1-7 合気道 剣道 夜桜

 靴下では滑ってしまいそうなくらい、ツルツルの木の階段をヒナコは上った。

 技をかけあう合気道の稽古は、なかなか面白かったけれど、見てるだけではどうにも退屈してしまう。時々二階から聞こえる歓声や拍手が気になった。何より武道場の二階に興味があった。


「やっぱりピンクでしょ」

「いや、赤のほうが絶対映えるって」

 窓際では北川奏太ら生徒会の面々がしだれ桜を見ながら話し合っている。桜をライトアップしようとして、何やら機械を調整しているようだ。夜桜といっていいほど、外はもう暗くなっていた。

「むしろフィルターなしで、そのまんまライトあてたほうがよくね?」

 奏太がアゴに手をあてながら言う。


 二階は板張りの剣道場だった。壁際に剣道の防具と竹刀が整然と置かれている。

「だよね」

 ヒナコがつぶやく。一階が畳の柔道場なら、二階は板張りの剣道場だと予測がついた。

 生徒会の連中は花見話しに夢中でこちらに気づく気配もない。

「昔は強かったってのは、本当みたいね・・・」

 ヒナコは引き寄せられるように防具棚に近づくと、黒光りする胴をコンコンと軽く叩いた。表情が優しくなる。ついで竹刀がたくさん立てかけられた箱のなかから、木刀を一本引き出し、柄から剣先までじっくりと見つめる。

「白樫かな。いい重さ」

 左手一本で柄を持ち、上から下へゆっくりと振り下ろす。再び振り上げ、今度はゆっくりと横に振り下ろす。


「あ、ニコマルだ」

 窓辺にいた北上奏太が木刀をかまえるヒナコに気づいた。

「あ、ヒナコちゃん、きてくれたんだ」

 高野文子がヒナコのほうに立ち上がろうとするのを藤原千明が制す。

「今近づいたら、殺されますよ。ちょっと、なんか集中してるから」

 ヒナコはもう一度木刀を握りなおす。左手の小指、薬指、中指の三本でぎゅっと握り、人差し指、親指を軽く添える。そのうえに右手をそっと重ね、同様に、小指、薬指、中指と力を入れていく。背筋を伸ばし中段の構えをとり、息を細く長く吐く。

 一歩前へ出ながらゆっくりと一振り。一呼吸置いて、今度は後ろに下がりながら一振り。

 違和感がある。木刀を持つのは久しぶりだが、それにしても足元がフワフワと落ち着かない。

 ヒナコは白いショートソックスを脱ぎ、丸めて制服のポケットに押し込んだ。足の裏で床を掴む。床の滑りを確認するように、スッスッと足を摺る。木の冷たさが心地よい。

 仕切り直し、もう一度先程と同じ動きをする。一歩前に出ながら、ゆっくりと一振り。余計な力は入れず、上から下へストンと木刀を落とす。後ろに下がりながら、同じように一振り。振り下ろされる木刀の軌道は、ぶれることなく左右を分断する。中段の構えのまま、ヒナコはピタリと静止した。裸足になったことで下半身が安定する。スッと伸びた背筋が、小柄で丸いヒナコの体を一回り大きく見せる。

「奏太さん、カウントダウンお願いします」

 吸い寄せられるようにヒナコを見つめていた奏太は、後輩の声に我に帰った。

「あ、OK。んじゃいこーか。カウントダウン5秒前」奏太は片手を頭上にあげ、パーに開いた指を折り畳んでいく。

「4!」

 生徒会の面々も声をそろえ、お祭り騒ぎのカウントダウンをはじめる。

 それでも集中したヒナコには何も聞こえなかった。中段の構えのまま、見るとはなく細めていた目を、そっと閉じる。


 ヒナコの脳裏に、歓声がよみがえる。激しくぶつかり合う竹刀の音。甲高い気勢ある声。

「メーーーーーン!!!」

「コテーーーーイ!!!」

「キエーーイ!!!」

 夏。中学最後の大会。板張りの市民体育館での決勝戦。相手はヒナコより二回りも大きかった。息つく間もなく連続技を仕掛けるヒナコを、相手は巧みにかわす。間合いが遠い。届かない。思いきって懷に飛び込もうとするが、弾き飛ばされる。面金越しに見える相手の表情は、能面のように冷たく無表情だ。圧倒的な力量差を見せつけられ、ヒナコは固まった。


 久しぶりに木刀を持った。懐かしい。嬉しい。けれど思いだすのは、やはり中学最後の試合だった。

「飛べ」

 目を閉じたまま、ヒナコは口の中で小さくつぶやく。

 あのとき、一方的に攻めているように見えて、気圧されていたのはこちらだった。

「飛べ」

 抑えた声で、言葉にだす。

 

 固まったヒナコの一瞬を見逃さず、相手は面を打ってくる。速い。速いが、ヒナコには見えている。見えているどころか、スローモーションのようにはっきりと見える。しかし、見えるのに動けない。

 

