私の儀式を担当する大神官たちと合流した私は、早速エリアスの控室を訪ねていた。
突然の訪問にもかかわらず、二つ返事で入室許可が下りた。それだけエリアスが私に気を許してくれている証だろう。それを嬉しく思いながら、私はドレスを摘まみながら悠然と控室へ足を踏み入れた。
「コレット? どうしたんだ、急に」
エリアスの傍には、彼の身だしなみを整えていたらしいサラの姿があり、私の姿を見るなり慎ましく礼をした。
「急に押しかけてごめんなさい。どうしても、あなたと一緒に儀式がしたくって」
そうエリアスに頼み込む最中も、リズと老齢の大神官、そして彼の部下の神官たちが、何とも温かい目で私たちを見守っているのが分かった。二人とも当然、この儀式にまつわる迷信のことを知っているからこその笑みなのだろう。
「俺と一緒に儀式を? 別に夜会でも会えるだろう」
私の前に歩み寄ってきたエリアスは、上質な黒の礼服に身を包んでいた。夜の闇のような黒髪と紺碧の瞳がよく映えている。未だ15歳のエリアスだが、18歳の彼を思い起こさせるには充分なほど美しく成長していた。
「儀式には、ちょっとした迷信があるって思い出したのよ」
「迷信? コレットは本当に好きだよな」
半分呆れたように笑いながらも、言葉の続きを促してくれる。エリアスは迷信のことを知らないようだから、わざわざ恋人、なんて言葉は出さなくてもいいだろうか。
「この儀式で、一杯のワインを飲むでしょう。そのときに……お互いのワインを交換して飲むと、ずっと仲良くいられる、っていう迷信があるのよ」
恋人同士、という言葉を抜いただけなのだから全くの嘘ではない。
「おやおや、聖女様は素直ではないようですな」
老齢の大神官が顎に蓄えた白いひげを撫でながら、おおらかに笑った。何だか気恥ずかしい思いだが、気にせず私はエリアスに向き直る。
「折角だから、その迷信を試してみたくて。……駄目かしら?」
若干しおらしくエリアスを見上げれば、彼は軽く視線を逸らして曖昧に微笑む。何だか感情の読めない表情だ。
「別に、駄目なんてことはない」
「よかった」
優しいエリアスのことだから断らないだろうとは思っていたが、何だかほっとした。これで、筋書き通りに動くことが出来る。
「では、そろそろ準備を始めましょうぞ。夜会の開始時刻も迫っていることですしな」
大神官がそう告げると、彼の部下らしき神官たちが祈祷のための道具やらワインやらを準備し始めた。その最中、コンコン、とドアがノックされる音が響く。
「失礼いたします、フォートリエ様の儀式を担当させていただく――」
入室してきたのは、エリアスの儀式を担当する青白い顔の神官だった。彼は私の姿を認めるなり、手に持っていた道具類やワイングラスを落としそうな勢いで驚いている。
「っ……聖女様?」
「あら、先ほどもお会いいたしましたね。どうぞよろしくお願いいたします」
我ながら白々しい演技だったが、神官にはかなりの動揺を与えたようだ。既に指先がガタガタと震えている。
大神官の部下たちから何やら説明を受けている最中も、エリアスの担当の神官は青ざめた顔をしていた。私がいることは当然予想外だったのだろう。
「大人気だな、聖女様?」
エリアスはからかうようににやりと笑ってみせた。もう、とエリアスを軽く小突けば、彼は楽しそうにくすくすと笑う。些細だけれど、幸せな、とても幸せな瞬間だ。
間もなくして準備が完了したことを知らされた私たちは、ワイングラスの並んだテーブルの前に隣同士で腰かける。ゆったりとした動作で祈りの文句を口にし始める大神官の傍では、エリアス付きの若い神官がかたかたと震えていた。
そっと、エリアスのワイングラスと私のワイングラスを見比べてみる。こうして見る限りでは色合いにも香りにも遜色がないようだ。以前の時間軸でエリアスの舌を欺けたほどなのだから、恐らく味も変わっていないのだろう。
恐ろしい毒だ。令嬢らしく微笑みながらも、内心身震いする思いだった。たった一杯のワインが人の命を奪い得るなんて。
「では、ワイングラスを交換なさってください」
悠然と微笑んだ大神官様が、私とエリアスにワイングラスの交換を促す。隣に座ったエリアスの紺碧の瞳を見据えては、迷信に心を躍らせる少女を演じてにこりと微笑んで見せた。
