第24話 この世のあらゆる苦痛から、あなたを守り抜けたなら

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 以前の時間軸でも、15歳の社交界デビューを迎える寸前に私はエリアスから贈り物を貰っていた。薔薇を模った青い宝石が美しい、見事なチョーカーだった。

 

 社交界デビューの数日前、私はエリアスから貰ったチョーカーをつけてみようと姿見を覗き込んだ。


 鏡に映り込んだ自分の姿に、私は一瞬表情を歪めた。このところまとわりつく息苦しさの根源である、首筋に残った火傷のような赤い跡にそっと指先で触れてみる。


 生々しいその赤は、エリアスが私の首筋に口付けたときについたものだった。薄い皮膚の下で小さな細い血管が沢山破れた証だ。それも、数か所なんていう可愛らしいものではなく、首筋から鎖骨にかけて痣のように連なっている。ここまで酷いと、却って口付けの跡だと気づかれないかもしれない。


 エリアスがこんな行動に出た理由は確か、私が男性の使用人と一言二言言葉を交わしたとか、そんな些細なものだった気がする。でも私にとっては取り留めもないその行為が、エリアスの異様な執着心を露わにするには充分な出来事だったようで、痛いほどに首筋に口付けられたのだ。


 戯れの域を過ぎたその行為に、私は当然抗議の声を上げた。もうやめてほしいと涙目で縋った。


 でも、エリアスは仄暗い目で私を見つめて微笑んだのだ。


「このくらい、恋人同士なら普通だよ。恋人である僕に怯えるなんて、ココは酷い女の子だなあ……」


 エリアスのその執着が異常であることくらい、私はとっくに分かっていた。分かっていたのに、エリアスの虚ろな目を見た瞬間、私はもうほとんど身動きが取れなかったのだ。今思えばこの頃から、息苦しい関係は始まっていたのかもしれない。


 社交界デビューの日までに、何とか消えてくれるだろうか、と私は赤い跡を指先でなぞった。化粧の上手いリズの手を借りれば、数日後には十分に隠せるだろうが、それでも不安は残っていた。


 夕暮れが差し込む室内で、私は小さな息をつく。何とも言えない閉塞感に、上手く息が出来なかった。


 エリアスにこんな跡をつけられたことは、リズしか知らない。お父様にもお母様にも、もちろん可愛らしい弟妹達にも言えるはずがなかった。私のことを大切に思ってくれる彼らに、余計な心配はかけたくない。それに、これが原因で私とエリアスの婚約に亀裂が走ったら何より私が悲しかった。


 跡が薄れるまでは、襟元の詰まったドレスを着て誤魔化すしかないだろう。再び溜息をつきながら、私は手元のチョーカーを見下ろした。


 私は、この先もずっと彼に束縛されたまま生き続けるのだろうか。彼のことは大好きなのに、時折そんな不安が脳裏を過っては、少しずつ私の首を絞めていくような気がしてならなかった。


 次からは、気をつけよう。エリアスの機嫌を損ねないように、彼が安心して笑えるように。私が自分の行動に気をつけさえすれば、私たちは円満な恋人同士なのだから。


「……お姉様?」


 その瞬間、突然背後から響いた可憐な声に、私は大げさに肩を震わせてしまった。振り返れば、さらさらとした白銀の髪を揺らして訝し気にこちらを見つめるフィリップとクリスティナがいた。


「驚かせてしまって申し訳ありません、お姉様。ノックをしても反応が無かったもので、つい……」


 フィリップがどこか申し訳なさげにそう呟いたが、二人の視線は確実に私の首元に注がれていた。私は慌てて灰色の髪を首元に流し、何とか誤魔化そうとした。


「っ……そう、ごめんなさい、少しぼんやりしていたみたいだわ」


 震える指先で首筋を隠しても、もう遅いということは分かっていた。血相を変えたクリスティナが、ずい、と私の前に詰め寄る。


「……お姉様、その首、どうなさったのです?」


「……何のことかしら」


 妹相手にとぼけることしか出来ない自分が情けなかった。弟妹達に首筋の跡を見られたことがどうにも恥ずかしくて、今すぐ逃げ出しくなってしまう。


「お姉様! 駄目です、ちゃんと手当てしなきゃ……」


 そう言ってクリスティナの手が私の灰色の髪を払うと、彼女はますます嫌疑の色を深めた。思わずクリスティナから顔を逸らし、妹相手だというのにひどく怯えた態度を取ってしまう。