 過去の幻影を振りきるように、ヒナコはカッと目を見開いた。

「飛べ!!」

 中段に構えた剣先がピクリと動いた。



 後半の技が終わると、稽古を始める前と同じように、皆、横二列で正座をした。汗を拭い、息があがり、表情は清々しい。

 結局さくらは合気道の体験も出来ず、二階にも上がれず、パイプ椅子に座ったまま、稽古が終わるのを見守った。

「今日は、正面打チ小手返シ、後半は呼吸投ゲをやりました。このワザをレンゾクでやるとどうなるのか、サイゴにモハンエンブをやります」

 ジョーはそう言うと、一番右端に座っていた黒帯の桐谷に目配せをした。

 桐谷は立ち上がり、ジョーと向かい合う。お互いに一礼をすると、桐谷はジョーに突進していった。ジョーは体を反転させ桐谷を投げる。桐谷はすぐさま立ち上がり、また向かっていく。ジョーは今度は一度受け止めてから、相手の手首を返す。小手返し。今日練習した技だ。桐谷はくるりと回転し立ち上がる。投げられても投げられても桐谷はすぐに立ち上がり向かっていく。ジョーはふいに体を屈め、屈んだ体ごと相手の下半身にぶつかる。桐谷の体が宙を舞う。技は流れるように続いた。相手の肘を押すように投げる。奥襟を掴み振り回す。相手に触れもせず、勢いだけで投げたかと思えば、柔道の背負い投げのように力強く投げ飛ばす。掌底で相手のあご元を押すと、桐谷は頭からドーンと強く畳に叩きつけられた。ひとつひとつの技がすべて違う。更に速度が増し、畳に投げつけられる音がドーンドーンと道場に響きわたる。大人は食い入るように見つめ、子供たちはそのスピードと迫力に、なぜだか大袈裟に笑いだす。

 桐谷の息があがり、足元がふらついてきた。それでもジョーが追い打ちをかけることはなかった。散々投げ飛ばしてはいるが、ジョーから攻撃を仕掛けることは一度もなかった。力を抜いた自然体でジョーは桐谷が向かってくるのをさばいている。

 あれ?

 さくらはハッとした。

 ジョーの柔らかい構えが、サヤカの凛とした立ち姿に重なった。しだれ桜の下で舞うサヤカと、淀みなく相手をさばくジョー。流れるような足さばき。相手を誘い込むように舞う、柔らかな手の動き。前足を軸に、コンパスのように円を描く足の運び。屈み、飛び跳ね、回転するサヤカの舞。テニスコートで触れもせず相手を投げたサヤカの姿も重なる。


 畳の数センチ上を低空飛行して、外から花びらが舞い込んでくる。見たこともない合気道の技が鮮やかに決まり、上昇気流を捕まえたように、花びらがふーっと舞い上がる。


「4!」

 奏太がカウントダウンの声をあげる。

「3!」

 生徒会の面々が大げさな声で追随する。

「2!」

 会長と藤原千秋がキュートにブイサインを決める。

「1!」

 山田一、高野文子、角田秀一が人差し指を突き上げる。

「ドーーーーン!!!!」


 生徒会のかけ声と同時に、暗闇に埋もれていた目の前のしだれ桜がピンク色にライトアップされ、窓枠いっぱいに浮かびあがった。


「飛べ!!」

 外がパッと明るくなったその瞬間、ヒナコは強く床を蹴り、高く、大きく、前方に飛んだ。

 ドーーーーン!!!!

 床が抜けるくらい強く踏み込む。木刀がビュンとうなる。気を溜めに溜め、これ以上ないタイミングで放つ一太刀。


 さくらはサヤカの幻影を見ていた。体軸をぶらすことなく、右に左に回転するジョーの動きが、ここにはいないサヤカの舞いと重なっていく。

 ジョーの動きにサヤカの幻影がピタリと重なったそのとき、ドーーーーンという音と歓声とともに、外がパッと明るくなった。暗闇に埋もれていたしだれ桜が、ピンク色に浮かび上がる。開け放した戸枠という戸枠から、道場全体を覆うほど濃いピンクの光が射し込んでくる。

 ジョーの模範演武を見ていた道場生達も、「おおー」とざわめく。

 しかしジョーと桐谷は注意を削がれることなく演武を続けた。ライトアップされた桜を背景に、ジョーが渾身の気を込め、最後の呼吸投げを放つと、桐谷は大きく宙に投げ飛ばされ、畳に背中を打ちつけられた。


 ドーーーーン!!!!

 ドーーーーン!!!!

 ドーーーーン!!!!


 桜のライトアップ。

 ヒナコの一太刀。

 ジョーの呼吸投げ。


「うおっ!!」

「きゃー!!」

「なに!!」

 二階では生徒会の面々が飛び上がって、ヒナコを見つめ、一階では整列した道場生がジョーの演武に拍手をする。

 さくらは圧倒されていた。

 見ているだけで、心が浄化された気がした。

 今日はじめて出会った合気道。

 こんなにも強く、美しい。

 出会ってしまった。

 自分からやりたいことなんて、今までこれといってなかった。まして体を動かすことなんて、ましてや武道だなんて、ついさっきまで思いもしなかった。だけど、もしかしたら、夢中になれるかもしれない。もしかしたら、青春みたいなことができるかもしれない。もしかしたら、これは運命の出会いかもしれない。

 入学式の日に、一目惚れしてしまった初恋のように、さくらの胸はドキドキと高鳴った。

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