第21話 九州島 北西部
アスファルトで卵焼きができそう。眩しい。コンクリートが反射で真っ白。
改札を出ると広場の向こうに、葵の茎が大輪の花をすっくと高く掲げているのが見える。由希は自分の背も伸ばし駅を出た。
小学生のころ訪れた
この水の下、誰かがいる気がする。どこかに繋がっている気がする。
何かが思い出せなくて困ってるおじいちゃん、おばあちゃんって、こんな感覚?
火守りになる気はサラサラ無い。けど、思い出さなければならないことがある。ここに来れば、記憶が蘇ると思うから、来た。アイツに強制されたからじゃない。
橋を渡り切り、古い建造物、神門を通り抜ける。メンテナンスに使われた新しいヒノキから立つ癒しの香りを深呼吸した。
どこの古い建物の周りにもあるように、ここにも、延焼を防ぐためにイチョウが植えられている。先人の知恵。イチョウは水分が特に多い。高校のイチョウも見事だった。
境内を進み、手水で両ひじから先を冷やし、いな、清める。できるものなら
木を組み合わせた、伝統的な建築物が海の大波のように並ぶ光景を見渡す。
巫女さんは真っすぐにこっちに来る。百歳に見える。会ったことある人だ。
「由希ちゃんね?」独特のアクセントに懐かしさが蘇る。「大変なことになってしまったけん、由希ちゃんなら絶対ここ来よっち待っとったと」
丁寧な挨拶をしようとする由希を制し、柱の足元にある小さな板を持ち上げた。「三分待っとって」
驚く由希に手を小さく振ると、小さな体を余計に小さくして板の下に降りて行った。
上がって来たその手は何やら掴んでいる。
「この鍵、」巫女は顔の前で振った。「守る火がある場所に行くとに要るったい。火守り以外は、誰も行けんと。この鍵を使えんと」
「使えんと?」由希は違うイントネーションで繰り返した。「使えないと、どうなるんですか?」
「ここん言葉、忘れたこたござるね、」優しそうなしわを顔いっぱいに広げる。「使うことはできませんよ、ったいね」
「そういえば。おばあちゃんと長く話してないから」そういえば、アタシが外国語に抵抗ないのはおばあちゃんやパパの方言を聞いてたからかも。
「跡取りになるはずやった、あん子は」長い眉を寄せ、言いにくそうに言葉を濁した。
「私は小さいときから好きですよ、男っぽくて、さっぱりして」由希は父の妹を素敵だと思っていた。
「あん娘が鍵を使っても動かんかったと。おかしいとは思とったばって」そう言うと手に持っていた鍵を渡した。「由希ちゃんなら開くばい」
木と縄と石がストラップになっている鍵は優しい音を奏でる。
「わぁ、凄い古い合金。銅、スズ、鉛の合金かな? 錆びてないですね」この人が手入れしてるってこと?
「他ん人が触ろうとすると発火すると。こっちきんしゃい」
「は? 発火?」
老女は無視し、腰を曲げたまま、拝殿の周りを覆う森に入って行った。街を焼いていた太陽は高い木立に遮られ、街を蒸し焼きにしていた高圧の空気は土に吸収されてしまった。
大昔、地面が森に覆われてた頃はエアコン、要らんかったよなぁ。行ってみたいなぁ。
本殿を左に見ながら十分ほど歩くと、石で作った簡素な舞台が現れた。
「覚えとるね」標準語のアクセントには無い、謙虚な思いやりが伝わって来る。
「はい。古代のままの、本当の、神聖な場所って、おばあちゃんが」
「奥の院たい」
「建物がどこかに?」由希は辺りを見回した。豊かな樹々が清浄を保っている。
「ここたい」腰が曲がっているので、手がすぐに地面についた。両手で表面を広げるようにそっと撫でると古い金属の板が現れた。
「びっくり! これがその扉ですか、この鍵の」
「じゃろ。ほんとならこれを由希ちゃんに教えるとは、おばあちゃんの仕事ばって」
「誰が作ったんですか」
「大昔ん人が作ったっち」巫女さんが手の平をこちらに向けたので鍵を渡した。
「大昔?」
「そうばい。他に誰も入れん。わしら代々の巫女も、鍵、使えんとよ。ほら」巫女さんは鍵を金属板のくぼみにあてがう。「力の問題じゃなかとばい」
「腕の力なら自信あります」バタフライだってテニスだってできるもん。
「ふぅ」自分の背中を手の甲で軽くたたいて気合を入れた。「由希ちゃんがやってみんしゃい」
鍵を受け取った。「はい」
重力で吸い込まれるように、鍵が錠に入り百八十度回転できた。金属の重い板を持ち上げると縄梯子が暗黒に向かって垂直に垂れている。底が見えない。
「こわ……」
「由希ちゃんのおばあちゃんは、いつもマッチを持っていきよったよ。松明があるっち」
そう言うと袖の中からマッチ箱を取り出して由希に持たせた。「ハナグリ島の宮んこつば知らんとやろ」
「ハナグリ?」
「小さい島たい。こげんくらい」巫女さんが両手で丸を作って見せた。「ここ、本島でん儀式に慣れたら、直ぐに行きんしゃい。ハナグリ島の宮ん鍵は隣の女島の宮にあるとよ」
「おんなしま? どの辺にあるんですか? 玄界灘では聞かない名前ですね」
「玄界灘やないと。弥生人が渡来した海の道にハナグリ島も女島もあるっちき。この宗像は別の道。古事記にも出とる、