「っ……お姉様、これ……エリアスお義兄様に……?」


 美しく愛らしいクリスティナに指摘されたことで、羞恥から来る頬の熱は最高潮に達していた。よくよく考えればほとんど年の変わらない弟妹達なのだ。首筋に残った赤い跡の意味に、気づかないわけがない。


「こ、このくらい、恋人同士なら普通なのよ……」 


 そう、エリアスに言われたことを繰り返した。苦しい言い訳だと自分でも分かっていたが、可愛らしい弟妹達の目から逃れられるなら、もう何でもよかった。


「これが? 普通だと? 殆ど赤黒くなっているではありませんか。これはもう暴力の一種だと言うべきです」


 フィリップは、痛々しいものを見るような目で私を見下ろしていた。薄々勘付きつつあった痛いところを突かれた気がして、私は思わずフィリップから目を逸らしてしまう。


「……父上に報告します。これはあんまりだ、姉上は不当に傷つけられていいような人じゃない」


 語気に怒りを滲ませて、踵を返そうとしたフィリップの手を私は咄嗟に掴んだ。


「駄目!」


 駄目だ、お父様に知られたら、私を大切にしてくださるお父様は絶対にこの婚約を見直そうとするだろう。それだけは、どうしても避けたかった。


「お願い、言わないで、フィル! 違うのよ、これは、私が……私が悪かったの。エリアスの前で、他の男性と話したりしたから……」


「たったそれだけで? ……前々から思っていましたが、義兄上は独占欲が強すぎる。はっきり言えば、義兄上が姉上に向けている想いは異常です」


「フィル、言いすぎよ」


 隣でクリスティナが眉を顰めて彼を諫めたが、フィリップは負の感情を露わにしたまま彼女に軽く視線を送る。


「ティナも心配していたじゃないか、義兄上が姉上を見る目が怖い、って。いつか取り返しのつかないことになりそうで恐ろしい、って」


「それはそうだけれど……」


 いつのまにか、可愛い二人の弟妹に心配をかけてしまっていたらしい。それが情けなくて、空しくて、エリアスの異常性をお父様やお母様に知られるのが怖くて、気づけばぽろぽろと涙が零れだしていた。クリスティナとフィリップがぎょっとしたように私を見つめる。


「っ……お願い、誰にも言わないで。エリアスを悪く言わないで……。私は彼のことが大好きなの。彼だって、私を愛してくれているのは確かなのよ。時々不安定になることもあるけれど……彼は、こんな、こんな失敗作の私を……誰より愛してくれるの」


「失敗作、なんて……あんな陰口真に受けることありませんわ。品のない方々が、清廉で聡明なお姉様を妬んでいるだけですわよ」


「妹に言われるお世辞ほどつらいものは無いわ、ティナ」


 今考えてみれば、これはあまりにも醜い拒絶だった。多分、この言葉はクリスティナを傷つけただろう。でも、この時の私には彼女の心情に気を配る余裕が無かったのだ。


 僅かな沈黙の後、子どものように泣きじゃくる私を前に、フィリップがそっと私の肩に手を添える。


「不躾なことを言って申し訳ありませんでした、姉上……。ただ、僕らは姉上が心配で……。このままの関係が続いて、果たして姉上は本当に幸せになれるのか、と不安でならないのです」


「私とエリアスは想い合っているのよ……もう既に充分幸せだわ」


「それなら……良いのですが……」


 クリスティナの白い手が、そっと私の手を握った。涙で滲んだ視界の中で、彼女が憂いを帯びた表情でこちらを見据えているのが見て取れた。


「お姉様、私たちがお姉様の幸せを願っていること、決して忘れないでくださいませ。あまり、一人で抱え込みすぎてはお姉様が壊れてしまいますわ……」


 私は、それが怖いのです、とクリスティナは祈るように私の手を額に当てた。でも残念ながら、このときの私にとって、弟妹達の心配は余計な不安の材料にしかならず、この出来事をきっかけに私は彼らと距離を取り始めることになるのだった。


***************


 さらさらと、髪の毛を撫でられる感覚にゆっくりと私は目を開けた。一番初めに飛び込んできたのは、バルコニー越しの星空で、身じろぎすればエリアスから貰った髪飾りが膝の上を滑るのが分かった。


