第2話 家族

 毎日のことながらウンザリする通勤ラッシュの山手線を新宿駅で下車し、理恵は駅から徒歩10分ほどの所にあるオフィスビルに入る。

 エレベーターで7階まで上がり、すぐ目の前のドアを開ければ勤務先である投資顧問会社のオフィスである。

 自分のデスクにバッグをやや乱雑に置いて大きく溜め息を吐いた理恵に、隣の席から声が掛けられた。

「おはよ~。どうしたの朝から不機嫌そうな顔して。痴漢にでもあった?」

 早速声を掛けてきたのは同僚であり理恵にとって先輩兼指導員でもある宮崎可奈みやざき かなだ。

 

 可奈は人好きのするくりくりとよく動く目で揶揄からかうように聞いてくる。

 小動物のような表情と愛嬌のある仕草とは裏腹に、物怖じせずに誰にでも話しかけることができる豪胆さを併せ持った人物だ。

 理恵よりも2つほど年上で新人の頃から色々と指導をしてくれている、理恵にとって頭の上がらない相手でもある。

 因みに既婚者で旦那さんは別業種で研究職をしているらしい。

 

「あ、お、おはようございます。そんなに不機嫌な顔してます? ごめんなさい」

 自覚が無かっただけに慌てて理恵は頭を下げる。

「ん~、いつも理恵ちゃんは真面目な顔してるから分かりづらいけどね。なんか雰囲気とかがちょっとピリピリしてる、みたいな? どしたん? ホントに痴漢?」

 先輩や上司であっても男性が訊けばセクハラ認定される事柄だが、同性となればその辺はあまり遠慮がない。

 とはいえ、普通ならそこまであからさまに聞くことは無いだろうが、可奈と理恵は仕事帰りに一緒に食事をしたり飲みに行ったりする程度は親しくしていることもあって容赦なく踏み込んでくる。

 

 理恵は苦笑いをするが、別に隠さなければならないというほどのことでもない。

「い、いえ、痴漢はされてないですけど、その、昨夜親から電話があって、それでちょっと喧嘩してしまって」

 言葉を濁しつつ告げた内容に、可奈も何ともいえない表情をする。

「ああ~、理恵ちゃん親とあんまり仲良くないんだっけ。まぁ、気持ちはわかる、っていうか想像はできるけど、とりあえず仕事は気持ちを切り替えてね。後で愚痴くらいは聞いてあげるから」

「はい。すみません。もう大丈夫です」

 もっともな指摘に頭を下げてから、理恵は椅子に掛けてPCを起動させた。

 起動画面を見ている理恵の脳裏に昨夜のやりとりが浮かぶ。

 

 

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 折角の仕事終わりのくつろぎの時間を邪魔するように着信を告げるスマートフォンの画面を確認した理恵は、表示された発信者名を見て顔を顰める。

 とはいえ、無視をしたところでいずれまだ電話を掛けてくるのが分かっているので気が進まないながらも通話ボタンを押す。

「もしもし」

『もしもし、理恵? まったく、こちらから連絡しないと電話一本掛けてこないんだから!』

 

 繋がった途端、ヒステリックに荒げる声にウンザリしながら、できるだけ感情を押し殺して応対する。

「仕事が忙しいんだから仕方ないでしょ。それで、何か用?」

『アンタはいっつも仕事が忙しい、仕事が忙しいばっかり言って、うちに帰っても来ないんだから!』

「用がないんだったら切るわよ。明日も仕事なんだから」

 いつものようにグチグチと並び立てられる言葉を遮って理恵は言う。

 明日も仕事なのは本当の事だし、放っておけば延々と繰り出してくる母親の愚痴をいちいち聞いていられるほど理恵は心が広くはない。

 

『……まぁ良いわ。それよりも今度はいつ帰ってくるの? ゴールデンウィークも帰ってこなかったし、お盆休みくらいはあるんでしょ?」

「先のことはまだ分からないわ。でも、こっちで色々とやることがあるから多分帰れないわね」

 母親の言う内容も予想出来たもの。理恵はいつものように気のない返事をする。

『またそんなことっ! いつもそんなことを言って何年も帰ってきていないじゃない! ……それで、どうなのそっちの生活は? アンタもいい歳なんだからそろそろ結婚も考えなさい。アンタと中学の頃に同級生だった、斎藤さんのところの娘さんなんて、秋には2人目が産まれるって聞いたわよ』

