第26話 君を傷つけるものは、たとえ君自身でも許せない

「く、口説くって……?」


 珍しく狼狽えた天使様を前に、私はたった今思いついた筋書きを早速打ち明ける。


「口説かなくてもいいのですが、私と天使様が親密な仲であると――私が『聖女』と呼ばれたのは全くの嘘ではないのだと、あの神官に見せつけてほしいのです。出来れば、普段の過保護なまでの甘さを全面的に押し出してください」


「コレットが承認欲求強い子だなんて思ってなかった……」


「あくまでも演技です、演技!」


 さりげなく茶化してくる天使様を前に、私は小声ながらも軽く声を張って否定する。


「ごめんごめん、それで?」


「この儀式には、恋人同士がワイングラスを交換すると末永く幸せになれる、という迷信があることをご存知ですか?」


「風の噂に聞いた程度だけど、知っているには知っているよ」


「この迷信にかこつけて、私はあの神官の前でエリアスとワイングラスを交換します。……恋人同士ではありませんけれど、彼なら迷信好きの私に付き合ってくれるでしょうから」


 なんだかんだ言いながら、エリアスは私を尊重してくれるはずだ。今夜だけは我儘な公爵令嬢になりきって、無理やりエリアスとグラスを交換したっていい。


「何だか嫌な予感がするけど、その後は?」


 天使様は躊躇うように問いかけてきた。私に過保護な天使様の前でこの筋書きを披露するのは申し訳なく思うが、意を決して口を開く。


「その後は、私が神官の前でエリアスのワイングラスを煽るだけ――」


「――そんなの、僕が許すと思った?」


 声に静かな怒りを滲ませて、天使様は私の肩を揺らした。天使様は怒ると、一瞬で別人のように声が冷たくなる。その変化に多少戸惑いながらも、私は微笑みを保ち続けた。


「言葉が悪かったですね。大丈夫、本当に飲んだりはしませんよ。いえ、多分飲むことも叶わないでしょう。あれだけ信仰心の厚い神官です。天使様に寵を受ける少女が、自分の用意した毒を手違いで煽るのを見過せるはずがありません」


「確実じゃない。保身のために見過すことだって大いにあり得るよ」


「そうでしょうか? 信仰というものは案外強いものです。ただでさえ、今、あの神官はエリアスのワイングラスの毒を盛って弱気になっている……多分、世間で『聖女』と呼ばれる少女が毒を含むのを見逃せるほどの気力は残っていないと思います」


 天使様の仰る通り、これは一種の賭けと言えば賭けだ。だが、かなり私に勝機があると思っている。


 人の信仰というものは、目に見えないけれどかなり強大だ。敬虔な信者でもない私が、以前の時間軸で神官を疑うことが出来なかったぐらいには、知らず知らずのうちに染まっている。ましてや神官は自ら「星鏡の大樹」に仕えることを望んだ人間なのだ。恐らく、信仰の度合いは私たちの比ではない。

 

「それに、万が一飲む羽目になっても、一口二口でやめればよいのです。そうすれば、まず死ぬことは無いでしょうし、その後には必ずミストラル公爵家の手の者の調査が入ります。それはそれで、少なくとも以前の時間軸よりは黒幕に近付けると思うのです」


 天使様はただ静かに私の話を聞いていた。夕焼けに、天使様の白金の髪が煌めいている。永遠にも思える沈黙が二人の間に流れていた。


 やがて、私の肩に添えた天使様の手にぐっと力がこもるのが分かった。


「……いいよ、君が望むならその芝居には付き合おう。君のためなら何でもすると決めたんだ、断る理由もない」


「天使様、ありがとうございま――」


「――でも」

 

 天使様は冷ややかな声で私の言葉を遮ると、どこか自嘲気味な調子で淡々と告げた。


「少しは……君の幸せを願って世界を巻き戻した天使の気持ちでも考えてみたらどうかな。君が君自身を蔑ろにするということは、君に向けられた愛をも拒むということだ。それが分からないほど君が愚かなら、もう、自由なんて与えない方がいいだろうね」


 天使様は私の首筋を指先で掠めるようになぞった。いつもよりずっと冷たい天使様の声と、首筋をなぞられる感触で全身がぞわりと粟立つ。


「コレット、覚えておいで。僕はいつだって君を連れ去ることが出来るんだ。あんまり君が君自身を傷つけるようなら、いつか誰の手も届かない場所に連れて行ってしまうからね」


 天使様は端整に微笑んでいたが、その声音は真剣そのものだった。実際、天使様が私を連れ去ることなんていとも簡単にできてしまうのだろう。


 それが分かるからこそ余計に、天使様の言葉は重く私の心に響いた。それくらい言われてしかるべきことを私はしようとしているのだ。きちんとその忠告を受け止めなければ。


「……分かりました、心に刻んでおきます」


 首筋に触れた天使様の手に私も手を重ね、誓うように真っ直ぐに彼の顔を見つめた。天使様は数秒の沈黙の後にふっと笑うと、ふわりと私を抱き上げる。


「分かってくれたならいいよ。さて、筋書きも決まったことだし早速向かおうか?」


 先ほどまでの冷ややかな声とは打って変わって、いつも通りの穏やかな声音にどこか安心している私がいた。やはり、天使様はこうして優し気に微笑んでくださっているほうがいい。


「ええ、よろしくお願いいたします、天使様」


 私のその言葉を合図に、天使様は空中へと飛び出した。今から、世界の誰より大切なエリアスを救うための小さなお芝居を始めるのだ。






 人目を避けて何とか移動した先は王城の西側に設置された小さなバルコニーだった。沈みかけた夕日が眩しいほどに私たちを照らしている。


 このバルコニーであれば、あの神官がエリアスの待つ控室へ向かう際に、必ず通るはずなのだ。夕日を背にして天使と邂逅する少女というのもなかなか幻想的ではないか。あの神官の心に鮮やかに刺さればいいのだが。


