分かつ袂②

 ガヤラザ州とリ=ヤラカ州の境目に宿を取ったのは、オホロの森を調査するためだ。

 事件以降、ベイは一度も足を踏み入れていないという話だし、俺も直に見てみたかった。本当にベルゲニウムが関わっているのか、それともまったく別のものなのか。現象を起こしたのはなのか、なのか。


 オホロの森は、リ=ヤラカ州の最奥、つまりガラクト地方の東端に位置する。

 その近辺の町を拠点に据えて探索する予定だったが、急遽取りやめになった。ラヒムたちと別れた後で宿の人に話を聞くと「無理だ」と止められたのだ。


「奥の方はすげえジャングルでよ。人が住んでるって言っても知れてる。旅人を泊めるような場所もねえし、あんまりオススメはしないぜ」

「そうか……」

「もしかして“オホロ”を調べてえのか? やめとけェ、精霊さまを怒らせるぞ。これまでにも何人か、真相を暴いてやるとか何とかで送り出してきたけど、みィんな青っちょろくなって帰って来やがる」


 ベイに判断を仰ぐと、黙って首を振った。諦めたようだ。




 オホロを諦める代わりに、手前の地域を調べることにした。ガラクト地方がいくら広いといえど、これほど景色に違いが出るのも不思議な話だ。「大自然の驚異」と言われればそれまでだがそうもいかない。


 イコは「風のせいじゃない?」と考えを述べた。

 オホロがベルゲニウムの源泉だと仮定して、森から吹く風に乗って拡散し土地のありように影響を出しているというわけだ。


 しかしベイは、それなら水の方が可能性が高いと言った。ガラクトの風の強さを考えれば、ガラクト中部“ガヤラザ州”も十分潤っているはず。オホロの森から流れ出る川に運ばれ、ガヤラザに至る前にベルゲニウム量が少なくなってしまうのではないか……。






「限界です。きゃぱしてぃオーバーです」


 数日を調査に費やした後、とうとう俺は音を上げた。

 もう何も考えたくない。こめかみの奥が疼く。脳みそなんて使うものじゃない。

 ベッドに大の字になって寝転がり、思考を放棄して宿の晩めしのメニューに思いを馳せる。香辛料の効いた鶏肉が美味かった。あとで亭主にレシピを聞いてみよう。


「キース族の感覚も頼りにしてたってのに、肝心のお前がそれじゃあな……」


 ベイがじっとり目線だけで責めてくる。呆れたようなため息までつかれた。イコはまるで幼子をあやすように背中を撫でてきた。


「もう。元気出しなよ。ほら、ナダの大好きな森だよ? 自然いっぱいだよ?」

「お前ら俺を何だと思ってるわけ? たしかに自然いっぱいだけど、特に変な感じはなかったんだよなあ。やっぱりオホロの空気に直接触れてみないと何も分からないな」

「いつまでもここで道草食ってられねえ。明日にはハポネラの町に戻って、ザンデラ山を越えよう」


 “ハポネラ”とは、ラヒムたちと別れたガヤラザ北部の町の名前だ。発音が難しくて俺もイコもまだ言えない。何度か練習してみたが、“ラヒム”の正しい発音同様、上手くいかなかった。

 俺たちが調査のために滞在している場所からも北へ抜けられると思っていたが、実際は車が進入できないほどの密林が広がっており、一度戻らねばならないようだ。当初の予定通り“ザンデラ山”の山道を通ることになった。






  ■ ■ ■






 白い部屋。

 昔、俺たちキース族数人が囚われていた研究施設だ。


 俺は廊下に立っている。目の前には大きな窓があって、部屋の中の様子が窺えるようになっている。逆に部屋の内側からはただの鏡に見える──“マジックミラー”というものだと、随分後になって知った。

 だが今はその役割を果たしていないのか、窓の向こうから検査着を着た“おれ”が俺を見上げている。


「そこから出られないのか」


 ガラスに手をついて呼び掛けると、髪の色が抜けきっていない“おれ”は不安げに頷いた。


『出られん。まだ』

「どうすれば出られる?」

『見続けてれば、或いは。しかしまだ完全じゃないから、今は早い』


 幼い“おれ”は悲しそうにそう言って、まだ小さな手をガラスの上から俺の手に重ねてきた。


『すべて見るにはまだ早い。でも奴が近づいておる。奴にこれ以上近づくな。さなくばおれたち共々壊れてしまう』

「奴……って」


 声変わり前の、訴えるような悲痛な声が胸を締め付ける。“おれ”はもう泣きそうな顔をしていた。そんな目で懇願されては、揺らいでしまう。


「奴って誰のことだ? ベイか、それともイコか?」

『否いな、違うちがう。顔に傷のある浅黒のびとだ。もうあれに構うでない、あれは捨て置け、早々に核を呼び起こすのはよせ』


 奴とはジハルドのことか?

