青麦と橙(一)

 二人が下る斜面には細く尖った草がぼうぼうと生い茂って、その隙間に色とりどりの花が咲いていた。二人の腰の高さほどもあるその草むらを、かき分けていく。

 握った手を離す機会を失ったまま、ウルリヒはずっとテルネラの手を引いていた。急な斜面は歩いていて怖いのか、テルネラがそっと手を握り返してくれたことが、胸がじんと疼くくらいに嬉しかった。ウルリヒは、テルネラの小さな息遣いに耳を澄ましていた。

 不意に、テルネラの手を引いていた左の腕が突っ張った。ウルリヒは振り返った。テルネラは立ち止まって、目を大きく見開いたまま遠くを凝視している。

「何見てんの」

 テルネラは僅かに瞳を揺らしたまま、答えない。テルネラの視線の先を追いかけると、斜面に伸びた太い木の枝の先で大輪の藤の花がたわわに揺れていた。

「ああ、藤か。綺麗だな」

 ウルリヒが呟くと、テルネラは擦れた声で言った。

「私のいた場所にも、あったよ。藤の花。長老さまが好きなお花だった。あの人はいつも藤棚の奥に隠れて、滅多に姿を見せなかった」

「藤棚?」

「うん。殻の木で屋根を作って、そこに藤の蔓を巻きつけたの。みんなあの人のことを怖がってたけど、あの人……ほんとに怖い人だったのかな。私には、よくわからない」

「長老って、老人?」

「うん、そうだね。結構年を取っていたよ。葉巻を吸ってたせいもあると思う。肌にたくさん皺が刻み込まれてた」

「じゃあ、おれ、会ったことあるかもしれない」

 ウルリヒは、藤の簾の奥に透ける、遠い海の青を眺めながら呟いた。

「良質な真珠のためには人の肉が必要だとか、この大地の木が必要だとか、自分勝手なことばかり言ってた。だからおれは腹が立ってしょうがなくて、焚火の松明を持って、あいつらの肌に火を押し付けたんだ。何人か火傷して、逃げていったな。でもおれは謝らないよ。あいつらはおれの大事な人を食って、死なせた。たくさんの人を食い散らかしていった」

「ごめんね」

 テルネラが、ウルリヒを見つめた。

「みんなが人を食べたのはきっと、長老さまのせいだと思うの」

「え?」

「長老さまが、そうするものなんだと教えたんだと思うの。そうでなければ、思いつかないよ。あの人が一番長く生きていたんだから」

 テルネラはもう一度藤の花を見つめた。

「でも……あの人、私と一緒に貝を食べた時、なんだか嬉しそうだった。少しだけ涙ぐんでた。どうしてあんな顔をしたのかよくわからない……あの人はきっと、私がコエナシモドキだって知ってた。知ってて、私を生かしていた」

「……そんなに悪いやつじゃないって言いたいわけ?」

「そうじゃないよ。私にとっては、命の恩人の一人というだけ。あの人はオログと私の嘘に付き合ってくれてた。なんとなく、そんな気がする。私……長老さまの友達に顔がよく似ているんだって」

「は?」

 ウルリヒは眉を潜めた。テルネラは頭を振った。

「私たちはね、親とかあまり関係なくて、産んだら産みっぱなしだし、子供は勝手に育って、同年代の子供たちと一緒に木の洞で眠って生きていくんだよ。同じ洞で生きてきた子供たちは、人間にとっての家族と同じようにつながりの深い間柄になるの。私の場合は、それがオログだった。私は幼いころからオログと二人きりだった。オログはわたしがコエナシモドキだと悟られたくなくて、早々に私を他の子供たちから引き離したんだと思う。だから私にはずっとオログが全てだった。同じように、きっと長老にとっても、幼い頃を一緒に過ごした二人が全てだったはずだよ。私はその二人の子孫に違いないって言ってた。私は多分、ただそれだけの理由で生かされたの。他のコエナシモドキは食べられちゃったんだろうに。私って、運がよかったんだ、きっと。長老さまが見逃してくれて、ずっと守ってくれるオログがいて……この土地に来てからは、異形の私をウルリヒがずっとみんなから守ってくれてる」

 テルネラは足を上げて、草をくしゃり、と踏んだ。

「不思議だな……貝の末裔の陸にあった草は全部白く透けてたの。緑の葉っぱなんて一つもなかった。木の葉も透明だった。なのに花だけは……藤の花、紫陽花、露草、菫……お花の茎や葉っぱだけはここと同じで緑だった。今思えば、すごく奇妙だね。あんなに真っ白な世界だったのに、お花だけは人間の世界みたい」

