修羅②
□ □ □
「──ああ……ああ、いやだ、やめろ、やめてくれ!」
身を切るような悲鳴が、俺とジハルドの動きを止めた。
廃屋の向こう側からだ。石の壁に隔たれて、何が起こっているのかは見ることができない。
「悪かったよ、あいつらを殺して悪かった! 俺が悪かった! なあ、頼むって……いやだ……だってまだ約束の時じゃ──」
無機質な銃声。
何かが砕ける音。飛び散る音。
ズルリという、水気を帯びたものが滑り落ちる音。
そして静寂。
「ハ……ハハ。アハハ。ああ、ああ……そうだ、いいぞ。それでこそ
ジハルドが恍惚に頬を緩ませて、うっとりと頬を上気させている。
俺は走り出した。今音がした方へ。
「……何故……」
先程自分が捕らえた体勢のまま“イール”が事切れているのを見て、力ない呟きが漏れた。
そして再び響いた悲鳴に勢いよく振り返る。一目散にその方へと駆け出した。
(間に合え)
「なんでよぉ……あたしは悪くないじゃん……殺さなきゃ生きていけないって、あんたが教えたんじゃねえか……」
(間に合え……頼む、間に合え!)
「ざっけんなよ……先にあたしらを裏切ったのはあんただ! 今更説教なんざ垂れてんじゃねえよ! ……あぁ、違う、違うの、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい! いやだ! お願いします見捨てないで!」
(待て、頼むから……!)
「──ベイザム!」
嗚咽混じりに罵倒と懇願を繰り返していた女の声は、“奴”の名前を叫んだのを最後に、次の瞬間轟いた銃声と共に消えた。
俺が息を切らせてその場に着く頃にはもう、奴の姿はなかった。虚ろに天を仰ぎ見る無残な
「くそっ……!」
悪態を残して最後の一人の方へ向かう。ああ、でもきっとまた俺は間に合わないんだろう。あいつは俺よりも足が速いから。
歯ぎしりすると奥歯で砂がジャリッと音を立てた。渇いた空気と砂で喉が焼けそうだ。
「間に合え──!」
「どうしてあたしらを迎えに来なかったんだよ」
微かに呟く声が聞こえる。
炎遣いの女、リダだ。俺が地面に拘束した女。
「異教徒ばかりのところに閉じ込められてたの、知ってたろ? なんで迎えに来てくれなかったんだよ。結局あんたはあたしらがお荷物で仕方なかったっての? ああ……だからあの時の命令が“散開”だったワケか。あはは……」
建物の陰から飛び出して、手を前に伸ばしてがむしゃらに力を放った。立ち上がった
が、もう遅い。間に合わない。
「クズ野郎。地獄に堕ちろ、裏切り者」
「お前も地獄行きなんだよ」
浅黒い武骨な指が、引き金を引いた。
銃口がパッと明るく光って重たい音が響いた。額から赤い飛沫が飛んだ。肉片と血が、奴の土まみれのブーツを汚した。
──全身が燃えるように熱くなった。
「……ッ! ベイ! おまえェッ!」
突き動かされるようにして、ベイの胸倉を掴んで引き寄せた。
ベイは抵抗しなかった。俺より頭半分くらい背の高い男を、俺よりずっと体格のいい男を、力任せにガクガク揺さぶる。
「何故殺した! 殺すなと云ったろう!」
「言ったな。だが俺は『分かった』なんて返事してねえ」
下唇を思いっきり噛んで、利き手でベイの横っ面をぶん殴った。
「そんな屁理屈が通用するかよ……ふざけるのも大概にしろ!」
「お前の言った『殺すな』ってのァお前の道理だ。俺には俺の道理がある」
「……だから殺したっていうのか!」
「そうだ。こいつらは俺が手を下さなきゃならなかった」
俺を見返すベイの目に、思わず全身が強張った。
見たこともない目だった。昏く、冷たく、淀んだ色をしていた。
胸倉を掴まれる力が弱まったのをいいことに、ベイは俺から離れてリロードした。金属の冷え切った音が更に心臓を凍らせる。
(……どうして)
訳が分からない。ベイの行動原理がまったく理解できない。殺されたミズリルたちの悲鳴がまだ耳に残っている。
『俺が悪かった』
『見捨てないで』
『裏切り者、地獄に落ちろ』……
(殺しまでする意味が……だってかつての仲間を、こんな……)
その時、久しぶりにインカムから通信が入った。
イザベラの声が焦りを帯びて呼び掛けている──ベイに。
『ベイズ! ジハルドが逃げる!』
イザベラもベイに加担しているのかと、俺はますます訳が分からなくなった。
……もっと分からないのは、その時、ベイが俺を振り返ったことだ。
まるで、何かを迷うように。
判断を迷って、動けなくなってしまったかのように。
「ベイ……?」
「──ベイザァーーーム!」
遠くからラヒムが叫んだ。
傭兵の肩が僅かに動いた。
「
声が割れるほどのラヒムの怒号。
それを聞くや否や、ベイは走り出した。
疾かった。
砂の統べる起伏の多い大地を、一切無駄のない動きで、逃げた最後の残党を追いかけていった。