「ああ、だから、」由希はフィトンチッドに満たされた清々しい空気を深呼吸した。「アマテラスの口から洩れた息が霧になって生まれた有名な三人の姫は海路と陸路の守護なんですね」
「空も、今でいう空路も、たい。鳥は立派な戦術の一部たい。桃太郎のお伽話をばかにしちゃいけん。やけん三人ちゃ。古事記で、
「ということは、侵略者の治世を守るということですか? 私たちのルーツを? 私たちより立体的な骨格の、アイヌや
「そうたい。九州島の周りにある小さな島々、入り組んだ岬、入江はのぉ、何千年ものあいだ、今でいう、駅、みたいなもんやね」嬉しそうな笑顔を返す。昔は美人だったに違いない。
由希は縄梯子の先端を持ち上げて強度を確かめた。
「わしらんおおもと、正確には、」老女は背筋を伸ばした。四十歳は若返って見える。「勝者の男と敗者の女の間にできた子供らがうちらの成り立ちやねぇ。やけん、古事記の神代記で、女神たちがあんだけ強いち記録されとるんには裏があるとばい」
「
「何千年も前だけの話やないとょ。わしが若い頃にも、
「見えたんですか?」皺に隠れた鋭い瞳を覗き込む。
「ああ、見えるけ、そいやけん、巫女たいね。もちろん、由希ちゃんのばあちゃんもたいね」
「どうして、この一部の人にだけ見えるんですか?」
「血やね。今ん人の外見は、もう、誰んでん、同じばって。ハナグリ島も女島も、負けたもんの血を持たんは入れんと。男はみいんな、入れん。潮が海底に引きずり込むと。どんなに偉か人でも」
「列島民の魂を吸い込んだ火の山を鎮めることで、
遺伝と言っても、ミトコンドリアDNAは関係ないのね。女系だけに引き継がれるしるし。血縁でいってもアタシとおばあちゃんの間はパパだもんな。卵子に入った精子のミトコンドリアは排除されてしまうからミトコンドリアのDNAは母親のミトコンドリアDNAを引き継ぐ。
「由希ちゃんのばあちゃん、とんでもないことをしたばい」巫女は由希の質問を無視した。「火守りとしての血を絶やさぬためやったんか、それとぅ、孫、可愛さだけやったんか、わからんばって。とにかく、世界が変わったのに、わしが生きとうとは、由希ちゃんに鍵を渡す意味ば伝えにゃちことやね」
「世界が、変わった?」途切れた記憶の向こうの端が脳内でくっつきかけている。
縄梯子を両手で握り締めると、右足の踵を扉のふちにかけ、左足裏を壁にあてがった。
「時間が戻って、別の時間が流れ始めたっち、世界の誰も気が付いてないばってね」
「あ、並行世界? そのことについて伺いたいです」その瞬間、自分のものではなかった記憶が、今の自分と繋がった。「その、意味、のことですね?」
「ヘイコウちゃ何かしらんばって。ここは地下にある水で遠くの火の山ともつながっとうと。世界中の火の山ん中にもたくさんの魂が、消された民の魂が、入っとうとよ」
頭の中で通信が始まった感じがする。でも、蒸し暑くて思考力が負けそう。「行ってきます」アタシの過去のヒントも、入っとう気がする。
十メートル以上、縄梯子を降りた? 空気に時間の濃さが加わる。小さな金属の板が岩石層の一部にはめ込まれていた。
また扉?
押すとスッと開いた。体が大きいと通り抜けることはできない。通り抜ける前に上を見上げた。青空と巫女さんの着物の端が見える。
井戸の底からの景色みたい。
巫女さんは待つ間、座ることにしたらしい。
おばあちゃんは誰にも伴われないで来てたなんて、信じられない。
漆黒の闇からひんやりとした微風が流れてきた。くぐり抜けた金属の板が勝手に締まるのが怖くて、開けたままにしておけないかと辺りを見回す。蝶番に仕掛けがあることを発見して安心した。
安心して奥を観察する。
手前の、見える範囲は岩ばかり。
ここ、進めってってか?
水蒸気の層が肩の高さに浮いている。雲が薄くかかっているようで、上と下で湿度も気温もはっきりと分かれている。
その層が、肩の高さからゆっくりと水平移動して由希の眼の高さになった。
まるで身長や体格を水が診断しているように感じた。
おばあちゃんの眼の高さはアタシの肩くらい。
暗闇に目が慣れた。奥、内側に
これが守るべき火じゃないよね。それにしても、おばあちゃん、ここまで進んでたってこと?
ありえない、特にあのおばあちゃんには。でも、涼しくていいわ。
松明に火を点し、足元だけを見ながら数歩進んで立ち止った。滑りやすい。松明を掲げるとそこは鍾乳洞だった。湿った匂いがいつの間にか消えている。
天上は三メートルほどか。大自然が作ったシャンデリア群がオレンジの光に照らされ輝いている。ところどころシャンデリアの先端が地上の円錐と繋がって細い石柱ができている。
なにこれ? 古代の人が作れるわけないじゃん。元からあったんじゃん。
始めの恐ろしさも忘れ、細い石柱の間を縫って歩を進めた。
外の蒸し暑さがウソみたい。
脳みそが記憶の糸を手繰り寄せ始めた。
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