 真っ白なドレスが夕暮れの風に揺れた。肘の上まで覆うロンググローブ越しにエリアスに貰った髪飾りに触れれば、不思議と何でもできるような気がしてしまう。


「その姿、コレットの花嫁姿を思い出すね。綺麗だったなあ……」


 確かに、私もこのドレスを纏うときには以前のエリアスとの結婚式を思い出したものだ。天使様は私の結婚式もばっちりと見守ってくださっていたらしい。


「今となっては懐かしいお話ですね」


「今回も……コレットの花嫁姿、見られるかな」


「ふふ、どうでしょう。嫁ぎ先も決まっておりませんもので」


「見られないならそれはそれで悪くないね。その分、ずっと君と一緒にいられるから」


 それはどういう意味か、と聞こうとしたそのとき、バルコニーから見える廊下の先に人影があった。背格好からして先ほどの神官だ。儀式に必要な道具とワイングラスを抱えた神官が少しずつこちらに近付いている。


 それを横目で判断した私は、すぐに天使様に耳打ちした。


「天使様、もうすぐです。私を傷つけると天使様の怒りを買うって見せつけて差し上げてください」


「コレットにこんなこと言われるのは、後にも先にも今日だけだろうな」


 天使様はどこか可笑しそうに笑うと、そっと私の頬に手を当てた。それと時を同じくして、廊下の先の足音が一層近付いてくるのが分かる。


「……可愛いコレット、こっちを向いてごらん。そう、いい子だね」


 天使様の手に従うようにして彼の顔を見上げれば、とろけるような甘い声で彼は囁き始めた。演技が始まったのだと分かっていても、何だかむず痒い。


「コレットが社交界デビューだなんて、何だか心配だな。悪い奴らに騙されたりしなければいいんだけど」


 それは恐らく本心なのだろう。演技というよりはいつも通りの過保護な天使様の姿に、思わず自然な笑みを零してしまう。


「ふふ、相変わらずの心配性ですね。でも、私には天使様がいらっしゃるのだから、大丈夫ですわ」


 神官の足音がすぐ近くまで迫り、やがて止まった。視線は天使様に向けているのでその姿を確認することは出来ないが「天、使……?」と呟く神官の声が聞こえたので、この光景はばっちり彼の目に映っているだろう。


「それもそうだね。コレットのことは僕が必ず守ってあげる。絶対に誰にも傷つけさせたりしないよ」


 天使様はそっと私の髪を撫で、この世のものとは思えないほどの甘い甘い笑みを見せた。普段より格段に糖度の増した声に、やはり何だか落ち着かない気分になってしまう。


「僕の大事な大事なコレット、もしも君を傷つけるような輩がいたら、僕が必ず裁きを下してあげるからね。死して尚終わらない苦しみを、永遠に味わわせようね」


 甘さの中に溶け込んだ狂気にも近いその感情に、不覚にも寒気を覚えてしまう。私がこれから敢えてエリアスに向けられた毒を煽ることを考えれば、これ以上ないくらいの牽制になっていると言えるのだが、数年間天使様の傍にいた私でさえ怯む迫真の演技なのだ。あの気弱そうな神官は失神してもおかしくない。


 天使様は不意に私を引き寄せると、ゆっくりと私の額に口付けを落とした。普段、星空の中で受ける天使様の口付けは何の抵抗もなく受け入れられるけれど、人目があると思うと恥ずかしさで僅かに身を固くしてしまう。

 

 だが、これは宗教画でよく見る聖女や聖人たちが天使に祝福を与えられている場面にそっくりだ。神官が見れば、一目で私が天使に寵を受けていると分かるだろう。


「君に祝福を、コレット。今夜は楽しんでおいでね」


「ありがとうございます、天使様」


 天使様は一度だけ私の頭を撫で、にこりと笑うと、そのまま純白の翼を広げた。


「……上手くやるんだよ」


 去り際に私の耳元でそれだけ囁くと、天使様はバルコニーから飛び立っていった。夕暮れに消えていく純白の翼を見ていると、私でもここが現実だと思えなくなる。

 

 天使様を見送り数秒経った後、私はようやく神官に視線を向けた。案の定、神官は目の前の光景が信じられなかったのか、祈祷の道具を持つ手が震えており、濃い茶色の瞳を見開いて私を見つめていた。


「っ……あなたは、聖女――いや、ミストラル公爵令嬢……?」


 神官は震える声で問いかけてきた。ここからは私の腕の見せ所だ。


 私は純白のドレスを揺らし、なるべく意味ありげに微笑んで見せる。


「ふふ、私の社交界デビューを心配した天使様がわざわざ来てくださいましたの。またしても神官様に見られてしまうなんて……」


 ゆっくりとバルコニーから退出し、神官のすぐそばを通り過ぎる。


「あまり、騒ぎ立てないでくださいませね? ご存知の通り、これから夜会に向かわねばなりませんもので」


「……承知いたしました」


 神官は私に軽く頭を下げ、了承の意を示した。私も令嬢らしくドレスを摘まんでお辞儀をする。


「それでは失礼いたしますわ、神官様」


 これで、私が天使様にとって特別な存在であるという印象を与えることは出来ただろう。悠然と微笑みながら、私は呆然と立ち尽くす神官より先にエリアスの控室へ歩き出した。


 途中ですれ違ったメイドに、「エリアスと一緒に儀式をしたい」というリズへの伝言を頼んだところで、準備は万端だ。


 絶対に、エリアスを傷つけようとした黒幕を捕まえてみせる。そう意気込みながら、私は黙々と歩き始めたのだった。

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