「紫の花は……」

 ウルリヒは促す様にテルネラの手をそっと引いた。テルネラは大人しくついてきた。

 ウルリヒは、セルネウから何度も聞かされてきた、村に伝わる昔話をテルネラに話して聞かせた。一言一句違わず、よどみなく浮かんで、口から零れた。話しながら、少しだけ喉が詰まった。あの頃はうっとうしかったこの昔話が、今はとても優しい物語のように感じられる。

 私が聞いていた話とちがうと言って、テルネラもまた、お伽噺を聞かせてくれた。ウルリヒが聞いたことのなかったそれは、あの吟遊詩人がテルネラに聞かせた物語だという。ウルリヒは胸が苦しくなるのを感じた。彼が自分の意思で楽器を奏でたことは一度もなかった。楽器を肌身離さず抱えていながら、その指が命令以外で弦を弾くことはなかった。そんな彼が、テルネラとオログの前では歌った。そしてその物語を、テルネラの口から、今度は自分が聞かされている。

「その吟遊詩人は……食べられてしまった時、何を考えていたんだろうな」

 テルネラはそっとウルリヒの顔を見つめた。

「わからないよ」

 テルネラは静かに応えた。

「あの時は気が付かなかったけれど、あの人は私たちと話している時もずっと、少しずつ少しずつ体を食べられていた。きっと苦しかっただろうに、あの人は私とオログには笑ってくれた。少なくともあの人は、私とオログを恨んでなかったんだと思う。同情してたんだよ。貝の末裔はかわいそうな一族だからって、憐れんでいたの。人間が憎いと言って食べる私たちを、痛ましい目で見つめていたんだ。私、今はあの目、嫌いだな」

 ウルリヒは、小さな息を上げるテルネラの横顔を見つめた。

「まるでこうなることがわかってたみたい! オログは木になっちゃって、私は食べられはしなかったけど、帰る場所を失った。他のみんなは今でも陸に残って、人を食べるしか能のない化け物で居続けてる。憐れまれて当然だよ。でも、私は、そんなのはいやだ」

 テルネラは、膝を折って、はあ、と荒い息を吐いた。ウルリヒは立ち止まって、テルネラの呼吸が落ち着くまで待っていた。

「紫の花は、神様にもらったんじゃないよ。私たちの目の色に似たそれを、貝の末裔が、この大地に来た時に持って帰ったんだ。私たちはそう聞いてるよ。持って帰った花たちが種をまいて、根づいたんだ。私たちはずっとこの陸に憧れて、少しずつ持って帰ろうとしているんだよ。人を食べるのだってきっと、おいしいからと思い込まされてるだけで、本当は私たちは人間になりたいんだ。だから、今のやり方は間違ってる。私みたいなコエナシモドキが何を言っても聞いてもらえないかもしれない。でも私は、やっぱり間違ってると思うんだよ――ああ、すごい、ねえ、緑色の海みたい」

 テルネラが顔を輝かせた。ウルリヒは前方を見つめた。眼下に広がる世界には、瑞々しい小麦の穂が風に揺れて、海原のようにさざめいている。

「綺麗だね」

「秋になれば、もっと綺麗だよ」

「え?」

「秋になると、あの緑が全部色を変えて、ここは金色の海原になる。小麦畑っていうのはそういうものなんだ。ほら、あの藁ぶき屋根みたいにさ、いや、もっと色鮮やかに金色の世界が一面に広がるんだ。キラキラ光って、綺麗だぜ。港にいたら見られない光景が、内陸にはまだまだたくさんあるし、おれが行ったことがないだけで、この世界にはもっとたくさんの綺麗な風景があるはずだ」

 テルネラが溜息を零すのを聞きながら、ウルリヒは目を閉じて、また開けた。

「貝の末裔の陸も、おれは結局見たことがないから……お前が見てきた世界がどんなものなのか、知らないな。貝殻の木だって、なんとなく想像はできても、実際とは違うかもしれない。白い草なんて想像もできない。きっと、神様がいそうな世界なんだろうな。現実味がなくて」

「私からしたら、人間の世界がずっと幻想的だよ」

 テルネラは笑った。

「すごいなあ、金色の海になるんだ。どんな感じなんだろう」

 ウルリヒは、テルネラの輝く赤紫色の瞳を見つめながら、長い睫毛を揺らした。

「おまえ、やっぱりここにいてくれる?」

「え?」

 ウルリヒはテルネラの手をとって、指を絡ませた。伏せた目を覆い隠す様に、睫毛が揺れる。

「王さまには、おれが一人で話してくる。おまえ、元々あの人のこと苦手だろ」

「でも、そしたら私を連れてきた意味がないじゃない」

「いいんだ」

 ウルリヒはまっすぐにテルネラを見つめた。

「いいんだ」

 ウルリヒはそっとテルネラから手を離して、くるりと背を向けた。がさがさと草を踏みしめて、ゆっくりと斜面を下っていく。

 テルネラは追いかけて来なかった。


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