第43話 部族史の交差

 弓をつがえる前にヒカルは両肩甲骨を大きく回してみる。僧帽筋の動きが気持ちいい。


 お姉ちゃんを後方支援。って、どれがお姉ちゃん? 人が多くて遠くて、わからん。


 遠くの屋根を何かがバネのように飛び越えた。

 ハナクロだ!


 続いて素早い動きの二人が追う。

 あの動き! あの間者チーム!


 ヒカルは木から滑り降りた。


 正門にいる用心棒とその手前にいる雑用の男は、太い柱の向こうに見える宴の華やかさに見とれている。雑役の男は桶も柄杓も落としたが、口はあいたまま、気付かない。

 ヒカルはそっと拾う。男は相変わらず、垣間見える天女たちに心を奪われている。

 ヒカルは桶と柄杓を持って堂々と門に入った。


 客人たちが獣脂で汚れた指と唇を拭うため、ヒカルに手招きをする。ヒカルは彼らの手元に柄杓で水をかけながら、三百六十度を観察する。


 聖地を隔てる渡り廊下のような、新しいむろの近くに焚火たきびは無い。

 向こう側に行かんと。お姉ちゃんがいるはず。




 由希は地底の一番奥に煌々と石の鏡が燃えているのを見た。黒曜石の鏡。以前と異なり、輝く炎だ。


 これが本来の火? この状態が、代々の火守りが守って来たという火?


 輝きに目が慣れると、広い空間が暗くなる数十メートルほど先に小さな女の子が見える。

「あなたは、」由希は、言葉が通じるのかダメもとで声をかけた。「どうして、ここに?」

 怖さは全く感じない。

「父上が」震える声が帰って来た。「おっしゃいました」

「父上?」由希は、味方であることを示そうと、両腕を広げた。「わたしは、あなたを助けに来たの」

「この石を持って地面の下に行け、と」少女の声の震えが消えた。「突き当りに置きなさい、と。父上が迎えに行くまで、そこで待ちなさい、と」


 アタシの腕を掴んで助けてくれた、あの森の香りの人が言っていた女の子だ。

 艶々した長い、柔らかい髪が腰まで垂れている。父親譲り。

 アタシには、あっという間の失恋だった。

 意志の強い眉は赤ん坊のときのまま。母親譲り。


「本当のお父さんは」由希は優しいトーンを続けた。地殻を割って助けに来る。「迎えに来るよ。精悍な森の人が」

「本当の?」涙目で由希を見る。身体全体が跳ね上がる。その身軽さは父親譲り。


「そのうち、来るよ。あなたが、今、お父さんと呼ばされている人は文明の人」

「ぶんめいの人? もりの人?」母親譲りの、切れ長で大きな瞳が皿のように開く。


「アタシはね、あなたの育てのお父さん、本当のお父さんと、二人とも会ったの。おかげで資本主義と、民主主義が違うことが実感できた」

 少女は言葉の意味が分からなくても頭脳に丸ごと保存しようとしていると、引き締まった口元が示している。


「育てのお父さん、ニニギは文明をもたらしてくれた。組織的稲作のおかげで大勢を飢餓から救った。社会が発展したの」

「ふぅん。いいことなの?」少女から漂う森の香りが、新緑の森の香りが、波のように広がり始めた。


「うん。乳児死亡率が下がったし。何にでも、物事には良い面と悪い面があるけど。何が良くて何が悪いかはその人の立場次第。あなたは階層社会の頂点の側から人を見ていたのね」

