チーズの要らないネズミ捕り

「うぅ、さむ……」


 早朝の冷気に向かって息を吐くと、白い靄に形を変えて薄明かりに溶けていった。


 無事に退院し、ガラクトを発つこと一週間。ザンデラ山を抜けて北へ北へと山路を進めば、葉先が染まる森に景色を変え、更に数日も経てば一気に紅葉になった。

 ガラクト北部に連なる山々が気候の境目なのだろう。九月ともなると、日中はそうでもないが朝晩にぐんと冷え込む。草木の露が夜の間に凍るのだ。


 夏場はベイと見張りを交代する頃には既に日の出の気配があったのだが、今は朝日が遠い。焚き火に薪をくべて暖を取りながら、周囲に気を張り巡らす。


 ガラクトでは三人とも、主に精神的疲労が溜まってしまったので、旅路を急ぎつつもしばらくはのんびり過ごそうと話し合った。最近はイコも火の扱いを覚えて、俺が料理を作っていると手伝ってくれる。ついでに味見もしていくが。

 俺が病院で意識が戻らない間、イコは食の摂り方がおかしかったとベイが言っていた。言葉にはできない違和感があると。そういえばアリカさんと飯を囲んだ時も、話などそっちのけで次々とパンを頬張っていたが、あれと似たような感じだったのだろうか。


 そういう話もあって、前よりも食事に気を使っている。美味いもの、温かくて腹の満ちるもの、そういった食べ物で少しでも多幸感を味わえればいいと思う。孤児院で料理を習っていてよかったと、改めてワイユの人たちに感謝した。


「…………?」


 ふと視線を感じた。

 森の方からだ。獣だろうか。


 風を送って手応えで判断しようとしたが、ここから距離があるようだ。一匹、あるいは一人のようだが、視線を送ってくるだけで敵意を感じられない。

 ベイを起こすべきか?


「いや……もういなくなったな」


 微弱な気配だった。夜行性の獣は身を隠すのが上手い、やはり狼か何かの類だったのだろう。二人が起きたら移動するのがいい。見張り役が偵察に来ていたのだとすると、ここに留まるのは得策ではない。狼は群れで狩りをする、社会的な動物なのだ。











 昼になり、俺たちはイコが走らせる車に揺られて山を下っていた。

 風が冷たいのにベイは窓を開けている。警戒しているようだ。


「イコ、スピード上げられるか」


 窓の外から視線を逸らさないままベイが言い放った。


「いいけど……ヤバいの?」

「何かがつけてきてる。距離が絶妙に離れてて正体が掴めえねえ」

「朝方に俺も感じたな。狼かと思ってた。違うのか?」


 浅黒い顔は、釈然として靄が晴れない様子だ。


「せめて姿だけでも見えりゃあいいんだが……まずは人里に降りよう。麓に“グロウレイク”って町がある。念のため物資も補給しよう」

「オッケー。キャンプも楽しかったけど、そろそろベッドで休みたいね。あと甘いもの食べたい」

「……財布と相談だな」


 ガヴェルという後ろ盾あしながおじさんを失った今、金銭的にも余裕がない。いずれどこかの町で銭を稼ぐ必要が出てくるだろう。その前にキース族の里への中継地点“ヴォドラフカ”に辿り着けられればいいのだが、追手の目を掻い潜ることも考えると、それなりに時間と金はかかりそうだ。






 “グロウレイク”という名の通り、近くに湖を抱く山麓の町は、観光客でにぎわっていた。宿も多い。登山客も訪れるらしく、町中の店で旅に必要なものを粗方揃えられた。治安も悪くないようだし、いい町だ。


