第33話 貴妃の鏡
七回の満月を経た夜、女は産みの波に揉まれるように、幕屋の中で横たわっていた。集落の女たちが幕屋の中で湯を沸かしたり祈ったりしている。
神様、産まれようとしているこの子をお助けください、私の命と引き換えに。
意識が朦朧としてきた。視界が無くなると二つの声が聞こえてきた。
「おまえはどこから来たのか」
「地を行き巡り、そこを歩き回ってきました」
会話が続き、去っていく音が聞こえた。
誰かと誰かが、夫を試す話をしとる。
そのとき新しい命が現れた。
季節が何度も繰り返した ある日、天のいかずちが夫の全ての財産を燃やしてしまった。
夫と私なら何とかしてみせる、子供たちを立派に成長させる、必ず、立ち直って見せるっちゃ。女はすっくと立ち上がった。
その日は大風も吹き荒れていた。避難小屋にいた子供たちの上に建物が倒壊した。
知らせを聞いて駆けつけると誰も動いていなかった。夫婦は大地に倒れた。母親は神を呪った。
夫は立ち上がり、その上着を引き裂き、地にひれ伏して言った。「私は裸で母から出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる」
「はぁっ? 自分のこと? 子供より自分か? 私は自分より、神様より、子供が大切なんよ!」女は立ち上がる力のないまま、自分の腹を叩いて怒った。夫に怒った。夫が敬う神に怒った。
「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けなければならないではないか」
女は大きな瞳を見開いたまま、夫の顔を眺めた。
この人とは、かみ合わん。前からわかっとった。
夕日が松林の向こうの海に落ち、赤い光が、夫の神々しい程に知的な横顔を照らす。
子供たちを甦らせるために出て行こ。この命捧げに、道端で野垂れ死にしに出て行こ。
女はゆっくり立ち上がった。
魔力を持つという鏡を持っていこ。あれは仲間として受け入れた漂着の民が、最初の子が女の子っち知って祝いに贈ってくれた品や。美しく成長できる、っち言っとった。でも夫は一目見るなり魔力を持つっち忌み嫌い、幕屋の一番奥に仕舞い込んだ。
太陽の残りの光が消えて宵闇が全てを包む。焼け落ちた幕屋に戻り、灰を掘り起こし、地面を掘り、鏡を包んだ皮を探し出した。
漂着者は、夫が実力者だから贈り物をしたのは解っとる。でも、その子を命がけで産んだんは私やけ。
皮の中で鏡はずっしりとしている。両手で持つにほど良い大きさ。「自分の顔が映ると心は吸い込まれ、他の全てを忘れてしまう、悪魔の誘惑だ」っち、夫が幾重にも包み込んどった。
そっと包みを開けてみた。が、星の明りは雲で隠れ、月も無い夜で何も見えない。それでも、雲が切れ、わずかな間に星明りが鏡に反射したとき、心にかすかな波が届いた。星のまたたきが心の臓に当たった。
鏡が息を子供たちの胸に戻そうとしとる。
心が湧きたったけれども、雲がすぐに闇を戻した。再び沈んだ心で表面に触れると、固いのに水面のように平らで驚いた。触れたことのない感触。もう一度そっと触れて、包み直した。
この不思議さ、美しさ、珍しさ、人の心を奪うには充分や。
心に届いた波が同心円を描いて広がって行く。
自分が他の誰よりも大切だと思っていれば、物に心を占領されてしまう。子供の頃、この宝が不思議な魔力を持つ理由を、漂着民が、かあちゃんに話しているのが聞こえた。
遥か、南西の大洋を超えた処にある彼の大地では、この鏡のために多くの人が血を流し、栄華を極め、廃人になり、尊敬され、命を失い、そのたびに魔力が増したっち、言っとった。
最後の持ち主は、当時の皇帝に最も愛された貴妃でした。正式な妻、皇后は離宮に追いやられました。皇后の父親は、娘が世継ぎを産む機会を逸しているうえ、貴妃の懐妊を知ると兵を挙げました。
漂着の男は、貴妃が本当に愛していたのは身辺警護をしていた自分やった、ち言っとった。
最愛の女性の最期を見届けると、戦乱に紛れ、この鏡だけを持って大河を下りました。鏡はいつもあの美貌をひたすら見つめていたからです。流れの先に、陸の無い世界があるなど、想像すらしませんでした。
その漂着民が話す様子を物陰からじっと聞いとったんは、自分の背が、かあちゃんを抜きそうな頃やった。その若い異人に惹かれとったんかもしれん。キヒという女に秘密に愛されるには充分な、端正で誠実な容貌をしとった。
かあちゃんは尋ねとった。そんな大切なものを、私のようなおばあさんに見せてくれるなんて、どうしてまた。
