モラトリアムのばかやろう

藍雨

モラトリアムのばかやろう


 居酒屋で馬鹿騒ぎをしてついに追い出された午前一時四十五分、べっとりとうっとうしい熱気が首のあたりに停滞している。うるさい、熱気は、うるさい。

 よくわからない名前の日本酒がまだ、喉の左奥を締めつけている。要は、吐きそう。気持ち悪い。ふらふら歩く。夏の熱気のなかを、水のなかを歩くみたいにして、ふらふらと。泳ぐように、ふらふらと。

 居酒屋を出て何人目かの酔っぱらいとぶつかる。すみませんと口のなかでつぶやくと、手をつかまれた、突然、ぐい、と。

「ちょっと、ねえ、羽柴?」

 誰だ、こいつ。同年代の女特有のきつい香水のにおいがしない。インナーカラーの青が、涼しげで、驚く。ところで、誰だ、こいつ。

「ひさしぶり、ねえ、わたし、三矢」

 こんな夜にふさわしい、あのちょっとあまったるいサイダーのことを思い出す。でも、そうじゃない、思い出した。

「……中学んときの」

「記憶力やばいね、というか、酔いすぎだよね」

 やばい、って、たぶん、だから、すぐに思い出せなかったことが、やばい。仕方ないだろ、まだ、脳みそが揺れている。

「こんな時間にこんなところで会うなんて、ちょっと、運命っぽいよね」

 笑ってる。笑うなら、言うなよ。

「飲み会だったの? わたし、さっきまでバイトしてたの。今度来てよ、サービスするよ、バイトにできる程度のことだけど」

 よくしゃべるやつだ。そういえば、そうだったな、と、思い出す。

「こんな時間までよく働くな」

「まあね。ほしいものが飽和してるの」

 立ち止まっているのも、なんだか気になって、どちらからともなく歩き出す。しゃきしゃきと、うつくしく背すじをのばして歩く三矢の髪にものたりなさを覚える。そうだ、このセミロングは、昔はもっと、長かったのだ。

「そんなにふらっふらになるまで飲むなんて、羽柴けっこう、無計画だね」

「八時からずっと飲んでたんだよ、計画もくそもない」

「わたしまだ誕生日来てないから、飲めないんだよね、居酒屋とかで、ぱーっと、みたいな感じではさ」

 家でちびちび飲む、くらいのこと、もう、やってるらしい。まじめな声が、「羽柴君」と呼ぶ。リフレイン。

 しばらく、他愛もない近況報告をする。わかったことは、おなじ大学の学生だってこと、くらい。世間話をふくらませて、それなりのテンションで盛り上がる、大学生としての、無意味で、価値のある対話技術。

「今まで、全然、会わなかったことが、不思議だよねえ」

「学部も違うし、キャンパスも違うし、そんなもんだろ」

「でもね、会えてうれしいよね」

 ゆるやかに微笑むくちびるが、昔みたいで、懐かしさがぶくぶくとわきあがる。

「お互いちょっとずつ変わったよねえ、変わってないところも、あるけど」

「そうだな」

 どこが、とは、訊かない。そんなことは、それぞれの、印象の話。

 すっかり酔いがさめて、冷静になる。大学のそばまで来ると、橋のむこうで口論する声が聴こえる。酔っぱらい大学生の、若さに満ちた、怖いくらい眩しい空間。

 若さ。やっと二十年、生きた。高校生をみて若いと感じる俺のことを、それでもまだ、若いんだから、となだめる大人たちの顔がちらついて、むかついた。

「ちょっとさ、二年、って、信じられないよね」

 将来の話、卒業後の話、それらから漂う、希望と絶望のにおい。鼻をつまんだって無駄。俺はそのにおいをもう、覚えている。

「羽柴は理系だから、なんて、思うけど、でも、関係ないよね」

 文系の三矢がわざとヒールを打ち鳴らす。関係ない、お先真っ暗、ということ。

「中三のちょうど今頃なんだけどさ」

 ふと、思い出したことを、そのまま、口にする。夜は、それだけで、ひとを饒舌にするおそろしい時間だ。

「進路希望調査の用紙を紙飛行機にしてる漫画の主人公にやけにあこがれて、三矢も、紙飛行機、折ってただろ」

「……あー、うわ、懐かしい、ちょっと、照れるね、なんていうか、こども」

「俺は、でも、今でも、まあまあかっこいいと思うよ、あれ」

「まあまあ、かい」

「結局、ていねいにアイロンかけて、しっかり第四希望まで書いて、提出してたし」

「そりゃ、紙飛行機折ったら、満足したから」

「だから、まあまあ」

「くしゃくしゃのまま提出してたら、満点だった?」

「百二十点」

 すがすがしいほどの馬鹿笑いが、しいんとしずかな夜空に反響する。若いってだけで羨ましがられて喜んでいられた自分はもう、いない。夜にはそれが、よく、わかる。どこに行ったんだよ、って、ぼんやりまた、思う。

「大学二年ってさ、だいたい、モラトリアムの真骨頂だよね」

「あと一年でそれもおわりだけどな」

「わたし、高卒で就職した友達に、気楽でいいねって、言われたんだ」

「ぶっ飛ばしたくなるな、それ」

「そうでしょそうでしょ」

 なにが気楽なもんか。モラトリアムのばかやろう。

「その子は自分で選んで就職したのに、見下すんだよ、遊んでばっかりって。遊びたくて大学入ったんじゃないのに。ほんっと、腹立つ」

 ひとそれぞれの、モラトリアムがゆるされることもある、十九歳だの、二十歳だの、ということ。そして、なにを選ぼうが、どうしようが、ひとそれぞれ、自由で、勝手だ、ということ。

「あ、わたし、アパート、こっちなんだ」

 頃合い、引き際、そういうさまざまなことばがずっしりと質量を持って三矢と俺とのあいだにたゆたう。口のなかにのこった日本酒の味を、意識する。

「じゃ、気をつけて」

「またいつか」

 会えてよかったのか、わからない。モラトリアムのばかやろう。すがすがしいほどの青が闇に溶けていく。またいつか。会おうと思いたって会うことはないだろう、元恋人との二十分間が、あっさりと、蒸発して夢のようになっていく。

 首もとに熱気が戻る。気温がまたすこし、上昇した。

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モラトリアムのばかやろう 藍雨 @haru_unknown

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