「どうだ、気配は?」


 今夜の宿となる部屋の戸を閉め、小声でベイに問いかける。ベイは町に入ってからも始終、周囲をそれとなく警戒して回っていたのだ。

 ベイの眉が寄せられる。気配の主は依然として分からないままらしい。


「この人混みだからな。探るのが難しくなっちまった。だが獣じゃねえことは確かだ」

「根拠は?」

「獣は人里を避ける。里に降りてくるってのァ余程食いもんがねえ時だが、あの豊かな山でそれはまずねえ。町に随分近寄ってきてたから、人間だろう」

「そうか……」


 相手が追手となれば、町に入ったのは悪手だったか。人混みに紛れて襲われるとも限らない。

 俺とベイのやり取りを聞いていたイコが、短い髪を揺らした。


「接触してみるのはどうかな。こっちから会いに行って、どこの誰かハッキリさせれば?」

「相手の人数が少ねえならいいが。あっちが多勢なら詰みだ。が……わざとつけさせて誘い込むってのは、たしかにアリか?」

「そういうの、ナダができそうじゃない? ホラ、“エバンズの魔女”の弟子じゃん」


 二人の視線が俺に注がれた。

 その名前は聞きたくなかった。“エバンズの魔女”とは、戦闘や諸々のスキルを俺に仕込んだ老婆で、一応師匠ではあるが尊敬はしていない。


「嫌だな、気乗りしねえ」

「そんなこと言ってられないよ。ナダにかかってるんだ、がんばれ。この宿に連れて来ればいい。後はわたしがふんじばるから」

「そういうのは俺の仕事だ、アホ」

「えっ。ベイも縛りたい人だったの」

「……違ェ……」


 ベイの目が死んだ。せっかくイコを守ろうとしてくれたのに。

 がんばれ。


 そうと決まれば早速行動だ。きっといまだに俺たちを監視しているのだろうから、買い出しに行く風を装って宿を出た。






  □ □ □






 ネズミ捕獲作戦はあっけなく終わった。

 本当に一瞬で終わった。尾行してきた男の前から姿を消し、逆に背後に回って取り押さえるだけ。たしかに気乗りはしなかったが、こうもあっさり終わってしまうと張り合いがない。

 男の首根っこを捕まえて宿に戻ると、イコは驚きを通り越したと言わんばかりに呆れ顔を見せてきた。


「シャワー浴びる暇もなく戻ってきたね。ちょっと早すぎない? もう少し遊んでやればよかったじゃん」

「こいつがチョロすぎたんだよ。俺だって疲れてるんだ、さっさと終わらせ……ってベイ、ストップ、何するんだ! 俺が言うのはそういう終わらせ方じゃなくてだな!」


 連れ帰った男を見るなり、ベイが銃を構えた。

 いつものアサルトライフルではない。威力の高い拳銃──ええと、そうだ、“ヨンジューゴコーケー”とかイザベラが呼んでいたが、銃にはいろんな種類があるので名前が分からない。

 男は俺に後ろ手を掴まれたまま身を捩った。


「ちょ、パイセン、マグナムはさすがに洒落ンなんねえッス」

「ああそうそう、“マグナム”ね……じゃなくて、おっかねえからその銃下ろせ。下手すりゃ俺の頭も吹っ飛ぶから。知り合いか?」


 ベイが凄むとかなり怖いのでやめてほしい。そんな意味も込めて尋ねるのだが、放つ殺気をより濃くして唸るように答えた。


「後輩だ。ガラクト入りする時に、先発チームから外して本社に戻したはずだ。何故ここにいる、ラッド?」

「お久ッス、ベイズ先輩。そう睨まねえでくださいよぉ、チビるじゃないッスかぁ」


 一方このラッドとかいう男は飄々としたもので、両手をあげてはいるがヘラヘラ笑っている。ベイの顔の影が濃くなった。


「イコ。コイツ、縛り上げッちまえ」

「マジ? いいの? やっちゃうよ?」

「派手にやっていいぜ」

「ベイ!? ちょ……お前ッ」


 目を剥いた。嘘だろ、さっきは止めたのに!

 一応は常識人ポジションのベイが暴走すると、収拾がつかなくなる。


「ダメだイコ。ほらロープ仕舞って。なあベイ、そこまですることねえだろ? たしかにチャラそうな奴だけど……少なくとも敵意はない」

「ああ、少年は優しいなあ、オレ感動しちゃう」


 せっかく庇っているのに、どうして自分から台無しにするんだろう。こういうところがベイを苛立たせるのかもしれない。

 だがここまで殺気を抱くほどだろうか?


「そいつの正体を教えてやろうか。弾も金も女も大事にしねえ、最ッ──」


 ……長い。

 とても長い。

 ベイがこんな風に程度を示すことなど、これまでにあっただろうか、いやない。


「──ッ低のクズ野郎だ。クズと呼ぶことすらおこがましい」

「よしイコやっちまえ。先手必勝だ」

「少年くぅん!?」


 俺とベイとで抵抗するラッドを押さえつけ、イコがその体に器用にロープを施していく。途中で長さが足りないことが判明し、R18な縛り方ではなく、ただのぐるぐる巻きにした。運のいい奴だ。

 俺はナイフを、ベイは銃を、イコはレンチをそれぞれ構えて尋問に移った。憐れなラッドはげっそりと疲れ果てた様子で床の木目を数えている。


「それで? 弾も金も女も大事にしやがらねえ最低のクズラッド。俺たちをつけていたのはどうしてかな」

「ひでェな少年、さっきまでは優しかったのに……ガナンさんの指示ッスよ、この辺りに来るかどうか見張っとけっていう。でもベイズ先輩ってやたら鋭いじゃねえッスかー、気付かれないようになんて無理っしょ、案の定こうやって捕まるし。最悪」

「ガナン……指示役の男か。消息を絶ったと聞いていたが。裏切り者の一味だったというわけか?」

「おーいナダ。スイッチ入っちゃってるよ、スイッチ」


 イコに言われてハッと我に返った。かぶりを振って切り替えた。

 ラッドは口を尖らせて、上目遣いに見上げてきた。


「違ェよー、ガナン先輩はボスの指示で悪役ヒールに回ってンですよぉ。ボスのお考えはマジむずいから、オレにゃあ理解できねえけど、少なくともガナンさんはあんたら三人に会いたがってんだ。オレぁその案内役」