 ある意味ごく普通の言葉。

 おそらくは多くの親子の間で交わされるであろう内容だったが、それを理恵は許容することはできなかった。

 

「私は結婚なんてするつもりは無いわよ。孫の顔が見たかったら紗理奈にでも言ったら?」

 努めて冷静に言ったつもりだったが、その言葉は多くの棘が含まれたものになる。

『何馬鹿な事を言ってるのよ! 女が結婚しないでどうするの! 結婚して子供を産むのが女の幸せなんだから、いつまでも仕事にかまけてないで…』

「いい加減にして! 結婚して子供を産むのが女の幸せ? エリートに育った娘の産んだ子供を自慢したいだけでしょ! 生憎、私には家庭の幸せなんて感じた事は一度もないし、家族の絆なんてものも感じた事も無いわ! 自分のコンプレックスを人に押しつけるのは止めて!! 私は母さんの虚栄心を満足させるための道具じゃないわよ!!」


『親に向かって、なんて口の利き方するの! アンタが今の会社で働けるのだって私が…』

「友達を作ることすら許さずに勉強を強制してただけじゃない! 大学だってほとんど奨学金と自分でアルバイトして卒業したんだから、恩着せがましいことを言わないでよ! 仕送りだって全部返したし、家族ごっこしたきゃ、散々可愛がってた紗理奈としたら? もっとも、あの子が母さんの言うことを聞くとは思えないけどね。自分達が甘やかしたせいで我が儘放題に育ったんだから自業自得でしょ?!」

 母親の身勝手な主張に理恵の感情が爆発する。

 

 

 理恵が幼稚園に入ってすぐに、母親による”英才教育”という名の虐待が始まった。

 まだ年少組が始まったばかりなのにひらがな・カタカナの練習から始まり、小学一年生向けの計算問題などを毎日やらされた。

 それだけならば少々早いものの、教育熱心で済まされるだろうが、遊ぶこともテレビを見ることも許されずにひたすら勉強を強制するのは今の時代ならば間違いなく虐待と見なされるだろう。

 

 母親がそれほど理恵に勉強を強要したのには勿論理由がある。

 母親は家の事情や自身が勉強嫌いだったことで、地元の偏差値の低い普通高校に進学。卒業後は進学することも出来ずに地元の工務店に就職した。しかし親戚や周囲の人から低学歴なことで見下されていると感じていたらしい。

 実際、あまり良くない高校だったために就職にも一苦労だった。時代的にもバブル経済が弾け、深刻な不況に見舞われていた頃だったので、その大変さは大卒とは比較にならなかったのだろう。

 

 幸い、就職してさほども経たないうちに、小規模ながらも堅実な業態の会社で役職に就いていた父と知り合い、結婚。2年後に理恵が生まれた。

 客観的に見て、それほど悪い環境とは思えないし、理恵が会ったことのある親戚も別に母を見下すような態度を取ることは一度もなかった。

 だから、理恵は母親の感じたものはただの被害妄想にすぎないと思っている。

 

 だが、それが改善することは無かった。

 小学校に進学すると毎日のように学習塾に通わされ、寝ている時間と食事、入浴、学校以外の時間は全て勉強に充てられた。

 同級生に遊びに誘われても一度として行くことは許されなかったのだ。

 誕生日やクリスマスには他の子供達と同様にプレゼントを貰えた。ただし、それは全て参考書や問題集という徹底ぶりだ。

 子供ながらに何度も反発したがその都度、体罰や食事を抜かれ、従うことを強いられた。

 

 それでも学校の休憩時間などに同級生とおしゃべりをしたり、その子達が内緒で持ち込んでいたマンガなどを読ませて貰うことで、ささやかな娯楽を楽しむことができ、何とか精神の均衡を保っていたのだろうと思う。

 だが、それも長くは続かなかった。

 小学4年生の時、同級生の女の子に読み終わって不要になった少女マンガの雑誌を貰い受けた。

 その年頃の女の子らしい、読み切り短編が集められたその雑誌を、理恵は母親に見つからないように机の引き出しの一番下に隠し、わずかな空き時間に楽しんでいた。

 

