緑と花(三)

「おかえりなさい」

 花の咲いた簾に手をかけたところで、洞の中からテルネラが声をかけてきた。

 簾を避けて中を覗けば、テルネラは露草の花びらを一つ一つ千切って鉢の中に入れていた。その膝の上でたくさん露草がばらばらに散らばって、白い服を青く汚していた。

「それ……何、してるの」

「花弁をすり鉢で擂って、粉にして、水に溶かして、お化粧用の顔料にするんだって。昼間全部終わらなくて、持って帰ってきたの……」

 テルネラは、手を休めて小さく息を吐いた。額には汗が滲んで、疲れているようにも見える。それでも、楽しそうだった。

「楽しい?」

「うん」

 テルネラは頷いた。

 オログは簾から手を放して、テルネラの前に片膝を立て腰を下ろした。見つめ合って、先に口を開いたのはテルネラだった。

「……あのね、オログ。今朝は、勝手なこと言ってごめんなさい」

「いい、謝らなくて」

 オログは視線を伏せる。

「働けるの、楽しい?」

「うん」

「貝を食べてでも?」

「……うん」

「今日も食べたの?」

「……うん。食べた。湖の底で、とってね、食べたよ。みんなで」

「そっか」

 オログは、薄く笑った。

「テルネラ、僕を諦めてくれる?」

「え?」

 訝しむような声。オログは一瞬だけ視線をあげ、テルネラの瞳の紫陽花色を目に焼き付けた。そしてまた、目を逸らす。

「僕を諦めてくれたら、テルネラはずっとここにいられるよ。貝を食べて、みんなと一緒に働ける」

「何、言ってるの?」

「僕は【女神の贄】だから、いつかここを離れなくちゃいけない」

 オログは、鉢の中に埋もれる露草の花びらを鷲掴みにして、ぱらぱらと床に撒いた。

「オログ……せっかく集めたのに、拾いにくくなっちゃうよ」

「うん」

 オログは虚ろに微笑んだ。わざとだった。

「ここを離れるから、ずっと一緒にはいられない。僕がいなくなったら、テルネラがコエナシモドキだってばれてしまうかもしれない。そしたらお前は、一族に食い殺される」

「何、言ってるの……?」

 テルネラは声を震せた。だからオログも、口の端を釣り上げた。

 声を零さないように、息だけで笑った。

「コエナシモドキは同胞じゃない。だから食い殺す。殺して食って、真珠の糧にする。そうしてこの一族は栄えてきた。嘘だと思うなら聞いてごらん。みんな平気な顔で言うよ。『当たり前だろ、食べるに決まってる』ってね。涎を垂らしてそう言うよ。あいつらは、コエナシの肉が好きなんだから……ねえ、テルネラ、覚えてる? ずっと昔、旅人が来たろ。黒髪の、楽器を持った人が」

「うん」

 テルネラは、真っ白な顔をこわばらせて頷いた。

「いつの間にか、いなくなっちゃったよね。覚えてるよ。あの人は旅が好きだから、出ていっちゃったんだろうって、思って……」

「違う。あれは、うちの大人たちが全部食べたんだよ。肋骨も足の骨も手の骨も、細い骨は全部余さず食らってた。白い真珠を赤い血だまりにぼろぼろ零してね。お前が寝ている時のことだよ。だからいなくなったんだ。でもテルネラは気づかなかったでしょう? 僕が、テルネラが傷つかないようにって、大人たちが食い散らかしていった骨も肉の欠片も血も、全部全部片づけたから。海の中に、捨てた」

 オログは、もう一度露草の花びらを掬い取って、床にばらまいた。

「旅人の血だまりの中で吐いたのがこの白い真珠だよ。だからこれは僕がつけたんだ。お前にあげるわけにはいかなかった。この白真珠は、僕の戒めだったんだ。僕は絶対に、あんな汚い大人にならないって。でもねえ、テルネラ」

 オログはテルネラの頬に触れた。テルネラはぎゅっと目を瞑った。だからオログは、触れた指先を離して、うずくまる。頬に、腕に、額に、バラバラになった露草の花弁がしっとりと貼りつくのだった。

「僕はねえ、コエナシの肉を食べたんだよ。結構ねえ、美味しかったんだよ。生臭くて最悪だったけどねえ、確かに、美味しかったんだよ。あれを食べちゃったら、殻の木なんて、まずくて食えたもんじゃないよね」