「……俺とずっと仲良くしたいなんて、コレットも変わり者だよな」
「あら、ごく自然な感情だと思うけれど?」
「まあ、嬉しいことではあるんだけどな……」
「そう思ってくれるなら、私は幸せ者よ」
にこりと微笑みながらエリアスからワイングラスを受け取れば、彼は軽く視線を逸らしてしまう。エリアスにしては素直な部類の言葉を口にしたせいで、少し照れているのかもしれない。そんな些細な表情の変化にも、愛しいという気持ちが募っていくのが分かった。
エリアスへの温かい感情で心が満ちるのを感じながら、「星鏡の大樹」の葉の模様が細工されたワイングラスをそっと揺らしてみる。やはり、どこからどう見ても一般的なワインと変わらない。
ちらり、とエリアス付きの神官を見やれば、彼はこれ以上ないくらいがたがたと震え、真っ青な顔をしていた。これには大神官の部下たちも違和感を覚えているようで、先ほどからちらちらとエリアス付きの神官を気遣うようなそぶりを見せている。
「それでは、コレット・ミストラルとエリアス・フォートリエの縁がいつまでも続くよう願って――」
大神官様がグラスを軽く上げるように手で合図してくださる。私とエリアスはそれに合わせて、椅子の上で軽く体の向きを変えて向かい合った。
「――乾杯」
柔らかい表情で微笑むエリアスは本当に素敵で、私が今、毒入りのワインを持っていることも忘れるほどに見惚れてしまった。
そのままゆっくりとワイングラスを口に運ぶエリアスに合わせて、私もそっとワイングラスを傾けた。
ふわり、と豊潤な葡萄の香りが漂う。確かこれは、ミストラル公爵領で採れる葡萄を使用しているワインだ。一口飲めばきっと、飲み慣れた優しい味が口いっぱいに広がるだろう。
もっとも、毒入りのこのワインを飲むわけにはいかないのだけれど。
なるべくもったいぶって時間稼ぎをしていたが、そろそろ限界だ。ほんの数秒程度しか稼げなかったが、エリアス付きの神官の心を揺さぶることは出来ただろうか。
そっと、冷たいワイングラスに唇をつける。夜会のためにいつもより濃い目に引いた紅が、グラスにぴたりとくっつくのが分かった。
その瞬間。
ワイングラスを持っていた手に衝撃が走り、僅かな後には、ぱりん、とワイングラスが割れる音が響いた。椅子から少し離れたところでは、割れたワイングラスから零れ落ちたワインが絨毯に赤い染みを作っている。
「お嬢様!?」
大神官様も含め、皆が唖然としてエリアス付きの神官を見つめる中で、真っ先に反応を示したのはリズだった。私の傍に駆け寄るなり、ワイングラスを叩き落された私の手を両手で包み込んで観察する。
「お嬢様、お怪我はなされていませんか? どこか痛むところは……」
「大丈夫よ、リズ」
計画通りだ、とほくそ笑む心を押さえつけながら、突然の出来事に狼狽える令嬢を演じる。私の隣ではエリアスが冷ややかな声で神官に問いかけていた。
「……神官殿、これは一体何の真似だ? 聖女とも崇められているコレットに対するこの非礼、何か訳があるんだろうな?」
「あ、あ……」
エリアス付きの神官は遂にその場に崩れ落ちてしまった。彼の代わりに大神官が私たちに頭を下げる。
「申し訳ございませぬ。何を思ったか、お二人にこのような非礼を働くなど……あるまじきことでございます」
こんな状況でも下手に慌てたりしない大神官の余裕には好感を持った。高い位に上り詰めるだけのことはあるようだ。
そろそろ私の出番だろうか。泣き出しそうなほどに私を案ずるリズを宥め、私はそっと床に崩れ落ちた神官に視線を送る。
「神官様、一体どうしてこのようなことを?」
令嬢らしい微笑みを湛えたまま静かに問いかければ、彼は視線を彷徨わせながら取り繕い始めた。
「あの……その……聖女様のワインに埃が入っておりましたもので……」
「埃が? まあ、それはありがとうございます」
そっと席を立ち、純白のドレスが汚れないように高めに裾を挙げて神官の前に進み出る。15歳の少女が神官を見下ろすという妙な図になってしまった。
「こんな風にワイングラスを叩き割るくらいなのですから、よっぽど危ない埃なのでしょうね?」
その言葉と共ににこりと笑みを深めれば、場の空気が凍りつくのが分かった。恐らく何気ない言葉の裏に隠された真の意味に気が付いたのだろう。ここまで余裕を保っていた大神官でさえも、驚いたように視線を神官に向けていた。