 ある日、学校から帰ると、大切に仕舞ってあったその雑誌がビリビリに破かれ床に散乱している光景と、表情を消して理恵を見る母親の姿がリビングにあった。

 隠しておいた雑誌が見つかった事を悟った理恵は、何とか言い訳しようと口を開きかけ、風切り音と顔に走った痛みで口を噤んだ。

 痺れを伴った痛みに顔を押さえた理恵に対し、母親はさらに手に持った、多分、布団叩きであろうものを振り下ろした。

 顔を庇い、床に蹲る理恵は母親に無言で執拗に叩かれて、泣くこともできなかった。

「ごめんなさい! ごめんなさい!!」

 叫ぶように謝る理恵に表情の消えた顔を向けながら、ひたすら手を振り下ろしていた母親が何か別の生き物のように思えてひたすら恐ろしかった。

 

 ひとしきり理恵を叩いて満足したのか、母親は散らばった雑誌の切れ端を片付けるように命じ、家事に戻っていった。

 その日の夜、身体のあちこちに痣を作り、顔も腫れた理恵を見ても父は何も言わなかった。

 それから母親は学校の休憩時間にすらも問題集を解くことを課した。

 理恵は家族に対して全てを諦めた。

 折角理恵に雑誌をくれた同級生には、雑誌が母親に見つかって破られてしまったことを話して謝った。

 同級生は「どうせ読み終わったものだから」と許してくれて、「別のやつを持ってきてあげようか?」とも言ってくれたのだが、断った。

 どうせ今後は理恵の持ち物を全て母親がチェックするだろうし、同級生に迷惑が掛かったら申し訳ないからだ。

 

 理恵はただ母親に言われるがままにひたすら勉強に時間を費やした。

 中学に入学すると、今度は自分から意欲的に勉強に励んだ。

 そして、地域でも一番偏差値の高い進学校に入学し、そこでもひたすら勉強した。

 その甲斐あって、東京の国立大学に現役合格することが出来た。

 理恵は家族に対して諦めても自分の人生を諦めたわけではなかった。

 母親が高学歴を望むなら、それを利用して文句を言わせない環境を作り、高校卒業と共に家を出るつもりだったのだ。

 小学校高学年の段階でそのような事を考えざるをえないほど追い詰められていたとも言える。

 

 幸運な事に高校2年生の時の担任教諭が親身になって様々な相談に乗ってくれ、奨学金も給付型と貸与型の両方を組み合わせて受けられることになった。

 結局、理恵が家を離れることを渋っていた母親も、一流校と呼べる国立大学に合格したことと、前述の教諭の自尊心を擽るお世辞混じりの説得により理恵の上京を認めた。

 それは妹の存在も影響していたのだろうと思う。

 

 理恵には4歳年下の妹がいる。

 紗理奈と名付けられたその妹は、理恵とは異なり勉強を母親から強要されることは無かった。

 紗理奈が幼稚園に入園する頃、つまり理恵が勉強を強要されるようになった歳には、既に理恵が勉強で一定の成果を挙げていて、母親の教育熱は全て理恵に注がれていたからだ。

 さらに、紗理奈は天真爛漫で人懐っこく、よく笑う反面、気に入らないことがあると大声で泣き叫んで癇癪を起こすという面があり、大人しかった理恵と比べて勉強を強要しづらかったという部分があったのだろう。

 

 結果として紗理奈には母親は優しく接して我が儘も許した。

 父親も下手に口出しすると夫婦喧嘩になる理恵ではなく、紗理奈の方ばかりを可愛がるようになる。

 代償行為とでもいうのだろうか、理恵に与えられなかったものは全て紗理奈に与えられた。

 玩具も、可愛らしい服も、遊ぶ時間も、友達も。

 当然の帰結として紗理奈は自身と、勉強以外は何一つ許されない姉を比べるようになる。

 つまりは家族の中で、姉よりも自分が上位にいると考えるようになっていた。

 

 ことある毎に理恵に自分が買って貰った物や遊びに行った時に買った品を見せびらかし、友人と楽しそうに写った写真を見せた。

 理恵はというと、そんな紗理奈を見ても大した反応は見せなかった。

 その頃には自分の目標を定めていて、家族に対して何も期待していなかったからだ。

 それが紗理奈をさらに意固地にしていたのかもしれないが、理恵に対してマウントを取るような言動はエスカレートしていき、理恵と顔を合わせるとヒステリックに喚き散らすことが多くなった。