『核を呼び起こす』とはどういうことだろう。ジハルドと接触することで何らかの悪影響が出るということだろうか。


『まだ早い。今思い出してはいかん。あれと居れば核が目を覚ましてしまう。順番があるんだ、核へ至る手順を間違えてはいかんのだ』


 ……ジハルドが、俺の記憶の重大な部分に関係している?

 それとも、核に触れる何かを、呼び覚ましかねない何かを持っているのか?


 たしかにここ数日、脳みその嫌なところをカリカリと引っ掻かれているような感覚がする。もどかしいような、けれどもそんなところに触れないでほしいような、どうにも心地が悪い。

 小さなおれの奇妙な言い回しを読み解くのは時間の無駄だ。どうせ俺にはまだ分からないことなのだから。思考を切り上げて先を促すことにした。


「……それはひとまず分かったよ。でもなぜジハルドの名が出てくる? 奴は今、どこかへ逃げている最中で近くにいないだろ?」

『居る。近い。目が覚めたらすぐさま逃げろ。良いな、ゆめゆめ近づくでないぞ』






  □ □ □






 目を開けた。暗闇に紛れて天井が見える。

 だが空気が慌ただしい。ベイがちょうど俺たちを起こしにきた。


「お前ら起きろ……もう勘付いてたか。やべえ気配がする。たぶんジハルドだ」

「それが分かるお前が凄いよ……ってちょっと待て、これって」


 腹の底が何かに呼応するように蠢いた。

 ああなんてこった、と思わず呟きが漏れた。数日前に小屋で感じた気配と同じ──“暴走”。


「今あのバカと鉢合わせにでもなったら、俺一人でお前らの護衛まで手が回らん。ここは逃げる。いいなナダ」

「いやよくない。あいつ今、暴走寸前だ」

「はァ!? 嘘だろ、そんな……」


 ベイは顎に手を当ててひとしきりブツブツと呟いた後で、首を振った。


「だったら尚更だ。逃げた方がいい」

「ベイ!」

「俺が気付いてねえとでも? お前もやべえんだろ。ジハルドと接触してから、の頻度が随分増えてるよな」


 ……思わず手を後ろに隠した。

 言う通りだった。ミズリルたちの能力に感応でもしたのか、それとも既に膨れ上がっていたのか、頻繁に力を使わないと内側から破裂しそうだったのだ。

 誤魔化しているつもりだったのに……この様子だとイコにもバレているんだろう。


「とにかく出るぞ。宿の方には話つけてある」


 寝ぼけ眼のイコがぴしゃりと自分の頬を叩いて帽子をかぶった。寝癖がそのまま押し込まれていった。半ば強引なベイに、俺はついて行くしかない。

 だが、そうか、俺は逃げなければならない。夢の中での“おれ”の忠告に、ここは従うべきだ。


 そう自分に言い聞かせたのに、外に出た途端俺は立ち止まってしまった。






 ――誰かを見捨てた俺は、果たして“人間”に留まれるんだろうか。






「ナダ! 何やってる! さっさと車乗れ!」

「ベイ、ダメだよ。ダメなんだ。ここでジハルドを捨て置けば、俺は本当に化け物になっちまう……」

「奴ァもう助からねえ。つーか最初から、クソみてえな実験のモルモットになり下がった時点で、あいつは死んでんだよ! お前がここで何かしたところで、モルモット人生が長引くだけだ! ……いっそ、死なせた方が奴のためだ!」


 強風の吹きすさぶ中、ベイは叫んでいた。ベイはジハルドを、ミズリルたちを助けたかったのだ。手段こそ悪かったが、その行動の根にあったのは彼らを心から思う気持ちだ。


「……そうだな」


 誰より助けてやりたいはずだ。ちょっと話しただけの俺よりずっと、その思いは深いはずだ。


「でも……生きていたいから、あいつはお前を仲間に引き込みに来てたんだよ」


 俺とベイの間に砂が舞いこんだ。目に鼻に大量の砂が打ちつけられて、苦しさのあまり顔を覆った。風を操って顔の周りを凪がせ、改めてベイを見た。この砂にひとつも動じないベイを。

 そこへ車が急ブレーキをかけて俺たちの傍に停車した。……危ねえな!


