鬼が出る

白檀



 「——お宮さまの祭りには、鬼が出る」

 それは、盆祭りの前、密やかに囁かれる噂。娘たちの母の母、そのまた母からの言い伝え。夏祭りの季節、日も長くなり浮かれる子供たちを戒めるための生活の知恵か、或いは人には見えぬ妖が実在するのか。その答えを知るのは、おそらく当の鬼だけである。




 「お宮さまの祭りには、人を喰らう鬼が出る。いついつ出よか、今出よか。も少し休んで夜出よか」

 青年はゆっくりと口遊びながら、大きな和鏡の前で濃紺の着物に袖を通していた。夏の夕べを知らせるぬるい風が、障子を開け放った古い和室の中を通り過ぎていく。その風に煽られてか、鼻を衝く腐臭が仄かに漂ってきて、整った青年の顔を僅かに歪ませた。

 見遣れば、黒く腐った畳張りの部屋、その真暗な一隅で、何かが小さく蠢いている。やはり、長持ちしても一年か。そう嘆息すると、青年は漆塗りの化粧筆を取り、丁寧な手付きで唇に朱を入れ始めた。薄く引かれた紅の間から、ちらりと白い八重歯が覗くのを見て、満足そうに微笑む。一通りの支度が整うと、青年は月白の帯を強く締め直して、小さく呟いた。

 「さて、出よか」



 お宮さまの祭りは地域でも随一の大祭で、参道から鳥居までずらりと屋台が立ち並ぶ。盆踊りの開かれる境内のほか、普段は静かな鎮守の森にも屋台が犇き、浴衣姿の人々で例年賑わうのだ。

 あんなことがあったのに今年も変わらず人の出は多いようで、日の落ちて薄暗い参道を、提灯と祭りの熱気に火照った人々が練り歩いている。夜の祭りに浮かされた顔は昼のそれとは違っていて、誰そ彼、誰そ彼と問わずには居られぬ危うさを秘めている。こんな夜は、人の中に鬼が混じるに似つかわしい。

 人の波の中を、青年は一人、下駄を静かに鳴らしながら歩いていた。雅さえ感じられる青年の歩みに合わせて、帯飾りの金鈴がちりんと揺れる。彼の前には不思議と人が割れて道が出来、通り過ぎた後では、皆怪訝そうに彼の歩き去った方を見遣るのだった。

 どうやら青年は、ゆっくりと歩きながら群衆に目を滑らせているようだ。彼の視線は、風船を握った少年たちの上を通り、物々しい警官らを見下して、幸せそうな家族連れから逸れる。かき氷を分けあう少女たちを離れて、小指を繋いだ恋人たちを通り過ぎ、法被姿の若衆を一瞥する。何かを探しているのか、緩慢に、しかし忙しなく移ろう視線は、やがて一人の少女の上に止まった。



 支子の襦袢に紅の着物、肩までの艶やかな黒髪の少女。年の頃は十かそこらか、幼さを残しながらも理知的な顔立ちは、しかし今、どことなく暮れなずんでいるようにも見える。

 少女に目を止めた青年は、ほんのりと笑うと、また人々の間を水のように歩いて、その下に歩んでいった。

 「お嬢さん、困りごとかな?」

 突然降ってきた柔らかな声音に、紅の少女は、当惑した表情で返す。

 「ん……お父さんがいなくなってしまったの。森の方ではぐれちゃって……」

 「それは大変だね。探すの、手伝ってあげようか?」

 少女の頭がふるふると横に揺れ、艶やかな黒髪が灯りを反射して煌めく。

 「でも、知らない人と一緒に行っちゃ、駄目だから」

 「大丈夫、お父さんを探すだけだよ」

 何処までも優しげな青年の声に、それでもなお困り顔で首を振っていた少女の腹が、突然、くぅと鳴った。

 「…………」

 「ふふ、ふふふ」

 「「ふふふふふふふふっ」」

 緊張を解すような腹の虫に二人がひとしきり笑い終えると、急に屋台から漂う匂いが香ばしく感じられた。着物に負けぬほど顔を赤らめながらも、少女の喉がこくんと動く。

 「おなかが空いてるのかい? 何か食べたいものがあれば、買ってきてあげよう」

 そう微笑んだ青年の差し出した手を取って、少女は小さく頷いた。



 透明な飴に包まれた紅玉を齧ると、ふわりとした甘さが口いっぱいに広がっていく。やや遅れて、程よく酸味の効いた果汁がじわりと染み出してくる。もう一口、今度は小さく齧り取ると、果汁の酸味に引き立てられて、頬が落ちそうなほどの甘さが広がる。