 ああ、そうだ、私は目前に迫った社交界デビューの夜会に向けた準備をしていたのだ。その最中で、いつの間にか眠ってしまったらしい。


 私の髪を撫でていたのは、今日も優し気な微笑みを湛える天使様で、彼は私がソファーから体を起こすなり、どこか申し訳なさそうに呟いた。


「ごめん、起こしちゃったかな。なるべく静かに撫でていたつもりだったんだけど」


「むしろいらっしゃったなら起こしてくださいと、前々から申し上げておりますのに」


 寝顔を見られたことに多少の羞恥を覚えながら拗ねたように告げれば、天使様はくすくすと笑って私の髪を撫でた。


「実を言うと、今日はちょっとだけ起こそうか迷ったんだよ。少しうなされていたようだったから……。悪い夢でも見た?」


 悪い夢、と言えばそうなのかもしれない。先ほどまで見ていた懐かしい記憶を思い返しては、小さく苦笑いを零した。


「ええ、少し、昔のことを思い出していて……」


 クリスティナとフィリップの心配は、結局最悪な形で実現してしまった。いつか取り返しのつかないことになるかもしれない、と予感したクリスティナの直感は大したものだ。それくらい、彼らは私とエリアスをよく観察していて、私の身を案じてくれていたということなのだろう。


 弟妹達の健気な心配を拒絶して、その上距離を置くなんて、我ながら酷い姉だと思う。身勝手で、鬱々としていて、あの頃の私に良いところなんて一つもない。


「……昔のこと?」


 声に明らかな不安を乗せて、天使様は私の髪を撫でていた手を止める。その過保護な心配を、素直に受け取ることが出来る今の自分の状態を好ましく思った。当たり前だがあのころとは違う。今はもう、エリアス以外にも私を大切にしてくれる人がいると分かっている。


 家族はもちろんだが、天使様はその最たる例かもしれない。何だかんだ言って、私の心はこの人に救われている部分が大きい気がした。


「心配なさらないでくださいませ。昔と違って、今はかなり良い方向に向かってきていると感じただけですから……」


「確かに、以前の15歳のコレットよりは確実に明るい顔をしているよね。いい兆候だよ」


 天使様は私の髪を再び丁寧に梳き始める。今では腰のあたりまで伸びた灰色の髪をいじるのが、このところの天使様のお気に入りらしい。何だかくすぐったい感じもするが、天使様がひどく嬉しそうに私の髪に触れるので何も言えないのだ。


「それにしても、何かの準備をしていたの?」


 天使様はソファーやテーブルの上に置かれた装飾品を見て問いかけてきた。社交界デビューの日につけるちょっとしたアクセサリーを選んでいる最中に眠ってしまったのだ。


「ええ、もうすぐ社交界デビューですから、その準備を」


 膝に乗せた髪飾りをそっと手に取って、頬を緩める。エリアスの瞳を思わせる宝石が星影に煌めいていて美しかった。


「そうか、もうそんな時期なんだね……。あいつが毒殺されかける日も近いってわけだ」


 エリアスの話題になるとどうしても言葉に棘が出るのは相変わらずだ。天使様は未だに彼を許していないらしい。


 毒殺、という言葉を聞いて思わず私は髪飾りを撫でる手を止めてしまう。不安だ。以前の記憶がある以上、前と同じ悲劇は引き起こさせないにせよ、どうしても彼が三日三晩眠り続けたときのことを思い出しては身が竦んでしまう。


「コレットのことだから、あいつの毒殺を防ぐんだろう? あいつを助ける算段は付いているの?」


「毒殺を防ぐこと自体は簡単なんです。夜会が始まって一番初めに飲んだワインに毒が仕込まれていたので、それを飲ませないようにすればいいだけ――」


 そう言いかけてふと、違和感を覚えた。あの日、夜会は立食形式だったから席の指定は無かったはずだ。エリアスは、使用人が運んできたいくつかのワインの中から一つを取って飲んだだけ。


 ワインの品種に違いはなく、グラスも同じものだった。使用人がエリアスにあるワイングラスを取るように誘導した覚えもない。彼の利き手や癖などを把握して、彼がどの位置からグラスを取る可能性が高いか、と考えることはある程度可能だろうが、あまりにも不確実だ。その使用人が運んできたワインは私も口にしたので、全てのグラスに毒が入っていたとも思えない。