「やめて……」

 テルネラは、ぎゅっと目を瞑ったまま、はらはら涙を零した。だからオログも顔をあげて、テルネラの涙をぬぐった。爪に張り付いた露草の花弁がテルネラの涙に濡れて、オログの指先を青く染めた。

「僕はねえ、これ以上、化け物にはなりたくないよ」

「オログ、オログは、みんなのこと、化け物だと思うの?」

 テルネラは苦しげに体を二つに折って、掠れた声を絞り出した。

「そりゃそうだよ。だって、お前だって覚えてるでしょう。旅人さんは、髪と目の色が違うってだけで血も赤いってだけで。真珠を零さないってだけ。お前と何も変わらなかった。お前を僕が食べて、涎出して食べて、美味しいって言うのと同じなんだよ、テルネラ。ねえ、テルネラ、貝を食べることも、コエナシを食べることも、僕にとっては一緒だよ。僕は最初の誓いを破ってコエナシを食べたから、こうして角が生えたんだ。お前は化け物だよってね」

「オログ、やめて……」

「でも、テルネラはそれでもいいんだろ? それでも、貝を食べてでも、ここで生きていたいでしょう。じゃあ、お別れだよ。だって、僕がいなくなっても、シュークがお前をつがいにもらってくれるってさ。それとも、コエナシモドキだって気づかれて、食われてしまうかな? どっちだっていいよ。僕はここを逃げるからね」

 オログはにっこりと笑った。

「もう、沢山だ」

「どうして、そんな風に、笑うの?」

 テルネラは、涙を花弁のように零しながら、オログの目を覗きこんだ。

 ああ、テルネラの瞳に、僕が映っている。僕の瞳にもきっとテルネラだけが映ってる。そのことを、ちゃんとわかればいい。ねえ、ばかなテルネラ。

 オログは、首を傾げていっそう笑った。

「や、やだよ」

 テルネラはオログの袖を弱々しく掴む。

「私、真珠を零せない代わりに、オログの傍にいるって決めてたもん……ちゃんと伝えたでしょう? 聞いてくれたでしょう? 私、あなたの、瞳の色を――」

「さあ」

 テルネラの手に、指を絡める。

「ここを出たら、お前は僕のつがいではなくなるから、あの言葉だって意味がなくなるよ」

 テルネラの唇が、震えている。

 オログは、そっと指を解いてみせた。テルネラは俯く。それを見て、オログは立ち上がり、今度は鉢の中身をひっくり返す。

 青い花びらがテルネラにはらはらと降り注いだ。白い髪にいくつも引っかかって、まるで花嫁衣装みたいだった。

 ――可愛い。

 オログは、伝えられない言葉を飲みこんだ。

「どうしたら――」

 テルネラは声を絞り出す。

「どうしたら、離れないでいてくれるの」

「僕はそのうち海底樹になるんだって。この大地と、コエナシの大地を支える木になるんだ。またこの角は体中のあちこちから生えてくるよ。だからきっと、僕はいつかはお前の前からいなくなる。それが、遅いか早いか……それだけの話」

「他の人のつがいになるなんて嫌だよ。嫌に決まってるじゃない。それなら私、オログに食べられる方がずっと――」

「嫌だ」

 オログは針を刺すように言った。

「僕に、それを言うの? テルネラ。軽蔑するよ? 僕は、二度と、二度と、二度と、同胞の肉なんて食べたくない。それがたとえテルネラでも――テルネラだからこそ、絶対に嫌だ。そんなことをするくらいなら、今ここで自害して、世界も救わず誰一人救わず、一人きりで死んでやる!」

「やだ」

 テルネラはオログに縋りついて、頭を振った。

「そんなこと言わないで。行くなら連れってって。やだよ。ここに一人で残りたくなんてない」

 オログは腰を屈めて、テルネラと視線を合わせた。冷たい眼差しを装って、笑った。

「でも、普通になりたいんだろ」

「オログがいなきゃ意味がない……」

 テルネラの眦からはまた一滴、涙が零れた。紫陽花の色が、涙で輝いて、真珠よりもいっとう綺麗な宝石のようだ。

「はは」

 オログは乾いた笑みを零した。

「僕ねえ、花の摘み方しか知らないんだ」

「オログ?」

「花を枯らすしか能がないんだ。千切って千切って、」

 オログは、テルネラに弱々しくしがみついて、ずるずると下にずり下がった。額がテルネラの膝にぶつかって、青い花弁が唇の隙間に触れる。それを食んで、オログは目を閉じた。

「一緒に、逃げよう、テルネラ」

 ごめんね、と呟いて。


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