私の母は砂漠のオアシスで生まれ育ち、みなしごになり、東へ向かうキャラバンに連れられて大きな都へ着いたそうです。
さばく、おあしす、きゃらばん、みやこ、ようわからんばって、みなしごっち不憫やねぇ。
私が深い海、そのころの私は海という言葉さえ知らなかった、そこに投げ出されたとき、私を支配していたのは、その人に再会できるという歓喜ではなく、死への恐怖でした。
あなたのご主人の声で目覚めたとき、私は無我夢中で差し出された水を飲み、干し柿を食べました。
そんな自分が嫌でならなかった。それでも、あなたのご主人もあなたも、廃人のような私に、この島の言葉をひとつ、ひとつ、根気よく教えてくれました。あなたたちの心は自分だけの物ではないとわかりました。
自分中心やと、みんな死んでしまうやんか。それも子供が先に。
そして、あなたがたの娘さんは、いとこの息子さんとの配偶が決まっていると聞きました。
そやと、生まれたときから。
お孫さんが生まれたら、女の子なら、この鏡を差し上げます。母の生まれた砂漠より、もっともっと西にある火の山で作られたそうです。戦乱のたびに将軍たちの手から手へ渡ったのです。
どんぐらい遠いのかわからんばって。
自分より次世代を大切にするあなたがたへの敬意です。
その赤んぼは美しく育ったっちゃ。
女は鏡を広い皮に包み背中に結びつけた。三人目の子は、この背中から降りて地を歩くことができるようになっとったっちゃ! 愛しい子! 魔力を手に入れ、子供たちをもう一度抱きしめるっちゃ!
着の身着のまま夜の闇を駆けた。誰にも邪魔されない深い森に入って行く。光るキノコが地表を覆う。見渡す限りのホタルが乱舞し、またたく。夜鳴き鳥と獣たちの遠吠えが、精霊を全身に感じさせる。人のいない森は音で満ちている。
しかし不思議な力は湧いてこない。鏡を掘り起こしたときに感じた波のようなものはない。
鏡に向かって吠え、星明りを待ったが、ついに山々の尾根の向こうが、みかん色に変わり始めた。高い空に早起き鳥の呼びかけが響き渡り山河を超える。
「一日も過ぎちゃいけん、息子や娘たちが追いついてないやろ!」
子供たちが、それぞれの人生を続けることができないことが悔しくて悔しくて泣き続けた。しょっぱい涙が膝の生傷に落ち、その痛みが、辺りが明るくなっていることを女に気付かせた。鏡を取り出し平らな面をこちらに向けた。そこには長女がいた。
黄泉の国で疲れ切った顔をしている。が、口や手を動かして、それが自分と分かり突っ伏して泣いた。
「犠牲になる命が無いと魔力が途絶えるんか! 私の命を吹き込んで魔鏡に戻してやるけん!」
崖の縁に立った。恐怖で一歩を踏み出すことができない。両腕を鳥のように広げてみる。体を前に傾けることができない。心の中に憎たらしい、身勝手な何かが巣食っているようだ。
死ねない自分を呪いながら崖に背を向け、やぶの中を歩き続けた。「毒蛇、オオカミか、クマがこの命、奪ってくれるはず」
遠雷が聞こえる。
日が昇り、日が沈んだ。水をすくい飲み、実をもぎ、喰らい、愛しい子供たちに謝った。
どうして私は食うん?
落ちているドングリを拾い集め、石でカラを割り、そのまま口に入れた。
子供たちのためにはドングリを粉になるまでひいて、蜂蜜を混ぜ合わせ、薄焼きにしとった。
死ぬなよ!
この声は何?
まるでこの心を突き破って出ようとしよる、もう一人の自分、身勝手なそいつが、この体を生かそうとしよる。生きる意味のない体を。
額を樫の木の幹にぶつけながら、手加減する自分に嫌気がさした。
かあちゃんは何につけても手加減なんてしなかった。
私のかあちゃん。女の子を二人産んだ後、男の子を産めんち、いろんな人に言われた。
もっと前に、森で女の子を拾って、手伝いにしとった。
その子が豊麗に成長したから、お父さんのところへ遣った。
その召使は男の子を産んだ。
かあちゃんは少しずつ、少しずつ、おかしくなっていきよった。
かあちゃんは半狂乱で祈っとった。それが男の子を産めん女に跡継ぎをもたらすっち噂になり、遠くからも、男の子を産みたい女が集まるようになっていきよった。
そしてある日突然、祈りの狂乱の中で息絶えてしもた。
あの頃のかあちゃんが言っとった。鏡に魔力を宿すには火の山の力が要る。遠い西の、火の山でできたもんやけん。
ここの火の山でいちばん大きかは、遥か昔、高天原に届くほど高く大きかったんが南東にあるとばい。
獣に引き裂かれないんなら、鏡よ、どうか私をその火の山へ導いちくれ!
雷鳴が近づく。
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