 

「エリアスを毒殺しようとした犯人は、どうやって彼に毒入りのグラスを特定させたんでしょうか……」

 

 問答無用でエリアスに一杯目の飲物を飲ませなければ、彼の毒殺は防げるはずなのだが、妙にひっかるものがある。このもやもやとした疑問をこのまま流してしまってはいけないような気がしていた。

 

「僕が力になれたら話は早いんだろうけどね……。生憎、君に見惚れていたから他のことは全然覚えていないんだ、あの夜のこと」


 天使様は肩を竦めて小さく笑う。油断をすればすぐに甘い言葉を挟んでくる天使様というのもなかなかだ。


「その一杯目の飲物に入っていたことは確実なの?」


「それは、恐らくそうかと。状況証拠的な話になってしまうのですが、彼は一杯目のワインを飲んですぐに気分を悪くしましたから……」


 エリアスが気分を崩した際に、僅かにグラスに残っていたワインも零れてしまい、毒物の検出は出来なかったのだ。夜会の参加者を狙った無差別な殺人を疑った主催者によって、会場中のワインはすぐに回収され、薬師達が調べ上げたが、ワインからの毒物の検出は無かったという。


「じゃあ、確実に一杯目のワインに毒が入っていた、とは言い切れないわけだ?」


「……そうなりますね」


 物的証拠がないだけに、天使様の仰ることは否定できない。それに、事件のことをほとんど知らない彼の視点は、殆ど当事者と言ってもいい私と違って新鮮で広いものだった。


「夜会の前には何か飲んだり食べたりしていないの?」


「特にはしていないかと。一応、私たちもその可能性は考えたんです。でも、夜会の前なんて準備で忙しくて、お茶も飲めないほどでしたから」


 服装を整えたり、挨拶すべき家の確認をしたり、神官と共に社交界デビュー前の簡単な祈祷をしたり、と大忙しだったのだ。私もお茶菓子一つ摘まむ暇がなかった。


「それらのことを総合して考えても、やはり一杯目のワインに入っていたと考えるのが妥当だと――」


 そこまで考えてふと、気づいてしまう。いや、本当はひとつだけ、夜会の直前に口にしている物があった。


 だが、これを天使様の前で言っていいのか迷いが生じてしまう。


「どうかした?」


 言葉に詰まった私を、天使様の端整な笑みが見守ってくれる。私は軽く視線を彷徨わせたのち、ある可能性を口にした。


「天使様、一つだけ、エリアスが口にしていたものがあるのですが――――」


 私は、たった今気づいたことを恐る恐る天使様にお話した。星鏡の天使である彼にこんなことを告げるなんて不敬にもほどがあるが、言わずにはいられなかった。





「……なるほどね。あくまでも事件を知らない僕の意見でしかないけど……話を聞く限りでは、その可能性の方が高いんじゃないかな」


 たった今気づいたことを天使様に打ち明ければ、彼は私を咎めることもなく静かに話を聞いて下さった。いざ考えを口にしてみれば、なんだか落ち着かない気持ちになる。


 僕があいつを殺すなら、コレットが言った方法でやるな、と天使様は笑った。私も同じ思いだ。この方が遥かに確実に特定の個人を狙うことが出来る。


 天使様と目を合わせたまま、私はぎゅっと手を握りしめた。


 この可能性に、賭けてみよう。私が気付いた方法で毒が盛られているのなら、もしかすると犯人も見つけることが出来るかもしれない。


 もしも違ったら、一杯目のワインを飲ませないようにすればいいだけの話だ。何なら私が毒見をしてもいい。


「天使様……彼の毒殺を防ぐのを手伝って頂けますか?」


「あいつの命を助けることになるのは癪だけど……他ならぬコレットの頼みだからね、うん、いいよ」


「ありがとうございます、天使様」


 私はエリアスから貰った髪飾りをそっと握りしめ、目前に迫った夜会に向けての気合を入れなおした。絶対に、エリアスを傷つけさせたりなんかしない。今度こそ、彼には素敵な社交界デビューの思い出を作ってほしい。


 そのためならば、私は何だってしよう。一人決意を固めながら、私はそっとエリアスから貰った髪飾りに口付けたのだった。

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