エリアス付きの神官は、可哀想なくらいに震えていた。彼はきっと実行犯に過ぎないのだ、ということを鑑みれば可哀想な気もしたが、エリアスを傷つけようとした人物であることに変わりはない。手加減をするつもりはなかった。
「あのワイングラスに入っていたのは、本当に埃ですか?」
笑みを崩さぬまま神官に問いかければ、彼は怯えたような目で私を見上げるばかりで答えを返さなかった。
「正直にお答えになってください。……星鏡の天使様が見ておりますわよ」
ひっ、と息を飲むような音と共に、神官は数歩後退るような素振りを見せる。これでは何だか私が悪者のようではないか。
だが、天使様のお名前を出したことが効いたのか、間もなくして神官は脱力するようにして床に手をついた。やがて、声を絞り出すようにして弁明を始める。
「聖女様……あなたを殺すわけにはいかなかった。星鏡の天使の加護を受けているあなたを害すれば……この国にどんな災いがもたらされるか……」
その言葉に、もう一度場が凍り付く。エリアスが席を立つのが気配で分かった。
「殺す? 人を殺すほどの何かが、このワインにはあったのですか? ああ、でも、このワイングラスはもともとエリアスのものでしたわね……? まさか、彼を狙って……?」
淡々と問い詰めれば、神官は自棄になったように語り始めた。
「そうだ! 狙いはフォートリエ侯爵子息だ……。聖女様を殺すなんて恐ろしいこと……できるはずがない!」
「聖女だろうが何だろうが、命の重さに差は無くってよ」
自分の声とは思えぬ冷ややかさに、場の視線を集めてしまった事が分かった。エリアスでさえ、驚いたようにこちらを見ているのが分かる。
「エリアスを殺そうとするなんて……絶対に許せませんわ。あなたが単独で企んだことですの?」
睨むように神官を見下ろせば、神官は迷うように視線を彷徨わせ引き結んだ唇を何とか開いた。
「……っ……そう、だ」
「本当に? 天使様はきっとすべてを見ておいででしたから、答え合わせをしてもよろしいんですよ。私を欺いたとなれば……彼は絶対にあなたを許さないでしょうね」
私を傷つける者には、死して尚終わらない苦しみが与えられるんでしたっけ、と天使様の言葉を引用しながら多少大袈裟に脅せば、神官は遂に床に腕をつけるようにして体を丸めた。かたかたと震える体は相変わらずだが、やがて消え入りそうな声が紡がれる。
「……っさる高貴なお方のご指示で……」
「高貴なお方? それはどなたですの?」
追い詰められた神官はもう抗うことを辞めたのか、やけに脱力した声で犯人の名を口にした。
「……オードラン、伯爵です」
誰もが息を飲むのが分かった。この場にオードラン伯爵の名を知らぬ者はいないだろう。
3年前の祝祭で、オードラン伯爵に会った夕暮れを思い出す。フォートリエ侯爵閣下によく似た顔を持つ、エリアスの叔父君。つかみどころのない笑みばかり浮かべていた、あの人が。
思わず、エリアスの方を見やれば、彼はどこか苦々しい顔をしていた。自分の命が狙われたことに対する恐怖というよりは、どこか諦めたような浮かない表情だった。
「……リズ、お父様に事の次第をご報告して頂戴。それから、出来ればオードラン伯爵にもお話を伺いたいわ」
「かしこまりました」
お父様とお母様は、もうじきこの王城へ到着するはずだ。すぐに報告できるだろう。
「サラ、父上に使いを出すんだ。寝込んでいても案外父上の頭は冴えている。父上のご判断を仰げ。それまでは……」
手短に用件を告げたエリアスの言葉の続きを、大神官がゆったりとした口調で受け取った。
「……それまでは、騎士団にこの者の身柄を委ねましょうぞ。このような失態を冒した以上、我々への信頼は無いも同然でしょうからな」
神官は傍に控えていた部下に耳打ちして、すぐさま騎士団へ使いをやったようだった。それと時を同じくして、大神官の部下たちがエリアス付きの神官を取り押さえている。
各々が自らの役目のために動き出したせいか多少騒がしくなった控室の中で、私はほっと息をついた。
これで、一件落着だろうか。ひとまず、エリアスが毒を煽るのを防げた事実に一安心する。