「お二人さん、話の続きは車ン中で。あ、砂はちゃんと落としてよね、掃除大変だから」


 車で息を整えると人心地ついた。車体を砂が殴る音がするが、車の中は至って平穏だった。どこかから破裂しそうな気配を感じる以外は。


「わたしは正直、ベイに賛成だよ」


 イコがブラックガムを噛みながら言った。


「一般人代表のわたしでも『ヤバい』って思うもん。超逃げたい。でも、ナダの気持ちも尊重したいわけ。難しいね」

「暴走を止める手立てはあんのか? それによっては考えてもいい」


 ベイは一応、譲歩する姿勢を見せてくれている。

 返事をしようと口を開いて、固まった。


「……どうした?」


 怪訝な顔で二人が見てくる。

 じわじわとパニックが襲ってきた。言葉が喉元まで出かかって、消えてしまった。言うべき言葉が俺の中に見つからない。


 『当然だろ。は“おれ”の記憶の範疇。お前に権限はない』


 どこかから“おれ”が呼び掛けてきて、悟った。


「……暴走を止める方法……俺、……」

「施設に関する記憶ってことだ、じゃあ。何とか思い出せないの?」

「無理だと思う。少なくとも今すぐには。……思い出す順番があるらしくて、どうも暴走のことは最深部か、それに近い部分らしい」


 情けない。本当、情けない。

 俺が一度逃げたばかりに、今目の前の人間を見捨てなければならないなんて、俺はなんてことをしたんだろう。それほどのことを仕出かしたとしても、今は悔いばかりが湧き上がる。


 『……なれば、致し方ない。ここはひとつ打って出るとしよう』


 腹に巣食う蛇が、鎌首をもたげる。


 『その体をおれに明け渡せ。この膨れ上がった力と奴の暴走、どちらも収めてみせよう』


(そんなうまい話があってたまるか。何をするつもりだ)


 『おれの望みは初めからただ一つ。すべての蓋を開け、分かたれた我らを一つになすこと。今回はお前の望みを特別に叶えてやろう。ただし代償と引き換えにな』


(なんで俺自身なのにそんなに偉そうなんだよ……代償って何だ)


 蛇がチロリと舌を出した。


 『一つ、駒を進めて貰う。要は記憶を二、三お前に戻す。ただし心せよ、我らの隠す過去はひと足踏み入れる度、闇もまた増す。それを受け入れる器となることこそ、我らが本願なれば』


(…………)


 いつの間にか閉じていた瞼を開いた。

 心配そうに眉を下げるイコと、目が合った。


「車、出してくれ。──ジハルドの方へ」

「いいんだね」

「うん。……すまん、ベイ」


 ベイはシートベルトを締めて、諦めたようにひとつ溜息をついた。


「死なねえ段取りがついたんなら、それでいい」











 イコは森の前で車を停めた。

 オホロほどではないにしろ、似たような植物の生い茂る森だ。この奥の方から、触れれば破裂しそうな気配が伝わってくる。


 深呼吸を繰り返す。

 手が震えていた。鳥肌が治まらない。


「この体を、一時的に“おれ”に明け渡す。“おれ”が暴走を止める術を知っている。代わりに俺はしばらく眠ることになる、だから、終わった後、俺を運んでほしいんだ」


 頼めるか、と二人を振り返る。どちらも納得のいった顔ではない。

 それもそうだ。一番覚悟を決めるべき俺が、最も不安な顔をしている。自分でどんな表情かが分かるほどに、俺は怖かった。

 迷っていると、イコと目が合った。合ってしまった。合わせるつもりなんてなかったのに、顔を見た途端に胸がいっぱいになってしまった。


 イコの肩に顔を埋めて、震える瞼を無理やりに閉じた。温かい。


「……怖いなあ」


 “おれ”の考える方法は恐らく、ジハルドの溢れそうな力も俺が請け負って放出するとか、そういう手段だろう。

 その過程で俺は壊れて死んでしまうかもしれない。また記憶を飛ばしてしまうかも、二人のことを忘れてしまうかも、二人が間に合わず連れ去られてしまうかも……。


 二人とジハルド、それに周辺の住民も巻き込んでしまうかもしれない。誰も殺さないなどという保証がない。いつぞやに、気絶している間に表出した“おれ”が、盗賊たちを殺してしまったように。