「なら普通に接触すればいいだろ」

「敵がいるとも限らなかったんで。ま、よかったよ、地獄を味わった甲斐があったってもんだ。ガナンさんとローズさんのいる別荘にご案内するッス」


 俺たちは顔を見合わせた。怪しさ極まりない話だ。

 ラッドの言うことは、つまり、ガヴェルの手の者が俺たちと接触を図っているということだ。意図の見えない老人から、そう簡単に逃げられはしないのだろうか。


「でもさ、わたしら今夜の宿を取っちゃったんだよ。宿代もったいないし、今日は休みたいから、明日まで時間ちょうだい」


 さすがイコは機転が利く。

 ラッドも渋々「まあそういうことなら……」と頷いた。


「じゃ、早く出て行って。さよなら」

「え……ほどいてくんねえの? オレ、このまま先輩たちのところまで戻るの? 山奥まで?」

「あはは、大変だねえ。がんばれがんばれー」


 ぐいぐいと押しやって、泣きそうな鼻先でピシャリとドアを閉めて追い出した。くるりと振り返ったイコは満悦顔だ。


「さてと。今度こそシャワー、シャワーっと」


 とてつもなく、ご機嫌な笑顔だ。俺は頭が痛いです。






  □ □ □






 車が重い。いつもより一人多いせいだ。

 ベイの隣にはラッドが座っている。というかシートに縛りつけられている。「超安全なシートベルトだよ」とイコが顔をキラキラさせていたが、山道を登る車体の揺れを全身で受け止めるから、気分は最悪だろう。現に目が虚ろである。


 もう一つ、重量増しの要因がある。武器が増えた。

 ガナンたちに会いに行くと結論が出た途端、氷点下の顔つきになったベイが買い物に出かけ、一時間くらいしてジュラルミンケースを二つ、担いで戻った。

 中身は言うまでもない。“それ”を一つずつ、俺とイコに手渡して、無表情のまま扱い方を説いてきた。いつもなら嬉々として受け取りそうなイコも、顔を強張らせて慎重にジャンパーのポケットに仕舞いこんだのだった。


 というわけで、俺はいつも携行しているナイフに加えて拳銃を忍ばせている。

 一応、元殺し屋の師匠ばばあに手ほどきを受けたことはある。だが向かなかったのだ。そのこともベイに散々言ったのだが、奴はただ


「持ってろ」


 と一言、顔色一つ変えずに押しつけてくるだけだった。

 怖かった。


 これまでイコに武器を触らせなかったベイが、拳銃などというものを持たせるとは、ガラクト以上に警戒が強い。今もベイは縛りつけられたラッドの隣で完全武装をキメている。一人で要塞を陥落させそうだ。


「あ……お嬢、そこ右ッス」

「ここ? 道がめっちゃ細いんだけど」

「そこを道なりに登って行けば、別荘があるンスよ……うっぷ」

「吐くなよ」


 イコの声が鋭くなった。怖い。車を汚した時のイコは何より怖いのだ。


 曲がりくねった道に数分も耐えると、視界が開けて一軒のログハウスが現れた。

 周囲の林や植え込みは手入れが行き届いている。外壁の丸太材は明るい色の木目で、赤く塗られた屋根とそこから伸びる煙突が、どこか温かみを感じさせる。まさに山奥の隠れ家といった感じだ。


 そのかわいらしい家を前にして、無表情で装備の状態をチェックする男が一人。縄に繋がれた男が一人と、その手綱を引く少女が一人。

 何だこの珍道中は。


「あー……俺、呼び鈴押してくるな」


 どうやらまともな見た目の人間は俺一人のようだ。

 白い髪に白い肌、それに異能力持ちなどという人間が一番まともって、おかしくないか。大丈夫か、俺たち。


「すいませーん。こんにちはー」

「ハイこんにち……」


 木のドアが開いて、男の顔が現れた。初めはにこやかだったのが、俺の背後に目を留めるなり表情が固まった。これだけの珍道中ならば、まあ、俺でもそうなる。

 男の目がすいっと戻って来て、再びにこやかな顔に戻った。あ、見なかったことにするつもりだな。


「君がナダ?」

「ああ」

「ガナンだ。初めまして。すまないね、このような形になってしまって……信用は出来ないだろうが、僕らは君たちの敵じゃない」

「あー、まあ、後ろの奴らは気にしないでくれ。上がっても?」

「もちろん。あ、ラッドの縄は解いてくれると嬉しいな。どうしようもない人間だが、一応は僕の部下なんだ」


 感極まったような声が背後で上がったが、いやラッド、この人お前をけなしたぞ。


 イコが残念そうに縄を外して、ベイが最後に家に入って戸を閉めた。

 俺はズボンのベルトに挟んだ拳銃と、服の裏に忍ばせてきたもう一つの“秘密兵器”をそっと確認した。


(さあガナン……あんたはどう出る?)

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