それにしても、オードラン伯爵が。3年前に見かけた伯爵の姿を思い出しては、小さく溜息をつく。
確かにエリアスが命を落とせば、フォートリエ侯爵家は分家から養子を取らざるを得なくなる。その際の最有力候補はやはりエリアスの従弟に当たるオードラン伯爵子息だろうが、確実にそうとは言い切れない。順当にいけばオードラン伯爵子息は伯爵位を継ぐことを考えれば、爵位を授かる予定のない別の分家の子息を養子にすることだって充分考えられるのだから。
エリアスを殺す動機にしては、多少弱い気がする。騒然とする控室の中で、静かに考えを巡らせながら私はもう一度息をついた。
正直に言えば、私は黒幕の正体はエリアスの義母上――フォートリエ侯爵夫人なのではないかと思っていた。心を病んでしまった彼女が王城にいるはずもないから、神官に薬を渡したのは別の者だろうとは思っていたが、その大元にいるのはフォートリエ侯爵夫人だと考えていたのだ。
あれだけ分かりやすくエリアスを恨んでいた夫人なのだ。家の存続など考えもせずに、エリアスの命を狙うかと思っていたのだが、最低限の理性は保たれていたようだ。
何にせよ、これでオードラン伯爵を尋問し、国王陛下へ事の次第を報告すればこの事件は片付くだろう。エリアスを殺そうとした動機は気になるけれど、今どうにかなる話ではない。後程、ゆっくりと伯爵から伺えばいいのだ。
オードラン伯爵家は良くて降格、悪くて領地没収の処分が下されるだろうか。いずれにせよ、エリアスの命を狙う脅威が排除されることになりそうで段々と緊張の糸がほぐれて行くのが分かった。
私、上手くやりましたわ、天使様。
装飾の施された窓枠に囲まれたガラス窓から紫紺の空を見つめれば、何だか達成感のようなものが沸き上がってくる気がした。ここ数日、気が張っていたからようやくまともに息が出来た気がする。
ほっと息をついた私の傍に、ふとエリアスが近づいてくる。彼は相変わらず苦々しい顔をして私を見ていた。
「こんなことに巻き込んでしまって済まない、コレット」
「いいのよ。あなたが毒を飲まなくて本当に良かった」
心からの想いを告げれば、エリアスの指先が私の唇に乗せられる。驚いてエリアスを見つめれば、彼は不安げな表情で私の唇をなぞった。
「一滴も飲んでいないか? 本当に大丈夫か?」
ワインの雫が唇についていないか確かめていたのだろう。理由は推測できたが、それにしたって何だか気恥ずかしいこの行動に、私の方が視線を彷徨わせる羽目になった。
「へ、平気よ。グラスに少し口をつけただけで、ワインには触れていないもの」
「それなら、いいんだが……」
気づけば、エリアスの指先が震えていた。非常事態なのだから、普段の彼らしからぬ振舞も納得する部分はあるが、先ほどまであれだけ冷静に振舞っていたエリアスが今更動揺を見せるとは思ってもみなかった。
「エリアス、震えているわ。一体どうしたの?」
彼の手に自らの手を重ねて問いかければ、エリアスは翳った紺碧の瞳で私を見つめた。その不安定な視線に、思わずどくん、と心臓が跳ねる。
「……もし、神官がコレットのグラスを割っていなかったかと思うと……怖くて怖くて仕方がないんだ。コレットが、毒を煽るような事態になっていたら……俺は……」
その言葉の続きを言う間もなく、エリアスは私を抱きしめた。大神官を始めとする大勢の目がある中でエリアスがこんな行動を起こすなんて。予想もしていなかった事態に、ただ目を見開いてエリアスの肩に頭を預けることしか出来ない。
エリアスは何も言わずに、ただ私を抱きしめていた。その沈黙こそが、彼の言葉に出来ない想いの証のような気がして、私もそっと彼の背中に手を回した。エリアスとは仲良くしているとはいえ、こんな風に抱き合うことは、この時間軸では数えるほどしかない。そう、せいぜい8歳の時に私が幼い彼を抱きしめたくらいだ。
エリアスのためと思って起こした行動が、天使様だけでなくエリアスまでもひどく心配させてしまったようだ。私だって好きで自分を傷つけたいわけではないが、心配性な彼らのために、もう少しだけ気を遣ってみてもいいのかもしれないと感じた瞬間だった。
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