最終章

 俺はいた。

 ………どこにだろう?

 俺は、どこにいるのだろう?

 目が霞んで、よく見えない。

 俺は目をぬぐう。

 すると、次第に、周りの様子が見えてきた。

 夕焼けに赤く染まった校舎の白地が、俺の前に見えている。

 ああ、俺は、あそこにいるんだ。

 霊媒者育成学園中等部校舎裏。

 俺と、香恋が出会った大切な場所だ。

 そこに、俺は膝をついてうつ向いている。

 じゃあ、何故、俺はここにいるのだろう?

 ………………。

 俺は、先程のことを、思いだす。

 ああ、そうだった。


 俺は、負けたんだ。


 俺は目に付いた涙をぬぐう。

 そうだ。俺は負けたんだ。

 ナギの一撃と、渚の一撃。

 どちらも、お互いの体に入っていた。

 だが、渚の一撃―――右回し蹴りの方が、より早く、ナギに入っていたのだ。

 何年も間近で見てきた、彼女の最高の武器。

 それは高速で、一遍も狂いもなく、標的を粉砕する。

 夙川渚の十八番。

 それが、右回し蹴りだった。

 俺は、その蹴りに、勝つことができなかったのだ。

「………はは、は………」

 自然と、口から笑いが漏れてくる。

 馬鹿だ。

 馬鹿だ、俺。

 試合に負けて。それで、何も言わずに、逃げ出して来たんだ。……この、校舎裏に。

「………チクショウ、チクショウが………」

 涙が頬を伝い、地面に粒状の水たまりを作っていく。

 ああ、俺は、

 また、守れなかった。

 アイリ達を、守れなかった。

 絶対に守ると、そう決めたはずなのに。

「………うう……あぁぁぁ」

 バカ。

 バカバカバカバカバカ。

 俺のバカっ!

 俺は何一つ、大切な人を、場所を、守れないって言うのかよ!

「……クソ………」

 地面を殴りつける。

 所詮、俺は無力だったんだ。

 それなのに、俺は、

 試合の最後の瞬間、こう思ってしまった。

 もっと続け、と。

 俺は、

 霊道が、楽しくなってたんだ。


 もう偽善は言わない。

 俺は霊道が好きだ。

 それに気づかされるのに、二年間かかった。

 俺は、霊道が好きだったんだ。

 好きで、得意で、唯一の俺の特技で、守れなかったんだ。

 二年前も、今日も。

 ……………………………………。

 しんしんと雪の降る、体の芯まで冷えてしまいそうな恐ろしく寒い日。その日にここで出会った少女。

 あれから二年。停学開けに、坂の上で会い、俺にもう一度人とのつながりの楽しさを教えてくれた少女。

 香恋と、アイリ。

 二人とも、守れなかった。

 俺が、俺じゃダメだった……………。

 俺は、もう……………


「惟―――――――――――っ!」


 叫ぶ声が聞こえた。

 これは………誰だ?

 俺の知らない声だ。

「バカヤロ――――――――っ!」

 近づいてきた謎の影は、会うなり開口一番俺をバカ呼ばわりして、

「ふぐっ!」

 右回し蹴り。

 俺はそいつを見る。

 そいつは、

「………日向?」

 さっきまで戦っていたはずの相手、日向だった。

「馬鹿! みんな、心配してたんだっ! なのにアンタだけなに逃げてんのよっ!」

 俺に目をむき、胸ぐらをつかみながら、そう言った。

 渚は。

 そうだ。

 こいつは、夙川渚だ。

 日向を媒体として同調顕現した、渚だ。

 渚は日向の口で、話す。

「アンタはっ、何を、心配掛けてるのよっ!」

「………俺は、もう戻れないんだ。駄目だったんだ。もう。いいんだ。………もう………」

「バカっ! 大ボケッ!」

「はぐっ!」

 今度は俺の左頬を平手打ちする。

「アンタはどうしてそういつも一人で抱え込むのよっ! いつも一人で抱え込んで、一人で解決しようとしてっ!」

 日向の……いや、渚の目から涙がこぼれおちてくる。

 その涙は、覆いかぶさるようになっていた俺の顔へと、真っすぐ落ちる。

 その雫と、俺の涙が混ざり合ながら地面へと落ちる。

「惟………このアホが………っ!」

 渚は俺の至近距離へと顔を近づけ―――と言ってもその実は日向だが―――こう、言い放った。


「たまには、他人を頼れっ!」


 顔のすぐ近くで放たれた言葉が、俺の鼓膜をつんざく。

「二年前だってそうよ! あの時も一人で抱え込んで、一人で解決しようとしてっ! アンタは他人に頼らなかった!

 なんで、頼ってくれなかったのよ! アタシが、いたじゃない!」

「………頼れるわけ、ねぇじゃん。迷惑掛けるなんてできない……」

「迷惑くらい、掛けろっ!」

 渚は眼を見開く。

「迷惑くらい、掛けてくれたっていいじゃないのよ………」

 渚の俺をつかむ手の力が弱まり、胸ぐらから手を放す。

 そして、二人の間に、沈黙が訪れる。

 それを破るように、


「……………惟くん」


 もう一人の登場人物がやってきた。

「………アイリ」

 日向に同調顕現した渚の後ろに立つのは、霊研部長白百合アイリ―――なのか?

 なにか。なにかがまったく違う。

 これはアイリではない。直感的にわかる。

「惟、くん」

 アイリの体をした………誰か……。誰か!?