俺は、それをただ見ていることしか、出来なかった。
□ □ □
車を降りるなり、中年傭兵の胸倉を掴んで引き寄せた。
「何故行かせた! 答えろ!」
「落ち着けよォ少年。危機は去った。今んとこピリピリしてんのは、こン中でお前さんだけだぜ」
「説明しろ。あんたにはその義務がある。あの場の状況だけじゃ俺は何も得られないんだよ。一番訳知り顔してるあんたが話すのが筋だ。吐け」
防弾ベストからはみ出るシャツの襟を掴むので精一杯、それくらいラヒムは重装備だった。ベイも同じだった。とても掴みにくくて仕方がなかった。
そして何より腹が立つのは、
ジハルドを追ってその場を去ったベイも、ベイが殺したミズリルたちの死体もそのままに、ラヒムは半ば強引に俺たちを撤退させたのだった。
ここまで道を共にしてきた男が、悲鳴混じりの懇願をも無視して殺し回る──銃声のストレスを無理やり逸らした直後にあの出来事が重なって、イコはとても運転できる状態ではなかった。イザベラが代わりに運転すること二時間以上、この岩場でようやく彼女は車を停め、今に至る。
イコと同じく俺も気が触れそうだった。
分からないことだらけだ。ミズリルたちが不完全ながらも能力を持っていたことも、ベイがかつての仲間を躊躇いもなく殺し回ったことも、そのくせ俺とイコから離れることに躊躇を見せたことも。
この感情を、一体どこに向ければいいのかも。
「ハハ。君は若いのに感情的にならないところが美点の一つだな。君の年頃の男の子って、感情任せでガンガン突っ走るもんなんだけど。いやはや、若者にしては感心感心……それともそういう民族性とか?」
「そうやって話をはぐらかすなよ。この中であんたが一番
「義務だの筋通すだの、難しい言葉を知ってるなあ……だがな少年、やっぱ若いぜ。俺たちァ
ラヒムから手を放して、ケープを握りしめた。
腹の奥がうねる。必死で気を落ち着けようと、息を深く吐いたり吸ったりする。こめかみの奥、頭の芯が、ズキズキと疼いていた。ああ
俺は思う。「向き合え」と。
おれは留める。〈まだ早い〉と。
ラヒムの言う“昏いもの”を俺は見るべきなのに、見てはいけないと叫んでいる。いや、だが、俺は聞かなくてはならない。見なくてはならない。
イザベラが軽く肩を叩いてきた。
「ナダ、少し休んだ方がいいよ。顔色が灰色になってる」
「放っといてくれイザベラ。時間がない。ジハルドが殺されたら手掛かりがまったく残らなくなる。イコが運転できないなら俺がやる、こんなだだっ広い地面なら事故も起こさねえだろ」
「まあそう焦るなって。な?」
笑って流そうとするラヒムが、ついに俺の堪忍袋をぶち破った。
「いい加減にしろ! 何ヘラヘラしてんだよ! 人が死んでんだぞ! それも、お前の同僚の手でだ!」
一度は放した男に再び掴みかかって揺さぶる。
俺がおかしいんだろうか。俺がこうして激昂する時は大抵、大人は静かに俺を見返してくる。
ガヴェルもそうだった。ベイも、そうだった。ああ腹が立つ。やり場のない怒りを若さとしか見ていないその温度差に腹が立つ。
「お前たちはどうしてそう、人の生き死にだとか、血まみれの殺し合いだとかを、何てことないフリして眺めてんだ? 本当はどこかがしんどいからそんな目をするんだろ? だったら何故ベイに殺させた! 答えろよ!」
揺さぶっても怒鳴っても、何をしても動じない──そう思っていたのが、不意に、ラヒムの顔が柔らかくなった。
思わず胸ぐらを掴んでいた手の力が緩んだ。ラヒムは笑っていた。先ほどまでの澱んだ目ではなく、光の差した純粋な笑顔だった。
爽やかに、安心したように、
「……やっぱり“ベイ”を名乗らせて正解だったよ。もういい加減“ベイ”に戻っていい頃だったんだ。いい加減、あいつのことを本当に考えてくれる奴に出くわして、銃なんか持たなくたって生きていけるようにさァ……なあイザベラ。正解だったろ?」
銃などなくとも……どういう意味だ?
ラヒムは俺の火を使わず、ライターで煙草に火を点けた。ひとつ、長く、煙を吐いた後で、俺たちにも座るように促した。
「あいつを追う前に昔話をしようか」
イコが俺にピッタリくっついてきて、膝を抱えて座った。体温を感じる方が安心するのだろうと、俺は特に拒まなかった。
暮れ始めた陽を背中に、煙草を吹かす傭兵の語り声が、その場に静かに落ちていく。
「とは言ってもそうだな……せいぜい君たちが生まれるか生まれないかっていう頃の話だ。二十年も戻らねえ、つい最近の話。……ああくそ、長い話になりそうだ、なんせ──」
ラヒムの、煙草を持つ浅黒い手が震えていた。
「──誰かに話すのが、初めてなんだよ」
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