第16話 天使の輪

 大学生生になったヒカルは初めての夏休みの一ヵ月前、両親に宣言した。「この休みのうちに、お姉ちゃんを見つける。会って来る。旅費はバイトで貯めた」


 お姉ちゃんはおれが六年の一月、用事に出て行ったきり帰ってない。家族への連絡は年に数回しかない。スイスのETHチューリッヒにいるって。それが何なのかさっぱりわからん。

 おれが五年のときから、お姉ちゃんが『何か』やってること、おれは知ってた。「心配しすぎて反対されるもんで」っておれには打ち明けてくれた。「ホントの理由はリヒテンシュタイン公国への憧れ」って。見てる英語のウェブサイトがスイスの留学生用総合入学試験と奨学金のリンクって教えてくれた。物理やりたいって。今ならわかる、すげぇ。


 どうも、本当に、お姉ちゃんはただの能天気でマイ・ウエイを突き進んでいるらしい。何かのBGMで聞いた古い歌が頭の中で回った。おれはこの曲のフランス語の原曲の方が好きだ。歌詞の内容だって英語版みたいな自分勝手じゃないし。

 その原曲を教えてくれた大学の友達。入学式の日、学生番号が隣で知り合った。その後も番号のせいで何かと顔を合わせ、いつも喋りだして止まらない。十九年生きてきた中で一番、話しができる相手になった。趣味が合うわけじゃない。そいつはヘビメタの信者だけどおれは聴かない。でもそいつがしゃべるヘビメタの話は転げるほど笑える。おれは保育園のときに自作した歌、「ハッピー星人」を十歳以降、初めて歌った。すげぇ上手く合唱してくれた。恋愛感情のようなものがあるわけでもない。お互いに好きな異性のことまでしゃべってる。

 ヒカルが心を奪われている学生にはいつも取り巻きのアメフト部員の壁がある。声を聞いたことさえない。

「雄ライオン集団に守られたライオン女王って感じ」

「アンタはトムソンガゼルやね」唯一の親友は三重弁のリズムで喋る。

「何それ」

「鹿、かなぁ」

 鼻息だけで返す。「あんな綺麗な長い髪を見たら触りたくなる、ホントにやったら犯罪」五十メートル向こうにそびえる女王の後姿を目配せしながら五十センチ隣の親友にささやいた。

「アハハッ、せや、犯罪やで。アンタの髪にも天使の輪、出来てんで、短いのに。あたしの髪があんな綺麗やったら化学専攻の彼も振り向いてくれるんかなぁ? あたしも高望みし過ぎやてわかってんけど。でも、アンタにはできやんことやないと思うよ」

「関西弁はリズム、快活でいいな。テレビでは馴染んでるけどさ。目の前で、生でしゃべってる人はアンタが始めて。雷で撃たれたくらいの衝撃」おれもどうも標準語は喋ってないらしい。母国語は封印したつもりなのに相手の目が丸くなることがしょっちゅうだ。

「テレビの関西弁って、十把一絡げな。同じ三重弁でもウチらと伊勢は違う」

「大波に揉まれてんのに、嬉しそうに跳ねる感じには聞こえる」



 お姉ちゃんのたまの連絡はおれへのネット通話。こっちからメッセージを何度送っても返事をしない。背景が同じだったことは一度もない。毎回メガネはかけていない。高一の八月終わりに始めたコンタクトレンズか? 最後の連絡は十四ヵ月以上前だった。

「イタリアにおるで。去年から。ウニヴェルスィタディローマサピエンツァってとこ」お姉ちゃんの物言いは変わらないけど早口になってる。

「ウニ? ローマ? はぁ、旅行かぁ」パパの背中が伸びて三秒後にまた脱力した。


「うぅん。ローマ大学サピエンツァ校。薬理学で面白い教授がおって。その研究室におる」背景の天井は高いらしい。濃い板壁がやけに上まである。

「やくりがく?」パパが聞き返した。


「あたしチェザーレ・ボルジアの後輩になる」お姉ちゃんの声が生き生きしてる。その声でパパとママの目と鼻が赤くなってきた。


「何百年も前の人やん」おれは知ってるぞ。受験が無いと勉強なんか絶対にしんけど、受験のせいか、知識の点がつながることが増えた。「あ、ボルジアって、毒薬で有名な? だから薬理学?」

「まあ、そういうこと。ってことにして、元気でやってるからパパ、ママ、心配しんくていいよ」


 画面の奥を修道女のような恰好の人が横切った。

「どんなとこに住んどるん?」ママが尋ねた。


「女子修道院! すごいやろ! 聖書を読んでいて不思議に思う事がたくさんあるってドイツの教授にゆったの。そしたら、ここ、紹介してくれた。すっごい楽しい」

「じゃあ、安心していい、ってことよねぇ」ママが頭を左右に軽く振った。許容範囲を超えていようがいまいが理解しようとしてるらしい。


「いいよー」小学生のような言い方をした。

「そんなこと言ったって、ママは、」おれが「心配のあまりリンパ腺が何度も腫れてんだぞぉ」と言おうとしたら、パパが画面とおれの間に頭を入れた。

「ママもパパも元気、好きなことに好きなだけ打ち込んでればいい」パパに場所を譲って、その横顔を眺めた。演技派俳優が作るような笑顔で娘を安心させようとしてる。「こないだは、ちょっと痩せてたからホントは心配したんだけどね、今は元気そうで安心した」


 ママは変人だからか、おれらが小さいときから、「親に心配をかけるのは親をボケさせないための親孝行」って言う。だからお姉ちゃんは好きなことに邁進してんのか? 心配が原因でパパは血圧があがってるし、ママはメヌエル氏病になった。このまんまじゃ、確かにうちの親は絶対、二十年後もボケてらんない。




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