 なら、

 それは、一人しかいねぇ。

 あり得ない。

 そうでなくては、あり得ないんだ。

「………香恋」

 そう、俺の前に立っていたのは、

 香恋。

 アイリに同調顕現した、初雪香恋だった。

「……う、嘘だ……嘘だろ?」

 香恋は神霊でもなければ、霊になってから渚のように日向との絶大な信頼関係によって霊媒者―――アイリと結ばれているわけがない。

 ……わけがないのに、同調顕現している?

「……惟くん。嘘じゃないよ。……ただ、私とアイリの信頼関係が一時的に増大しただけ。霊が強く念じれば、霊媒者はそれにこたえてくれる。だから、私は借りてるの。アイリの体を」

 霊となってたった二週間で同調顕現。聞いたこともねぇ。でも、やりやがった。

「……何故、なんで……?」

「何故。それの答えは、分かってるでしょ? 貴方に、会うためよ。―――貴方の彼女、初雪香恋として」

 その言葉が、俺の体をてっぺんからつま先まで、駆けずり回る。

 ―――貴方の彼女、初雪香恋として―――

 と、言うことは。

「……お前、香恋なのか?」

「うん。……今は、もう彼女じゃないのかな? でも、私は―――」

 香恋は俺に、二年前と全く変わらない笑みを浮かべて、


「私は、貴方の記憶通りの、初雪香恋だよ」


 言い切った。

 ああ、そうか。

 記憶が、戻ったのか。

 安堵すると同時に、膨大な不安の茨にも襲われる。

 俺は、どうすればいいのか?

 この、香恋に。どう接すればいいのか?

 香恋が歩み寄ってくる。

「く………来る、な………」

「惟くん。おびえないで」

 香恋は、アイリの体で、俺顔に手を伸ばし、そっと、俺の頬をなでまわす。日向と俺の涙でくしゃくしゃになった、その顔を。

「………私は、私。ここにいるのよ。二年前のまま」

「二年前の、まま?」

「ええ。私は、貴方の大切な人。貴方は、私の大切な人。―――違う?」

「……あ、ああ」

 香恋は優しく、俺の頬から頭をなでる。

 それに包まれて、俺はようやく自分の気持ちが落ち着いてきた。

「私が記憶が戻ったのは、さっき。貴方が、私のことを好きって言ってくれた。私と会って初めて、その言葉を口にしてくれた。だから、私は目覚めた」

 諭すように、俺に語りかける。

「貴方は、私の、全て。だから、その気持ちは嬉しい。―――でも、ごめんね。

 私は、貴方ともう一度付き合うことはできない」

「…………ああ」

「貴方の言うとおり。私は霊で、貴方はニンゲン。一生、添い遂げることのできない存在。今は、アイリを通して貴方に触れている。貴方の温もりを、感じることができている。―――それで、十分」

「…………ああっ」

 再び俺の目尻から涙がこぼれるのを、俺の皮膚は感じる。

「泣かないで。泣かないで、惟くん。私はここにいるよ?」

「…………ああっ!」

「もう、貴方を寂しくさせたりしない。私は、ここにいるの」

「…………ああっ、勿論だ。だから、ずっといてくれよ! ずっと、俺と一緒にっ!」

「………ダメよ」

 香恋は言い切る。

「ダメ。私は永遠に貴方の隣にいることはできない。それは、もう帰られない事実」

「………わかってる。わかってるが………」

「それに、私の願いは、貴方と共に歩くことじゃない」

「………へ?」

 香恋は、自分の胸に手を当て、

「私の願いは、私だけが知っている。そのために、私は貴方と付き合えない」

「そ、その願いってなんだよ、香恋」

「………ふふっ。秘密よ」

 いたずらっぽく笑った。

「惟くん」

 香恋が、俺の体へ寄り添うように手を、身を、当ててくる。

「……でも、今は少しだけ、貴方に抱かれたい。そのぬくもりを、もう一度、味わいたい」

「…………」

 香恋は、俺の心臓に頭を当てる。俺は香恋―――もといアイリの背中に手を回し、その体を優しく抱きとめる。

 体は違うかもしれない。香恋であって香恋でないのかもしれない。

 でも、そのぬくもりは、確実に、香恋のものだった。

 恐らく、これが俺達の最後の抱擁。

 彼氏と彼女としての、最後。

「………ねぇ、惟くん」

「………なんだ?」

 香恋が俺の腕の中で、語りかけてくる。

「………キス、していい?」

「………ああ」

 俺達は唇を合わせる。

 彼女の唇を何度も何度も何度も、求める。

 時には這うように、時には愛おしく、求める。

 今までに何回もして来たキスを思い出すように、求める。

 ああ、

 これが、愛なんだ。

 俺が忘れていたもの。

 渚が言っていたもの。

 これが、愛だ。

 恋人どうしの愛。仲間同士の愛。

 時には頼り、時には頼られる。

 それが、愛。

 ………ああ、香恋よ。

 それを、俺に気付かせてくれてありがとう。

 俺は、もう一人じゃなくていいんだな。

 他人を、頼っても良いんだな。

 ……………。

 香恋。

 お前は、もうすぐ俺の彼女ではなくなる。

 だから、それまでは、

 このままで、いさせてくれ。


 俺と香恋は、ずっと、ずっと、


 日が暮れるまで、ずっと、


 唇を重ね合っていた。

 俺は、その日。


 彼女と、別れた。

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