 理恵は理恵でそんな紗理奈を完全に無視していて、姉妹仲は最悪だったと言える。

 

 大学に進学して家を出た理恵は大学生活でようやく得られた自由を満喫した。

 生来の生真面目さで、羽目を外すことこそなかったものの、慣れない人付き合いを出来る限り積極的に行って、遅ればせながら友人も少数だがつくることが出来た。

 勉強以外の事に疎い理恵に、友人は『天然だ』とからかいながらも化粧やファッション、流行やポップカルチャーを教えてくれた。

 親からの仕送りには出来る限り手をつけず、奨学金とアルバイトで稼いだお金で生活しながら、変わらずに勉学に励んだおかげで外資系の投資顧問会社に就職することもできた。

 リーマンショック後の就職氷河期が終わり、就活が売り手市場に変わっていたのも良かったのだろう。

 

 今では仕事も順調で、友人もいるし恋人と呼べる相手もいる。

 親が送ってきた仕送りは耳を揃えて全て返した。

 貸与型の奨学金の返済はまだまだ続くが、それも負担はそれほどでもない。

 理恵は今の生活を手放す気など全くなかった。

 両親に対しては負い目も恩義も感じていない。ただ、自分の努力の結果として勝ち取ったものだと理解していた。

 だからこそ、大学を卒業してから今までの5年間で実家に帰ったのは2回だけ。それも高校の時の同級生の結婚式と、恩師である高校教諭の急死で葬儀に出席するためだった。

 紗理奈からは、時折嫌みったらしい何かの自慢か、それなりの収入を得ている理恵にお金を無心するために電話があるくらいだ。会ったのは以前住んでいたアパートにいきなり訪ねて来た1度だけ。

 母親の話では、大学受験に失敗して就職したものの続かず、今は東京でフリーターのようなものをしているらしい。

 

 

 感情的に怒鳴った後、理恵は大きく息を吐いて気を落ち着ける。

 冷静に話すつもりだったのに、と反省する。

「とにかく、私のことは放っておいて。私は母さんや父さんにされたことを赦すつもりはないし、家族だなんて思ったこともないわ。母さんの見栄のために利用されるのも真っ平よ。こっちはこっちで勝手にやるから、母さん達もそうしたら? じゃあね」

『あ、ちょっと、理恵、待ち…』

 これ以上会話するのが苦痛でしかなかった理恵は、一方的に言い放ち、母親の返事を聞かずに通話を切る。

 かけ直してくるかと思ったが、それきり電話が鳴ることはなく、それでも乱れた感情で眠れそうになかった理恵は普段は自宅であまり飲まないお酒、チューハイを一缶だけ飲んでようやく眠りについた。

 

 

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 トゥルルルル。

 オフィスに響いた電話の音で我に返った理恵は、慌ててバッグから手帳を取り出し、その日の業務を開始した。

 昨夜のことを思い出すと未だに感情は乱れるが、感情的になったことは反省していても母に言った言葉は後悔していない。

 あれほど直接的な表現で想いを告げたのは初めてではあったけれど、いつかは言おうと思っていたことでもある。

 ある意味では清清していたとも言えるかもしれない。

 そうして今日も喧噪に包まれ始めたオフィスで仕事をこなしていく。

 

 

「へぇ~、とうとう決別したのかぁ。まぁ、親子だからって絶対に仲良くしなきゃならない理由はないから、良いんじゃない?」

 その日の仕事が終わり、帰ろうとした理恵を半ば強引に可奈が呼び止めて居酒屋に連行した。

 朝に言っていた「愚痴を聞く」というのを実行しようというのだ。

 可奈はこうして理恵を時折飲みに誘う。大抵は仕事やプライベートで嫌なことがあったときや、何かで緊張しているときなど、理恵の精神状態が不安定になったときにこうして連れ出してくれる。誘い方は強引ではあるのだが、本当に嫌なことはしないので、理恵は素直に甘えることにしている。

 時々は可奈の愚痴を聞かされることもあるが、ほとんどは理恵が話を聞いて貰ったり、元気づけて貰ったりしているのだ。

 

