白い手紙

月夜乃 古狸

第1話 序章

 ザッ、ザッ、ザッ……。

「ハァ、ハァ、んっ」

 ズズッ、ドサッ!

 ザッ、ザッ、ザッ……。

「ハァ、ハァ、ふぅ~。こ、これで、良いだろ」


 深夜、観光地や民家からも離れた山間の県道をさらに外れた未舗装の山道を登り、車を置いてからも頼りない懐中電灯の光で足元を照らしながら、男が大きなリュックを背負って山を登る。

 ごく普通のジーンズにスニーカー、チェックのシャツを着た男。山道を歩くような格好ではないが、そもそもこんな夜中に来るような場所でもない。

 男は多少なりとも人の手が入った登山道からも外れ、数百メートルほど離れた場所にあった木々の間の平らな場所着くと、リュックを降ろし、手にしていたシャベルで穴を掘り始める。

 地中に張る木の根に苦労しながらも2時間近く掛けて直径・深さ共に1メートルほどの穴が掘りあがり、脇に置いたリュックを引きずって穴に落とす。

 そして今度は穴を埋めた。

 夜の山は平地よりもずっと気温が低く、厚手のジャンパーでも羽織らなければ寒いはずなのだが、男の額は既に汗でびっしょりと濡れている。


「お、お前が悪いんだ。あれだけ俺が尽くしてきたってのに、会社をクビになった途端、俺を捨てやがって。それだけじゃない、俺以外に何人も男をくわえ込んでやがった! だ、だから俺は……」

 ブツブツと誰に聞かせるでもなく呟きながら埋めたばかりの土を足で踏み固める。

 徐々に感情が高ぶってきたのか、終いには地団駄を踏む子供のように乱暴に足を踏み降ろす。その表情は誰か見ていた者がいたならば悲鳴を上げるような狂気じみたものだった。

 ひとしきり癇癪が収まると、男はひとつ大きく息を吐くと踏み固まった足元に唾を吐き捨てて男は来た道を引き返して降りていった。

 登山道に戻ったころには男から表情は抜け落ち、夢遊病患者のようなうつろな目とフラフラとした怪しい足取りとなっていた。

 

 ザワザワザワ。

 風が木々を撫で音を立てる。

 男が立ち去った後、地面を掘り返したのを窺わせる散らばった土と、踏み荒らされ落ち葉が混ざった小さな土饅頭のような地面を、星明かりさえ届かない闇が覆っていた。



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 午後7時過ぎ。

 5月も半ばを過ぎ、日が長くなってきたとはいえさすがに薄暗くなっている時間である。

 品川区南大井のマンションに帰ってきた白川理恵しらかわ りえはオートロックの入口を通り抜け、ポストに入っていた数枚のチラシといくつかの封書を取り出して1階で停まっていたエレベーターに乗り込んだ。

「……また来てる」

 エレベーターの軽い浮遊感に壁に肩をぶつけながら、自分宛の郵便物を確認していた理恵は、そう呟いて溜息を漏らす。

 

 その手にはどこかの店から送られてきたダイレクトメールの封書が2通と保険会社からのもの、それともうひとつ。いわゆる洋型封筒と呼ばれる、結婚式や案内状などに使われるような幅広の真っ白な封筒があった。

 差出人はおろか宛先の名前すら書かれていない、だだの白い封筒。

 中身は見るまでもなく予想できる。おそらくはいつもと同じ物だろう。

 

 エレベーターは途中で停まることもなく、理恵の部屋のある7階に到着した。

 玄関扉にカードタイプの鍵を差し込み、入る。

 出迎えてくれる人がいるわけでもない、ひとり暮らしの部屋は少々寂しくもあるが、それでもやはり仕事を終えて帰り着くとホッと気が楽になる。

 もっとも、最近は帰ってきた途端に気が滅入ることも多いのだが。

 

 ダイニングの椅子に仕事用のバッグを置き、窓を開けて昼間のうちに部屋に籠もった熱気を外に追い出す。

 そして上着を脱いでハンガーに掛けてから、キャビネットの引き出しからペーパーナイフを取り出して封書を開封した。

 保険会社のものは定期的に送られてくる契約内容の通知と他の保険の案内。DMは以前にどこだかで会員証をつくったカジュアルブランドショップからのもので、特に必要なものもないので宛名の部分を切り取ってそれ以外は捨てる。

 

 最後に残った白い封書、見る度に何とも言えない嫌な感情がわき出してくるソレを意を決して開封して中身を取り出した。

(やっぱり、いつもと同じ、か)

 何も書かれていない封筒から出てきたのは4つに折りたたまれたA4のコピー用紙。そこには封筒と同じく、何一つ書かれてはいなかった。

 ただ、真っ白な紙が一枚だけ。

 封筒も中身も、真っ白。

 

 

 この封書がポストに入れられるようになったのは、ほんの一月ほど前の事だ。

 宛名が書かれていないことから、誰かが直接理恵の部屋のポストに投函しているのは間違いない。

 最初は中身を間違って入れたダイレクトメールかと思っていたのだが、その後もその手紙は理恵の部屋のポストに入れ続けられていた。封筒も中身もいつも同じ。3日と空けずにポストに届く封書に不気味なものを感じずにはいられない。