 目を丸くしながら無心に林檎飴を齧る少女の横で、青年は大きな烏賊を手にしていた。屋台の主人曰く明治創業の秘伝のたれは、程よく濃厚でまろやかに甘く、歯応えのある烏賊によく絡む。ほろりと崩れる肉厚の身と、こりこりと歯応えのある下足は、どちらも甲乙付け難い。

 青年の空いた方の手には、大袋入りの真白い綿菓子が握られていて、時折、林檎飴に飽いた少女がつまんでは、口内で崩れる雲の甘さに頬を綻ばせている。美味しいかい。美味しい。そんな言葉を交わす二人の姿は、見れば年の離れた仲の良い兄妹にも映っただろう。



 やがて、二人は参道から森に入った。昼でも鬱蒼と暗い鎮守の森は、彼方此方に飾られた祭提灯を以てなお暗い。森に入ると共に、青年の歩みが少しだけ早くなったことに、少女は気付いた。お兄さん、と首を傾げる少女の手を確りと握りながら、青年は言葉を紡いでいく。

 「なぁ、君はこんな噂を聞いたことは無いかい? ”お宮さまの祭りには、鬼が出る”って」

 「あるけど……」

 少女の顔に、動揺が浮かぶ。不安、疑念、或いは恐怖。

 「鬼なんていない、そう思うかい。夜遅くまで出歩かないよう、大人が考え出した嘘だと」

 「鬼というのはね、人が理解できないものの総称だ。思考、志向、そして嗜好。人は昔から、己の理解の枠外にあるものに”鬼”の札を貼り、封じてきた」

 「盂蘭盆会は、死者の季節。それは同時に、社会的な死者である”鬼”が、熱に浮かされて陰から這い出る季節でもある」

 「おにい、さん……?」

 今や立ち止まり力を籠める少女の手を、それ以上の力で握る。

 「昨年の今頃も、こんなことがあった。お宮さまの盆祭りで、少女が姿を消した」

 「あれも丁度、今みたいに。迷子の少女が森の中でいなくなった」

 「皆で辺りを探し回っても結局見つからず、”鬼”に攫われたと噂になった」

 「今ではその子、”鬼”の屋敷で骸になっているんだ」

 そう静かに語り終えると、青年は着物の袖口から布を取り出す。

 「そして今年は、君が――」

 素早く身を翻し、布を少女の口に押し当てようとして――青年は、動きを止めた。


 違う。眼前の少女は、何かが違う。言い表せないが、何かが。

 止まった青年を見て、少女がゆっくりと口を開く。これまでとは打って変わった、昏い声。


 「そっか、やっぱりお兄さんだったか」


 どろり、と空気が澱んだ。


 祭囃子の音が、急に遠のいていく。

提灯の灯が風も無いのに消えて、視界は闇に包まれる。

背後から何かの視線を感じる。

獣の匂いの吐息が耳にかかる。

体が重くなり、呼吸が苦しくなる。

見られている。

囲まれている。

呼ばれて、いる。


 「初めは、驚いたんだ。貴方は人で、私の姿が見える筈はないから」

 「でもね、私が見えたということは、貴方はもう、人ではなく鬼なんだ」

 語る少女の頭には、二本の角。


 「貴方が言った通り、”鬼”とは、人間の埒外にある者のこと。思考や嗜好はその通り。でも、もっと本質的な境界がある」

 紅の着物を揺らし、腰を抜かした青年に、一歩。


 「”鬼”は、陰を意味する”おぬ”の転。人間、即ち人と人の間に在れなくなって、陰に隠れる者のこと」

 もう一歩。逃げられない。


 「だから貴方のように、人を殺めたモノは。人と人の間に在ることを怠ったモノは。もう、人ではなく、鬼になるんだ」

 また一歩。目と鼻の先。


 「さあ、お兄さん。貴方はもう、ここには居られない」

 青年の頸に、白い指が伸びる。


 「人は人の世界に、鬼は鬼の世界に」

 ひたり。


 「帰りましょう」





 「——お宮さまのお祭りには、鬼が出る」

 鬼とは何か、誰も知らない。知らないままで良い。噂は、囁かれるままの方が幸せだ。



 これは物語とは関係が無いが、翌日の地元朝刊の一面を飾ったのは、昨年から手配されていた少女誘拐犯の自殺の記事だったらしい。どう登ったか、神社の一番高い椿の木に、首を括って死んでいたとか。

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