第18話 ニニギ

 暗闇の中、小さな炎の揺らめきが温かく感じられる。


 由希は夢の中で、もう起きる時間だとわかった。


 でも今日はいつもと違う。修道女たちが詩篇を歌う声が聞こえない。


 夢の中の炎が激しく揺れた。驚いて目を開くと視界の隅に、狭い部屋の隅に、鋭い目をした長身の男が立っている。ギョッとして細いベッドから飛び起きた。


「運命だ」秀でた額にV字型のキズがある。「使命だ。わかっているのか」イタリア語だ、アタシよりよっぽど滑らかな。長身で強そうな顎。分厚い肩。以前にしゃべったモンゴルからの留学生に似ている。

「どうやってここに。誰!」恐怖で由希の全身が凍り付く。


 ドアのカギを操作できるのは自分のスマホだけ。解った、昨日、仕方なく街カフェのWiFiを使った。こいつはあのとき近くにいて、カフェのWiFiに見えるように名前を偽装したんだ。スペルを一文字一文字、確認しなかった! アタシとしたことが! ってことは、アタシの後をつけていた? いつから?


 由希の部屋は最上階から更に屋根裏に登らなければならない。その細い階段は壁と壁の隙間に隠れるようにある。女子修道院にこの男は目立ちすぎる。


「我は君臨する者。三千年前からいる。そなたは火を護る女」低い声で囁いた。「そなたは居るべきところに戻らなければならない。火の山を司る神の火へ」


 ナニ言ってんだこいつ? 火をマモル? 由希はその言葉に聞き覚えがあった。


 おばあちゃんは九州の玄関って呼ばれる宗像むなかた神社で火を守る家系だった。小学生のころ、年に二回、行ってた。でもこんな時代錯誤なしゃべり方オトコがおばあちゃんに関係あるわけない。


「そなたの祖母は一族の血を絶やさぬためにおのれの命を捧げた」

「命を捧げた?」これは夢? リアルな夢。由希は男を観察した。靴。丁寧になめした革を細く裁断し、紐のように組んで一見、ただのスタイリッシュな革靴にしか見えない。エルメネジルド・ゼニアじゃん。三千歳だと大金持ちになれる?


「そうだ、我ら祈りの一族が、臣民の安寧を維持する祈請に欠かせぬ火を護ること、それがそなた一族の使命だ」

 黒いジャケットが体に沿っている。アルタモーダ仕立て。


「使命? 私には関係ない。私の人生は私のもの」そう言いながら武器になる物と逃げ道を探した。黒目が動いて察知されないように。


「おのれが一番大事だと思っておるな」薄い眉毛の左側を憎たらしく上げた。

「そんなわけじゃないけど。でも」男のペースに乗せられそうなことに気がついた。「当たり前じゃない。誰だって。生物はそういうもの」窓まで二メートル、屋根に出たら叫ぶ?


「人間以外の生物は自己保存より種の保存だ」由希の心を読むように男も窓を一瞥した。


「とにかく、あんたのいう臣民が何だか知らないけど、あんたのために私がどこ一ヵ所に閉じこもって生涯を過ごすつもりはない」つたないイタリア語が口を突かなくなり、ドイツ語が出てきた。

「個人の自由は社会の崩壊」そいつもドイツ語に換え、腕組みを開いた。


 ドイツ語も、アタシよりずっと流ちょう。何ヵ国語を習得? でも、どれも、大人になって学んだ発音。

 変化に対応できることが成功、って、高校の入学式で聞いた。


 こいつは生まれる前から成功者っぽいけど。

「あんたの臣民のために犠牲にはならない」左手がいつの間にか枕の端を掴んでいた。これで盾になる?


「そなたが、体内に発生した新生物に体を乗っ取られ命を失う瞬間、そなたの祖母が命を犠牲にして並行世界に全世界を移動させた」

「パラレルワールド?」高校の頃、頭を占めていた懐かしい言葉に緊張が解けた。


 アタシの体内に新生物? がん? 緊張に再度、囚われる。


「彼女は、その上時間を十八か月遡らせた。新生物増殖の引き金を引かせないためだ」

「祖母を本当に知ってるの?」


「そなただけが、火守り一族の後継者であったのに命が奪われようとしていた。そなたの祖母は、奇跡を起こそうと、火の山に閉じ込められた島々の原住民たちの怨念を揺り動かした」男は細い目をより細くさせる。


 由希は記憶の糸を辿った。高一の一月、激しい揺れが世界中で起こった。

 世界中の人間が一瞬、意識を失った。

 あの時のこと?

 おばあちゃんが死んだ理由、そういうことだった?

 アタシが何だったって?

 アタシの記憶は。

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