 こうして可奈と飲むのは久しぶりだ。

 生ビールで乾杯した後は各々で好きなお酒を注文し、適当につまみを食べながら昨夜のことを話すと可奈はそう笑った。

「親の愛情と子の愛情は等価じゃないし、親子の関係なんて他人がとやかく言う事じゃないしね。ただ、私としてはそんな母親のおかげで、こ~んな面白可愛い後輩が会社に来てくれたんだから感謝してるけどねぇ」

「面白可愛いって何ですか」

 ジト目で可奈を睨みながらも、理恵の顔に朱が混ざる。

 こういうところがこの先輩はずるいと理恵は思う。

 そんなことを言われたらこれ以上愚痴を続ける事が出来ないではないか。

 

 それからは日常の雑談に花が咲く。

「私はやっぱり結婚は考えられないですね。どんなものかも想像できないというか」

「う~ん、それは環境が大きいかもね。でも、結婚って結構良いものよ? 少なくとも寂しくはないし、もちろん旦那に腹を立てることもあるけど、お互いを尊重する気持ちを忘れなければ致命的な結果にはならないしね」

 可奈の言葉で理恵は自分が恋人と結婚して一緒に暮らす事を想像してみる。けれど、それはどこか現実味の無い虚ろなものに思えた。

 

「まぁ、焦ってするようなものじゃないし、結婚したいと本当に思うことが出来てから考えても良いんじゃないかしら。それに結婚って形にとらわれなくても一緒に暮らす事も出来るだろうし」

「そうですね。今は仕事も楽しいし、時期が来たら考えることにします」

 可奈の言葉に理恵はそう応じた。

 本心から出た言葉ではあるけれど、今付き合っている恋人は結婚願望があるらしく、直接的にではないが結婚を仄めかされているから、近いうちに結論を出すことになってしまうかもしれない。

 理恵が思考の海に沈んでしまいそうになった気配を感じて、可奈が別の、会社関係の明るい話題を振ることで雰囲気を戻した。

 それからしばらく、女同士の他愛のない話に興じ、大いに盛り上がった。

 

 

 カツッカツッカツッ。

 ヒールの音を響かせながら理恵はマンションへの道を歩く。

 明日が休みとはいえ、遅くまで可奈と盛り上がってしまい、既に深夜といえる時間に差し掛かっている。

 とはいえ、終電まではまだ時間があるし、駅からマンションまでの道は明るく、途中にはコンビニも2軒ほどあり人通りも多少はあるので、女の一人歩きでも不安は少ない。

 ほろ酔いで気分も上向いており、理恵の足取りは軽かった。

 

 ヴ~ン、ヴ~ン……。

 マナーモードにしてあったスマートフォンが震えているのに気づき、バッグから取り出す。

「もう、誰よこんな時間に…あっ」

 ”着信 紗理奈”

 画面に映し出された名前を見て良い気分が台無しになる。

(2日連続で嫌な相手からの電話があるなんて、本当に間が悪い)

 内心で文句を言いながらも通話ボタンを押したのは、昨日と同じ理由だ。出なければ出ないでしつこくされかねない。

 

「……もしもし」

『………………』

「? もしもし? 紗理奈?」

『…………クスクスクス……お・ね・え・ちゃ・ん』

 無言のスマートフォンに何か薄ら寒いものを感じ、再度呼びかけた理恵の耳に、微かな笑い声と1音1音区切った女の声が届く。

 ただ、その声はどこか遠くから響いているかのように、酷く聞き取りづらいものだった。

 

「紗理奈? よく聞こえないんだけど。ま、まぁいいわ。何のよう?」

『…うふふふ…ねぇ、(ギギギィ)おねえちゃ(ギギギギ)ん、(ギィィィ)』

 途切れ途切れの声の合間に、何か金属でガラスを引っ掻いたような音が聞こえる。

「な、何よ。ちょっと、変な音が聞こえるんだけど、どこにいるの?」

『わたし(ギギギィ)いま、ねぇ(ギィィィ)…に、いるの(キィィィ!)』

 不快な音に理恵が思わず耳からスマートフォンを離す。

「一体何なの?! 用がないなら切るわよ!」

 嘲るような紗理奈の声音と耳に響く異音に声を荒げる理恵。

 すると、スピーカーから聞こえてきていた異音が不意に途切れる。

 

『ねぇ、おねえちゃん、手紙、見てくれた?』

 

 

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