 

 他の部屋のポストにも入れられているのかと思い、マンションの他の部屋のポストを覗いて見ても、他に同じような封筒が入れられているのを確認する事は出来なかった。

 誰が、何のためにこの封筒を郵便受けに入れているのか、まったく意味がわからない。

 そして、こんなものを入れる周囲の人物に心当たりもなかった。

 

 当然、理恵はストーカーを疑い、近くの警察署に相談をしたのだが、意味不明な封書が届く以外に実害がなく、疑わしい人物がいるわけでもないので警察も何もできないとしか言われなかった。

 被害届を出すこともできず、対応した警察官の面倒くさそうな態度と言葉に不満を顔に出さないようにするのに苦労した。

 確かに実害は無いのだが、それでも気味が悪いことに変わりはないのだ。

 

 それでもいちいち中を見てしまうのは、内容に変化があったら、と思うと不安に駆られるからだ。

 とはいえ、一月も続けばそれなりに慣れてしまう。

 理恵はDMの封筒に印刷されていた宛名部分と一緒に白い手紙をシュレッダーに放り込んで、嫌な気分を溜め息と共に吐きだして気持ちを切り替えることにした。

 

 風呂のお湯張りスイッチを押し、準備が整うまでの間に手早くメイクを落とす。

 そうしていると、そろそろ暑くなり始めたことで会社から家まで帰る短い時間でも汗ばんでいた身体が、開けた窓からそよぐひんやりとした風にすっかり冷やされ肌寒く感じられた。

 バスタブにお湯が入ったことを知らせるブザーが鳴り、替えの下着とパジャマ代わりのTシャツ、ショートパンツを手に浴室へ向かう。

 手早く服を脱ぎ捨て、ラベンダーの香りの入浴剤を入れ、湯船に身を沈めた。

 

 理恵が2年ほど前に引っ越してきたこの賃貸マンションは単身者向けの1LDKだが、全体的に広めの造りで浴室もファミリー向けのマンション並に広い。

 その分相場よりも少々家賃が高いのだが、オートロックで各所に防犯カメラも備えられており、近所にはスーパーやコンビニもあり数十メートル先には派出所もある。若い女性が暮らすには快適な環境だ。

 実際にこのマンションの住人は大半が女性のようで、マンション内ですれ違ったりするのは20代後半から30代のキャリアウーマン風の人が多い。

 

 近隣のワンルームマンションと比較して数割は高めの家賃であっても安全と心理的な安心には代えられるものではないし、その金額がそれほど負担にならない程度の給料を今の会社で得られている。

 以前のアパートは大学時代から住んでいたのだが少々古く、入社4年でそれなりに昇給していたこともあって引っ越したのだ。

 貧乏学生の住んでいたアパートとの金額の差に躊躇したが思い切って良かったと今では思っている。

 

 充分に身体を温めた理恵はバスタブから出て、髪を、そして躰を洗っていく。

 160センチ台の身長と程良い肉付きで、会社の内外でそれなりに男性からの人気がある理恵だったが、そろそろ自分の肌に張りがなくなってきているのではないかと最近気にしている。

 社会人として見た目が重要なのは当然だが、やはり理恵も1人の女として自分の容姿に敏感にならざるを得ないのだ。

 

 入念に躰を磨き、さらにゆっくりと湯船に浸かってから浴室を出た理恵は、今度はキッチンに立ち夕食を作り始めた。

 理恵はできる限り自分で食事を作ることにしているからだ。

 以前に忙しさにかまけて外食が続き、肌荒れと体重増加に悩んだことが教訓になっている。

 美容も健康もまずは食事から、だ。

 野菜は多めに、肉や魚は少なめにと、気を使った甲斐あって今のところスタイルにも健康にも問題はなさそうだった。

 

 簡単ではあるが、栄養バランスを考えた食事を終え、ようやく人心地が付く。

 経済系の雑誌とミネラルウォーターのPETボトルを持ち、ソファーに腰掛けてからテレビを点ける。

 CSの情報番組から聞こえてくる音声を聞き流しながら雑誌を捲り気になる記事に目を通す。

 

 くつろぎの時間ではあるが、外資系投資顧問会社に勤める職業柄、様々な情報を頭に入れておかなければならないので、ある意味仕事の一環とも言える。

 無論誰でもが同じようにしているわけではないし、最低限必要な情報は朝のうちにチェックしているのだが、その生真面目さで上司の信頼を得、最近になって大口の顧客を任せてもらえるようになった理恵としては手を抜くことはできない。

 その意識からはすっかり『白い手紙』のことは消えていた。

 少々の気鬱はあったものの、その日もいつもと同じように終える、と理恵は思っていた。

 

 pipipipi…pipipipi……。

 時計の針が10時をまわった頃、突然、理恵のスマートフォンが着信を告げるまでは。

 

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