 それに、今度こそ、どんな記憶が蘇るかも分からない。

 俺は向き合えるんだろうか。また逃げ出しやしないだろうか。

 一度目を背けた空白から。


 そんなことを瞼の裏で必死に抑え込んでいると、イコがそっと俺の頭を撫でた。


「でも行くって言うんだろ、ナダは」

「……うん」

「そういう奴だからさ、運もついてくるって。ご安心召されい、あんたがぶっ倒れたらそこの怪力マンが運んで──」

「──その後はアホドライバーが適当なところまで逃げてくれるさ。そこらのチンピラじゃ追いつけねえ、俺が保証する」


 ちょっと笑ってしまった。

 未だに震えは止まらないが、覚悟は決まった。


「頼んだ」

「任せろ」


 二人の真っ直ぐな目を胸に刻み込んで、森の方に向き直った。

 そして一歩、踏み出す。二歩、三歩と進むにつれ、気配が濃くなっていく。


 『腹を決めたな。良しよし』


(誰も殺すなよ。この前みたいに何人も火あぶりなんてことはよしてくれ)


 『そっちこそ、しかと見るのだぞ。……まだほんの薄暗がりと覚えおけ』


 俺の中の“おれ”と会話しながら、薄っすら苦笑いした。こんなに恐ろしいというのに、見せられるものはまだまだ序の口らしい。

 腹の底のうねりが強くなる。ジハルドはもうすぐそこだと、キース族の勘が告げる。


 そして、森のやや開けたところに、彼はいた。

 長い体を折り丸めて蹲っている。その背に何と声をかけるべきか、しばし逡巡した。


「……何だよ。オレを殺しに来たか」


 俺が一声発する前に、ジハルドの方がゆっくりと顔を上げてこちらを向いた。

 その口から大量の血が滴り落ちている。制御のきかない力が出口を求めて体内で暴れまわっているのだ。


「違う。助けに来た」

「……ハッ、嘘だな。信じねえぞオレは。知ってんだよ、この力がまがい物で不完全だってことはよ……でも、でもなあ、いつか完全になれたら、オレはみんなとまた会えるはずなんだ」


 生命力が弱々しくなっているのに、そう話す間も血を吐き出しているのに、瞳だけが爛々と鋭く光って遠くを見ていた。その目線の先に何があるのか、俺は分かってしまった。


「ジハルド、完全なんてないんだ。俺ですら不完全なんだよ。生きているものはいずれ死ぬ。死んだものは生き返らない。この仕組みは絶対に覆せない、この力をもってしても」

「いいや、テメエは嘘つきだ。できるはずだ、あいつらができるって言うからオレはこの身を捧げたんだ。完全体になってやるんだ、そうすりゃ……」


 幼い子供のようだと思った。実験に身をやつしたせいか、それとも精神的な何かのせいか、“少年兵”のまま時間が止まってしまっているのだろう。ベイより少し年下くらい、俺よりいくらか年上なのに、幼子をあやすような心持になってきた。

 きっと何を言っても、俺の言葉は少しも届かない。ベイの言葉も恐らくは。


 膝をついてジハルドに目線を合わせた。ギラギラした光がひと時揺れた。


「分かった。じゃあそこはもう、お前の好きにしたらいい。ただこのままではお前が壊れてしまう。だから膨らみすぎたその力、俺が貰い受ける」


 やってくれるんだな、と“おれ”に無言のまま問いかける。肯定を感じ取って、あとはもう成り行きに任せてしまおうと思った。


「その代わり、その目でしかと見ろ。己が内に巣食うものが何か、お前は一体何を招き入れてしまったのか。……まだ生きていたいのだろ?」


 ジハルドの目が激しく動揺を映しとった。ああ子どもだ、“少年兵”をその中に見出した。


(……あとは頼んだ)


 『承知』


 目を閉じて、内臓がひっくり返る感覚に身を委ねた。

 現実は“おれ”に任せて、俺は過去を見定める。

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