「今はもう、誰も、何も、見えないよ」


 慰める言葉を見つけることができず、走り寄って抱きしめた。


 少女はささやいた。「あの石、触っていいよ」

 離れない少女を抱え上げ、由希は炎に近づいた。


 熱を感じない。

 酸素を消費する燃焼という現象ではないのね。

 平らな、反射する面を覗き込む。


 地の底で、赤黒く沸騰する波。それらが怒涛のように吹き出す。暴風に晒され固まり、半透明になった。


 言語が始まる前の、感嘆の声が、それを持ち上げる。


 言語が始まる頃の、甘いささやきと叫び声のようなものが聞こえる。


 怪しい輝きを放ちながら、異形の女や男たちが次々に現れては消える。見たこともない、柔らかそうな薄物で体を覆っている。


 冠や首飾りがまばゆい。腕に、首に、脚にも飾りを巻き付けている。


 アフリカから紅海を渡り、中東を経て、ユーラシア大陸を横断しながら人を狂わせ、支配者と被支配者を作り続けた石の記憶が全て残る。


 由希は女の子を下すと、両腕を伸ばした。炎の鏡に触れるとひんやりとして心地いい。

 心を奪われてはならない。


 アタシが生きるはずの二十一世紀、経済活動が原因の多発火災で南アメリカのアマゾンが消失。

 シベリアの森林も、東南アジアのエメラルド・フォレストも、アフリカのジャングルも。

 極地の氷河も。

 結果、ありえない規模のハリケーン、サイクロン、竜巻、干ばつ、洪水、湖と河の枯渇、土砂崩れ、熱波。

 巻き込まれた数千万の人間に広がる感染症。

 森が無くなり、地球の大気から酸素が減り続ける。

 何とかしなくては。

 そのまま、鏡を持ち上げ、下に叩きつけた。


 後ろから清風が吹いてきた。

 腕を掴んで助けられたときの森の香りがする。

 清風は女の子と黒曜石の欠片三つを巻き上げ、去った。

 この地底に広がっている、無数の、消された部族の魂が動き始めた。地殻を伝い大洋を超える。

 由希は戻る途中、成長した三体の水中花がいなくなっていることに気がついた。



 渡り廊下を構成する、複雑に組み合わされた板壁の暗がりから女性が三人、出てきた。

 ヒカルの目前を横切る。

 あ、おれを閉じ込めた心の持ち主が産んだ三人だ。生きてたのか? 成長したなぁ! あのオバちゃん、喜ぶだろうな、見せてあげたいな!


 三人は人ごみの中、滑るようにニニギへと進む。

 ヒカルが後ろ姿に見とれていると、それぞれの片手の中に小さな、薄い、鋭い黒曜石の破片が見えた。


 三人の流れる動きに誘われ、支配者も含め、全ての顔が三人に向く。音楽さえ止む。


 支配者と、幾つかの顔に驚きの表情が浮かぶ。


 三人から梅の花の匂いが沸き立つ。海が割れるように人ごみが割れた。圧倒的な美貌に、国つ神の令嬢たちは後ずさりする。


「たれのこであるか。名は何と申す」権力者が問う。


 この世のものとは思われぬ三人は、声を発せず、うるんだ六つの瞳でニニギを囲み、視線で射る。


 権力の頂点にある男は新室にいむろの縁側にある玉座の両隣と前に三人を座らせた。


 大太鼓が再び空気を、本能を揺さぶり始める。


 ウミサチ、ヤマサチのそれぞれの乳母が走り寄り、王子たちを受け取ると、これまでの寝屋に連れて行った。

 国つ神も、間者も、兵士も、用心棒も、失礼にならないよう権力者から視線を外した。


 ヒカルは客人の手に水を注ぎながら、都合よく落ちてくる長い前髪の隙間から縁側を観察する。ヒカルの視界の中で、三人が太鼓のリズムに合わせニニギに向かい背中を反らせ、肩を揺らし、脚を上げる。


 六本の腕が、三十の指が、侵略者親分の全身をしなやかに辿る。


 数秒後、首領は背も、後頭部も、縁側の床板に付けた。


 その首すじと両脇から、真っ赤な川が噴き出す。


 三人の女が風になって消え、大地が変動を始めた。地殻を幾万もの魂が轟音とともに突き破る。

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